第一話 物語の価値はどこにあるのか? #1

文字数 4,499文字

 身を切り刻む暴風が、この足を止めようとする。
 それでも、迎え撃つ無数の雨粒に視界をやられながら、僕は前へと進まなくてはならない。たとえそれがどんなに残酷で過酷な運命なのだとしても、僕は絶対に譲れないこの想いを胸に抱き、決して砕けぬ矢の鏃のように、この嵐の中を突き進んでいくのだ──。
 瞼を閉ざす。何度か、深呼吸を繰り返した。共に嵐を駆けていた身体がひどく汗ばんでいる。わたしは、胸に抱くようにして本を閉ざした。
 徐々に、自分の世界を取り戻していくのを感じる。激しい嵐の唸りが、わたしの世界から消えていく。エアコンが駆動する音が耳に届き、温かな送風を頰に感じた。腰掛けていたベッドの柔らかな感触がお尻に甦る。わたしは、わたしという中学二年生の少女が住んでいる世界に帰ってきた。
 胸に押し当てていた文庫で、心臓の音を確かめる。それから、ページを捲っていき、いくつかの場面を回想する。何度も何度も、この胸が震えた瞬間を思い起こす。滲んだ涙を拭ったせいで、きっと今のわたしの瞼は赤い。それから、もう一度ラストのシーンを読み返す。とても愛おしく、尊い物語だと思った。
 この物語の中には、わたしがいる。
 主人公は男の子だったけれど、これまでに読んだ他のどの物語よりも、激しく感情移入してしまった。
 こんなふうに、物語の中に自分を見つけると、胸が躍る。
 なんだか、わたしみたいな子が他にもいるんだなって。
 もしかしたら、わたしみたいな子でも、誰かを勇気づけられるんじゃないかなって。
 ほんのちょっとだけど、希望が持てる。
 夢中になって読み耽っていたせいだろう。掌に、汗をかいていた。そのおかげで、手にした文庫本のページは端の方がじっとりと濡れていた。オビの折り返し部分が、汗を吸って千切れてしまいそうになっている。書店の娘だから、というわけではないのだけれど、本はなるべく美しい状態のまま持っていたい。これ以上、傷めてしまわないよう本棚に収めておきたいところだったけれど、わたしは暫くその本を胸に抱いたまま、ベッドに身体を横たえていた。ページを捲り、挿絵をじっくり眺めて、ぱらぱらと捲ったときの本の薫りを確認する。やっぱり、その匂いはわたしの汗を吸って歪んでしまっていたけれど、これらの変化は、わたしが物語を主人公と共に歩んだ証でもあるから、そう考えると愛おしくも感じる。本にはそれぞれ、物語を味わった人の数だけの傷み方がある。滲んだ汗。落ちた涙の痕。零れたお菓子の欠片。鞄に入れて毎日を共にしていたせいで、くしゃりと曲がってしまったページの角。それらは、わたしがこの物語の世界を生きたのだという、この世で唯一無二の証だ。
 それから、思い立って身体を跳ね起こした。
 膝の上に文庫を置いて、スマートフォンの画面に視線を落とす。
 わたしが心を震わせたこの物語を、他の人たちはどんなふうに読んだのだろう。
 この本を読んだ人たちの感想を知りたくて、ネットでいちばんメジャーな感想サイトを開く。そこではあらゆる本への感想が、数多くのユーザーたちによって一覧表示されていた。家のインターネット回線は、ときどき調子が悪い。だからか、ページが読み込まれるまで、少しだけ時間がかかった。その僅かな時間にすら、わたしの心はどきどきと激しく脈打っていた。
 現れたコメントの数々に、目を通していく。スマートフォンの画面を指先で撫で下ろしながら、ただ静かにそれへ眼を通した。

『この主人公無能すぎる』『主人公がなにもできず他人任せなので、読んでいて苛々するだけ。オススメしません』『コイツ殴りたいなぁ。こんな作品を受賞させたらダメでしょう』『文章もストーリーもありきたり。更には主人公のキャラが幼稚でウザイということもあって、星一つ』『主人公の鬱屈というか、ネガティブなところがダメ。十ページで断念』『いくら成長するってもナヨナヨしすぎなんだよ。卑屈すぎて引く。陳腐』

 ゆっくり画面をスクロールさせながら、わたしはいつの間にか唇を嚙んでいた。
 あんなにも興奮に脈打っていた鼓動は、今はもう氷みたいに冷え切っている。指先から熱が奪われて、代わりに頰が熱くなった。
 ネット越しの、誰とでもいい。この感動を、共有、したかった。
 わたしは、この物語の中に、わたしを見つけた。
 弱くて、頼りなくて、力なんてなくて、それでも諦めなければ、歯を食いしばっていれば、いつかは前に進めるんだと。一つの信念を、鋭く強固な鏃へと変えて、突き進むことができるんだと──。そんなふうに、思いたかった。
 動揺、しているのかもしれない。画面を閉じようとして、何度も操作を間違えた。こんな感情は初めてだった。これはなんだろう。怒りだろうか。悲しみだろうか。
 ただ一つ理解したことがある。
 わたしは、やっぱり、そうなんだ。
 無能で、勇気がなくて、卑屈で──。
 だから、みんなから嗤われる。
 物語の主人公に、なってはいけない存在なのだ。

 厄介なことを任されてしまった。
 雨がざぁざぁと降っているから、エアコンのないこの音楽室は、ひどく肌寒い。
 放課後、合唱コンクールの練習をしよう、と言い出したのは綱島(つなしま)さんだった。
 彼女は、音楽の先生に仕事を頼まれたのだという。それが放課後に、合唱に力を入れていない男子たちを誘って練習をするというものだった。要するに、不真面目な落ちこぼれ男子たちを鍛えてやってくれ、ということなのだろう。綱島さんは歌もうまいし、行動力も人を纏める力もある。先生からも、男子からも信頼が厚い。まるで、少女漫画に出てくるような……。なんというか、そう。わたしなんかより、ずっと物語に相応しい人だ。
 今、この音楽室に、綱島さんたちの姿はない。女子はわたし一人だけ。
 そして騒々しく机の上に乗ってじゃれあっている男子たちが、大きな声で何度も笑い声を上げている。わたしは、なんだかここにいてはいけないような場違いな気持ちになって、寒さのせいだけではなく肩を縮こまらせながら、文庫本に視線を落としていた。
 綱島さんたちは、女子四人でトイレに行っているところだった。わたしに仰せつけられた仕事というのは、綱島さんの鋭い視線がないうちに、男子が勝手に帰らないか見張っていることだった。
 なかなか進まない物語のページに、ふと影が落ちる。
 見上げると、楠木君の整った顔が、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「なぁ、俺ら、もう帰るから」
「え、それは」
 困る、と声を上げる暇もなく、楠木(くすのき)君は矢継ぎ早に言った。
「だって綱島たち戻って来ねぇしさぁ。俺ら、牧浦の家でゲームやる予定なんだって」
 なぁ、と声をかけると、じゃれ合っていた男子たちも口々に同意した。
「あの、でも……。一緒に、練習をしようって、綱島さんが……」
「だってもう放課後だぜ。部活でもなんでもねーんだから」
「強制力とかねーっしょ」
「ていうか、むしろ綱島がいないいまのうちに即去りしたいわ」
「あの雌ゴリラ、おっかねーからよ」
 勝手なことを言って、男子たちが立ち上がっていく。
「ま、待って」わたしは慌てて腰を上げた。「わたし、みんなが勝手に帰らないようにって、言われてて……」
「あー」男の子の一人が、哀れむような表情を見せた。「成瀬さん、綱島さんに使われちゃってる感じ?」
「成瀬さん、どーりで、綱島のグループからちょっと浮いてると思ったわ」
「命令押しつける子分にするとか、カワイソー」
「あの、わたし、そんなんじゃ……」
「まぁ、とにかく俺ら帰るから」楠木君が、少しばかり申し訳なさそうに言う。「綱島によろしく言っておいて。というか、目を離すのが悪いから。成瀬(なるせ)さん、気にしなくていいって」
 それから、男子たちは次々に教室から出て行く。啞然としていると、最後の一人が戸を閉める寸前に、わたしに向かって笑いかけて言った。
「あんまさー、いいなりになってないで、もっと自分もった方がいいんじゃね?」
 戸が閉まると、男子たちの盛り上がりの声が廊下でどっと上がる。なにその決め台詞、マジウケるー。お前成瀬好きなのかよ。いやいや、ないわー。あれはないわー。あの地味子、暗すぎっしょ。
 足音と共に、喧噪が遠のく。
 わたしは頰を赤くしたまま、立ち尽くしていた。
 少し遅れて、怒りが膨れあがってきて、そうして、でもどこにそれをぶつけたらいいかわからずに、ぺたんと椅子に腰を下ろす。次に襲ってきた感情は、畏怖だった。綱島さんの言いつけを護れなかった。見張っているように言われたのに、その役目を全うできなかった。
 どうしよう。
 怖々と、他には誰もいない音楽室の戸口に目を向ける。この場所から、自分もすぐに逃げ去りたい気持ちになった。大丈夫、と言い聞かせる。大丈夫。きっと赦してくれる。きれいな、あの見とれてしまうような笑顔で、秋乃ってば、もう仕方ないんだから、と言って赦してくれる。きっとそうに違いない。
 だって、わたしたちは友達だから。
 不似合いだけれど、友達だから。
 だから大丈夫。
 暫くして、姦しい声と共に、扉が開いた。
 楽しげで、綺麗な、綱島さんの声が交じっていた。
 その和気藹々とした空気は、音楽室の中に男子が一人もいないことに気がついた綱島さんの声で、一瞬で崩壊した。
「は? 男子、どこ行ったの?」
 訝しむように教室内を見渡し、それから、わたしに目を向けてくる。
「あきのん、男子たちは?」
 北山さんにそう訊ねられたけれど、わたしはうまく答えることができず、何度か口をぱくぱくさせた。
「あちゃー、さては逃げられたか」
 佐々木さんが笑って言う。
「え? ていうか、あたし、秋乃に頼んだよね? 男子たち、逃げるから見張っておいてって」
 周りの女の子たちの様子とは違って、綱島さんの言葉は厳しかった。現状を理解しがたい、という不思議そうな表情で、わたしのことを見つめてくる。
「あの……。ご、ごめん」
「いや、ごめんとかじゃなくない? ウチら、これから練習するんだよ? ていうか、男子を鍛えるのがメインなのに、その男子を帰すってなに? どういう神経してるの?」
 わたしは呻く。
 言葉が、出てこない。
「なんなの、アンタ、そんなこともできないわけ?」
「ちょっと、リカってば怒りすぎだってばー」
「そーだって。だいたい男子の相手、あきのんには荷が重いじゃん。早く戻らなかったウチらにも責任あるって」
 みんながフォローをしてくれる中で、わたしは綱島さんの言葉に身を打たれていた。
 なんにもできない主人公、と笑う感想の一文を想起する。それから、その主人公に心を重ねて、胸を躍らせていた愚かな自分のひとときを思い返した。
 自分を見つけた。
 そんなふうに考えた自分は──。
 こうして罵られるしか能のない。
 物語に、いちばん相応しくない人間だった。
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登場人物紹介

千谷一也(ちたにいちや)……売れない高校生作家。文芸部に所属


小余綾詩凪(こゆるぎしいな)……人気作家。一也の高校へ転入


成瀬秋乃(なるせあきの)……小説を書いている高校一年生

真中葉子(まなかようこ)……秋乃の中学時代の同級生

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