西風の警告

文字数 832文字

 例えば夜になってからウィーンから北に向かう街道をずっと車を走らせる。それは東京から中山道を行くなんてこととは全く違っていて、何もない真っ暗な道をしばらく行くと細い石畳になって町に入り、市役所と教会のあるナトリウム光線に浮かぶ広場をあっという間に通り過ぎ、また真っ直ぐの闇に沈む道になるという具合なのだ。

 街に人影は全くなくて、それは東京から地方都市を訪れると二時間ほど遅い時間のように感じたことのある人なら、あの感覚をもっと強めたものと言えばわかってもらえるかもしれない。そうした単調な繰り返しは幻想あるいは記憶を招き寄せるもので、だからといって助手席にそれまで付き合った女の子が次々と現れるというのはラジオ・ドラマだけのことだろう。

 ぼくはあの脚本誰々、演出誰々と最後に告げるナレーションがとても好きで、別の誰かに生まれ変わる時もああいう声で、このごちゃごちゃした人生を要約してくれたらすっきりと目が覚められるように思う。

 ……また別の町に入って、そこはエゴン・シーレの生まれ故郷だった。剥き出しの瓦礫のような人物ばかり描いた彼と軒の低いマジパンでできたような小さな町はなんの関係もなさそうだったが、ドナウ川は絶望すら優雅な街の外れを危ういほど低く流れている。

 ぼくはここで引き返すことにした。それは車を走らせようとした時と同じで、発作のようなものと表現するしかなった。

「知らんぷりするのね」
「室内楽の演奏家は楽譜だけ見て勝手に弾いてるようだけど、互いの音を聴いているよ」

 どうしてため息が返ってくるだけの警句を相も変わらずぼくは口にするのだろう。こんな西の果ての河畔まで来てくれたというのに。

 この時間、東京はもう夜明けだろう。曙光が墓標のような高層ビルを浮かび上がらせ、想像の中でも限りなく眩しい。

「そう。眠いの」

 秋風は毛布から覗く脚を見ていたのだろうか。彼女の声とにおいが、ここがどこでもなく、今がいつでもなく、ぼくが誰でもなくなったことを告げていた。

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