第1話

文字数 1,979文字

 いつもここからが問題なのだ。

「黒石先輩、指のレッスン嫌いだったでしょう」
 白井はいつの間にか背後から指を伸ばして、僕がつまずいていた旋律をいともたやすく弾いて見せた。
 こいつ、学業優秀、眉目秀麗と騒がれすぎてちょっと勘違いしているに違いない。後輩のくせにいつも妙になれなれしい態度で、かんに障る。
「邪魔だ。ピアノくらい一人でゆっくり弾かせてくれ」
「つれないこと。前世の恋人だというのに」
「はあ?」僕は思わず両手で鍵盤を押すと椅子から立ち上がった。
「お前、熱でも――」
「いい加減、思い出してください」
 彼は僕の手を取ると、そっと細い指を絡ませた。



 まばゆい光の中で、僕を(のぞ)き込んでいるいくつもの顔がある。
「ご無事で、フィル様」
 僕は、周囲を見回した。気を失っていたらしい。
「姫はご無事か?」
「大丈夫です。フィル様の捨て身のご活躍で、巨石の下じきにならずにすみました」
 立ち上がろうとした僕はふらついて膝をついた。
「まだ、無理ですよ。姫をかばって巨石に当たったんですから」
 副隊長が冷たい水で濡らした布を持ってきた。
「普通だったら即死です。まあ、黒騎士殿の石頭に万歳ってところですな」
「姫は?」
「脱兎のごとく、さっさとお逃げになりました」
 国王が心臓の病で倒れた後、王国をただ一人で支える王女ラファイア姫。日夜敵国から繰り出される刺客から身を挺してお守り申し上げるのが親衛隊長である僕の責務である。
 よく言えば誇り高い性格、悪く言えば高飛車な姫はお礼一つ言わないが、純白の姫と呼ばれる美しい姫に仕えることができるだけで僕は満足していた。
 ただし、どうも引っかかることがある。
 まるで姫が僕の失態を呼び込んでいるような気がするのだ。
 そして、僕が騎士隊長から叱責を受けているとき、カーテンの隙間から妙な視線を感じるのだ。鈴を転がしたような忍び笑いとともに……。



「そんなことを私に聞きにいらしたの?」
 神の気まぐれとしか思えない美貌の姫は、まっすぐ僕のほうに向き直った。
「先日、私の剣がすぐに抜けないように高価な透き通った糸で結んであった事や、地図が書き換えられていたこと、すべて姫しか工作できないとの結論に至りまして」
「まあ」
 姫は形の良い眉をひそめる。
「お許しください。や、やはり、私の勘違いで――」
「ご明察です、黒騎士殿」
 一言の元に肯定して、姫は禍々しいほどの微笑みを浮かべた。
「好きな人が完璧であればあるほど、折れた姿が私をゾクゾクさせるのです」
「はあ?」
「鈍感ね」
 まさかその好きな人って……、考えている暇は無かった。
 姫の柔らかい唇に襲われ、僕は心を吸い取られてしまった。



 姫とともに命がいくつあっても足りないような冒険を何度かした後。
 身分違いの恋も国王から容認され、僕たちの婚礼の祝賀ムードが盛り上がってきた頃。
 その日は唐突にやってきた。
「危ない」
 僕は姫に向けられた刃に気がついて、飛び込んだ。無意識のうちに剣を抜き、刃で刺客を刺し貫く。相打ちだった。
 姫の叫びが響き渡る。
「お別れです、姫」
 さすがの姫も目に大粒の涙を浮かべている。
「来世ではきっと、あなた様を妻に」
 僕は苦しい息の下で姫に告げた。
 しかし。
 いきなり涙を吹き飛ばす勢いで姫は首を振った。「いいえ」
「はあ?」
 まさか、虫の息でこの間の抜けた返事をするとは思わなかった。
「残念だけど私たちは永遠に結ばれないの……」
「嘘でもいいから来世で結ばれましょう、くらい言えないんですか。僕は死ぬんですよ」
「私にはわかる。遠い未来、いつか私はまたあなたに出会う。でも私は運命の女神にお願いしているの。私たちの恋は絶対に成就しない事を」
「なんで、そんな事を」
「だって、成就したら輪廻(りんね)がお終いになってしまうわ。安心して、きっと次の恋も波瀾万丈よ」
 暗くなる視界の中で勝ち誇った笑みを浮かべて彼女の顔が近づいてきた。
 唇にかすかに柔らかい感触を感じる。と、同時に僕の視界は暗闇に閉ざされた。



「ね、思い出したでしょう。先輩」
「う、うう」
 僕はうなった。確かに彼を愛していた。しかし、それはあくまではるか過去の、どこか別の世界の事。彼が純白の姫君で、僕が黒騎士であったからだ。
「だから、いいでしょ」
 彼は僕の首に男にしては白すぎるその細い腕を伸ばしてきた。見覚えのある瞳は勝ちを確信しているかのようにあでやかで不敵な光を放っている。彼の顔が、唇が近づいてくる。そして、僕の心の奥底の前世の記憶がそれを拒ませない。
「ね、もう逃げられませんよ」
「よせっ、昔の僕とは違うんだ」
 僕は奴を突き放すと、慌てて音楽室を飛び出した。
 でも、いつまで僕の理性が持つことやら。背後からからみつくように姫の叫びが追ってきた。
「あきらめませんからね、先輩」


 高校生活は、まだまだ続く。
 そう、いつもここからが問題なのだ。
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