第1話  ブレないという生き方

文字数 1,731文字

バッハ松原。私の同級生の女子。昭和はクラスに40人もいて、一年間ほとんど喋らない子もざらにいた。バッハ松原もその一人だ。このあだ名は天然パーマでピアノが上手かった彼女に私が勝手に付けたものでクラスメイトが彼女を呼ぶあだ名は別にあった。彼女の存在感は薄かったが、私は彼女に一目置いていた。どんな縁かバッハとは6年間同じクラスで彼女の動向を誰よりも見ていた。大抵の子供は大した目的もなく、半日で終わる土曜日を待ちわび、吉本新喜劇を見ながら昼飯を食べ、明日は日曜日だという余裕の中「8時だよ!全員集合」を見る。そんなささやかな幸せのお陰で、なんとなくやり過ごす事が出来たけれどバッハは違った。私は一度だけバッハから話しかけられた事があった。バッハが言うには母親は若い頃ピアニストを目指していたが才能が無いと感じ、仕方なく結婚をして仕方なくピアノ教室を始めたのだと言った。大して仲の良い訳でもない私に家庭内の入り組んだ話をしてくれたのかは分からないが、それを言った後の彼女の眉は八の字になり、こう言った。「お母ちゃん、私に期待してんねん。そんなん困んねん。あんたはえぇなぁーいっつも自由そうで」こもった声で呟いたバッハは何か見えないものから逃げだしたいように見えた。バッハはピアノの発表会前になると休み時間を返上し、机の上に紙の鍵盤を広げて狂ったように指を動かしていた。呑気な私は「よーあんなに指が動くもんや」と彼女を見ていた。彼女とは学校以外にも近所の銭湯でよく一緒になった。しかも、毎週末訪れる銭湯でモヤモヤを洗い流しているように見え、その後は決まって同じバニラアイスを食べるのだ。当時のアイスクリームは今ほど小洒落てもいないし味も複雑ではなかったけれど美味かったし、新発売と銘打って種類も沢山あった。そのつど私はそれらに振り回され、みるものこじきで食べていたけれど、これが一番!と言うものが私にはなかった。けどバッハはどんなに魅力的なネーミングのアイスがあっても絶対に同じバニラアイスしか食べなかった。冷蔵庫を開け、迷う事なく紙カップの平凡なそれを取ると、つま先を立て番台のおばちゃんに100円を払い、お釜式のドライヤーに頭を突っ込み、髪を逆立てながら木の匙で無表情で食べていた。バッハの逆立った髪がおさまるのを待って一度だけ聞いた事があった。「なぁー、なんでいつもバニラしか食べへんの?他にいっぱいあるやん。ナッチョコジャムンチョとか宝石アイスもバニラやで?ホームランバーかてクジ付きやし。なんで、いっつも同じもんなん?」そう言いながら私はまた新しく出たうまか棒を食べながら聞いた。するとバッハはおかまを上げて言った。「ただ、これが一番好きやから、それだけの事や」私はバッハがボソッと言った一言が胸に刺さった。この子はまだ小4やのにぶれずに自分を持っている。嫌な事があってもそれを吐き出す術を知っている。何もごまかさずに生きている。それを聞いて私は不覚にも泣いてしまった。もちろん彼女は驚いた顔をした。だって私はブレていた。流行り物が出れば皆んなが持っているからと、それ程欲しくもないのに親にせがみ、遊びに誘われ気が乗らなくても断る方が面倒でついつい承諾する。子供ながらにジレンマを感じていたけど銭湯でのバッハの言葉に救われた。だからといって大人になった今自分らしく生きているのかと言われると全くだ。だって、この世は複雑この上なく、それらに振り回されて自分の足元を見る暇もない。でも、銭湯で言ったバッハの言葉が御守りのになっていて、そこまで生きるという事を投げ出さずにすんでいる。今後AIが人間を支配しても感情のある人間の言葉には敵わない。私はそう思う。だから自分の口から出る言葉は優しいものでありたいと思う。あの時、銭湯で私に彼女は秘密の約束をしてくれた。「私は将来銭湯に嫁ぐ。だからあんたは一生ただや。約束する」令和4年51歳のバッハは。と、いうと…。風の噂で銭湯の女将になったと聞いた。彼女はブレていなかった。コロナみたいな訳の分からないオバケが姿を変えてやって来ても私はバッハみたいに優しくぶれないババァで生きて行く!サンキューバッハ!約束守ってくれて!
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