5 鷹狩
文字数 3,305文字
晴れた、冬の日だった。
野原には、天幕がずらりと並んでいる。
狩りの開始にあたり、表上式がとり行われた。
名を呼ばれた者は進み出て、帝にあいさつするのである。
宮中では、人の位によって、身につけてよい衣服と色が決められている。
この日、
すでに数々の名が呼ばれ、それぞれが帝の目通しを受けた。
いよいよ最後が近づく。
居並ぶ人々の期待は高まるが、本人の姿がない。最終に呼ばれるのは、今は世を忍び、しばらく姿を見ない、あの人物と聞いていた。
読上げ役は不在も構わず、宣した。
――在原業平
皆がざわめく。
その時、白い幕引を上げて、男が出てきた。
その出で立ちに誰もが息を飲んだ。
男の狩衣は、渋草の地に、紅のくくり紐。細い金の露飾り。左袖には、大きな鶴が乱れ模様に浮かび、銀糸で形取りされている。左腕を弓手としてあげれば、狩られたように鶴が下向きに成る趣向であった。
白い鶴にあらず、銀の鶴。見事な翁さびである。
賛嘆の声の中、業平は帝の御前へと進み、あいさつする。
「主上におかれましては、御機嫌うるわしく。業平、帝の御召しにより参上つかまつりて、ございます。ただ今は、出仕のない身。このような姿でお目にかかり、おそれ多いところ。年寄り染みてと、お咎めなきよう」
帝の頬がゆるむ。
「よくぞ、参ってくれた」
そして、業平の姿かたちを改めて目にすると、ゆっくりとうなずいて、腰を上げた。
帝自ら、高らかに叫ぶ。
「これより、大鷹狩りぞ」
狩りの最中も、業平の参上が人の口に上った。
天下の色好みとして、殿上人の中に、その名は知れ渡っていた。和歌を詠ませては右に出る者がいない。女であれば、一度は交流したいと想う男。
若き日々、数々の貴女と浮名を流し、その逸話は、半ば伝説となっている。ここしばらくは世の中から隠れ、最近は会った者もおらず、すでに死んでいるという噂も出ていた。
鳥獣の獲物は少なかった。
野うさぎなどの小動物は得たが、鹿も猪も見かけない。時期も遅かった。
昼過ぎから、雪が舞い始めた。地は、白い粉をまぶしたように、斑になった。
すでに原野は果てとなり、この先は湿地だ。
冬場の狩りに、帝が御自身で出るのは、もう最後かもしれない。近侍の供の者たちは、せめて大物一つと、獲物を願った。
業平は、この日、
鷹飼の役目は、鷹の使い手として獲物を上げることにある。
経験がないわけではなかった。
まだ官位の低い頃、鷹飼の元にいたことがある。二年ほどで、内裏の検非違使に転じたが、一通りは鷹の扱いを教えてもらった。
ゆるい日差しが雲間から射してきた。雪の簾に光が散乱し、その中に鳥の群れが見えた。
鶴の一群だった。
「おまかせを」
業平は、鷹の使い手を連れて、先陣する。
湿地の葦の中に右膝をつき、身を潜める。
鶴の群れが近づいてきた。
先頭を飛ぶのは狙わない。群れを率いているのであり、これを倒すと、もう群れは飛来しなくなる。
一群の通過を見計らい、鷹を放った。
鷹は何度も仕掛けるが、若い鶴が多いのか、取り囲まれることもあり、うまくいかない。
鷹使いは心配して、右に左にと動きを追っていたが、沼の泥土に足をとられた。
業平がすぐ追いつき手を当てると、痛がる。くじいたらしい。
「下がっておれ」
人を付けて下がらせたが、弱ったことになった。
鷹は警戒心から、見知らぬ他人には慣れない。鷹も一緒に下がることになる。
どうしたものか。
思案しつつ、音に振り返ると、一頭の馬が、こちらに向かって来る。
兄の行平が、馬で駆けつけてきた。後ろに、一人の若者を乗せている。
その若者の右腕には、鹿の革が巻かれ、一羽の鷹がのっていた。
行平は、後ろを向き、若者に声をかけた。
「
「はい」
若者はさっと馬から飛び降り、業平のもとへ。
彼の足元にひざまずくと、顔を見上げ、こう告げた。
「業平様。信です。和泉大宮の、しん坊です」
その名が、業平に記憶をよみがえらせる。心に、温かいものが湧き上がった。
かつて、和泉に通っていた女がいた。
いい女で、交流は何年も続いたが、身分の違いから、正式の間柄になることはなかった。
いつか、任官の都合でしばらく逢えない時期があり、再び戻ると、男の子が生まれていた。
業平は、事情を女に問うたが、女は何も答えなかった。
その子は、名を信といい、気立てがよく、業平は「信坊」と呼んで可愛がった。
ある時、信は翼を傷めた鷹の子を見つけ、育てた。
心得があった業平は、鷹の使い方を教えた。
ちょうど彼が働き盛りの時であり、宮仕えに疲れた業平にとって、和泉での信との鷹遊びは、大いに慰めとなった。あの時の鷹の名は、
屈んだ若者は、背幅から、もうすぐ大人と知れる。
業平は驚くより、意外な心持ちがした。
「和泉の信坊か」
「はい」
「大きくなったな」
若者はうなずき、かすかに眼がうるむ。顔を赤くし、何かをこらえているようだった。
そして、業平の指示を待つ姿勢をとった。
細かな雪が、その頬と髪に吹きかかる。
ふと空をみると、ひときわ大きな鶴が舞い来たった。
老鳥のようだが、見事な鶴で、ゆうゆうと羽ばたいている。
羽は白さを失い、さび色となり、淡い日光を受けて銀色に輝いていた。
離れた場所で、帝の近侍が、この銀の鶴を射ようと、弓に矢をつがえた。
帝は、それを手で制した。
「いらぬ。まあ、見ようではないか」
風が強まる。
目の前の若者は、あるいは業平の子であるのかもしれなかった。
業平は、顔にかかった粉雪を払った。
そして信を見、昔のように、右目をつぶって合図する。
昨日のことのように、自然と声が出る。
「信坊、あのでかいのを仕留めるぞ」
「お望みのままに」
「この鷹の名は、何と」
「
業平は、はははと声を出して笑った。信も、白い歯をみせてにっこりした。
狭山というのは、業平が若い時分、宮廷で飼っていた鷹の名だ。
その飛ぶ速さが、山をも狭めるとの謂である。
子どもの頃の信に、都にいる鷹の名を聞かれ、教えた。
それを憶えていて、今の鷹に名付けたらしい。
業平が狭山を見ると、鷹は、きゅっと首を回し、彼を見つめてまばたきした。
業平と信は、声を合わせ、叫ぶ。
「さやま、いけっ」
鷹は、鋭い声で応える。
鷹と、人と、三つの叫びは、あの時のままだった。
飛び立った狭山は、一直線に飛び、銀の羽根を苛んだ。
鶴は抵抗したが、飛行の均衡を崩し、高度を落としていく。
狭山の爪と
老いた翼は、業平と信の先方に落下した。
業平は、すばやく背の
信も、走る。
白布のような地に、大鳥は胴を横たえていた。
二人は、鶴の側に屈む。銀の王は、荒い息をしている。
信は、鶴の脚を押さえた。
業平は、左手で嘴を封じ、右手は矢の中ほどを握る。
「慈悲ぞ。ゆるせ」
獲物の急所を突く。
粉雪が風に舞い、つかの間、二人の影を隠した。
仕留めた鶴は、帝に献上された。
この鷹狩で、一番の獲物だった。
地を這う獣ではない。天から降ってきたのだ。
帝は、業平と信に、じかに褒美を賜った。
その年の冬、都ではしばらくの間、業平と鷹狩の話で持ちきりだったという。