第1話 僕らは太陽を見れない
文字数 3,816文字
「どこにいる?」
かすかに漂ってくる彼女の匂い。
「汗、涙、恐怖……まずいな」
感じ取れるものはすべて状況の悪さをあらわしている。
「ルイ!」
ふいに上から声が降ってきた。見上げると、すぐそばの建物の屋上からアベルが顔をのぞかせ、斜め前方の港湾施設を指差した。
「トレーラーに乗せられた。緑のコンテナのやつだよ」
「了解」
港へ向かって走り出した僕は急加速する。数百メートル疾走してアベルの示した方角へたどりつくと、倉庫群の陰に隠れながら、いくつか停まっている大型トレーラーをすばやく観察する。エンジンがかかっている一台に、緑色のコンテナが連結されていた。
「あれか」
トレーラーの近くには、作業員でも運転手でもなさそうなスーツ姿の男が数人いて、物騒なものを手に手に、まわりを窺うように警戒していた。
「面倒だな」
背後からアベルの低い声がした。
「走り出してからにする?」
「いや、見失うと困る」
その可能性は少なかったが、万が一ということもある。どんな状況にも「絶対に大丈夫」はありえない。彼女にも言い聞かせていたはずなのだが。
「滅するの?」
僕は返事のかわりに一瞬で姿を変えて見せた。
「わかった」
アベルもうなずくと同時に姿を変えた。
「お先」
風を巻き起こして
「撃て! 早くしろっ」
悲鳴に近い叫び声をあげた男をターゲットに決め、左手をふりかざしながら詰め寄る。太った顔が恐怖で醜くゆがんでいた。
何発か銃声が響いたが、僕らの体にはかすりもしない。訓練と実地は違うということを、彼らは最期に学習できただろうか。
血しぶきの舞うなか、一分もしないうちに男たちは全員こと切れて倒れた。
「あいかわらず容赦ないね」
アベルは返り血をぺろりと舐めながら僕を見上げた。罪悪感のかけらもなさそうな顔をして。
「不味い血。まともな食生活してないな、こいつら」
「こんなやつらの血が美味いわけないだろ」
トレーラーの運転席を開けてみると、若い男が震えてハンドルにしがみついていた。引きずり降ろしたら地面に倒れ込み、顔を伏せたままこっちを見る余裕もないらしく、どうやら腰を抜かして失禁しているようだ。
アベルは苦笑しながら男の襟首をつかみ、強引に仰向かせると金色の目で
「どうせ雇われだろ、こいつ」
「雇われだろうと下っ端だろうと同じことだ。記憶を消したって、生き残ったのがこいつだけなら、組織は追及して逃さないだろうよ」
「そりゃ、そうか」
アベルは男の肩に手をかけ、強くゆさぶって覚醒をうながす。
「逃げな。早く、できるだけ遠くへ」
まだ
「お優しいことだな」
「あとは運次第だけどね」
気まぐれであっても命を救ったことに違いはない。アベルは照れ隠しのように言い捨てると、また跳躍してコンテナの上に乗った。鉄のかんぬきに手をかけて引き抜く。ギィッと耳障りな音を立てて扉が開くと、手足を縛られた少女が転がり落ちてきた。
「おっと」
両腕で受け止め、そのまま肩に担ぎ上げる。
「んーっ!!」
さるぐつわで喋れない少女は、それでも全力でじたばた暴れて声をあげた。
「少し我慢してろ」
ちっともおとなしくならない彼女を担いだまま、僕は走り出す。アベルの姿はもうとっくになかった。水平線のかなたが少しずつ白みはじめている。時間がない。
西へ。西へ。建物の陰を縫うように駆け抜ける。
やがてたどり着いた住処の扉は、アベルによって開け放たれていた。
「ルイ、早く!」
最後の一歩を思い切り大きく跳んで中に入る。ふり向くと、生まれたての光の筋が僕らに追いつこうと猛スピードで迫って来ていた。それを遮断するように、重い扉がバタンと勢いよく閉められる。暖炉の炎だけに照らされた薄闇が僕ら三人を包み込む。
「危なかった……」
さすがに息が切れて呼吸が苦しい。抱えていた彼女から手を離し、冷たい床にあおむけになった。しばし脱力して荒い息を整える。
「ディアーヌ、大丈夫?」
アベルの手でさるぐつわを外された彼女は、さっきとは打って変わってしおらしく、青ざめた顔をしている。
「ちっとも大丈夫じゃないわ。吐きそう」
愛らしい声とは裏腹に、彼女は憎々し気な視線を僕に向けた。
「ルイがめちゃくちゃに走るから」
手足のいましめを解かれても、立ち上がろうとしないで床に座り込んだまま、ディアーヌは両腕をアベルに向けて伸ばした。
「部屋に連れてって。もう休みたい」
「ディアーヌ」
アベルは彼女の小さな手を取り、軽々と引き上げて立たせた。
「その前に、なにか言うことあるだろ? あれほど警戒してって言ったのに、友達だなんて言葉にコロッとだまされて誘き出されるとか……もちろん、だます方が悪いに決まってるけどさ、あまりにもチョロ過ぎるよ。僕らがどんなに心配したかわかってる? 一晩中ずっと君を探して、今だって、ルイが必死になって走らなかったら、朝日に燃やされて君は灰になってた」
「……わかってるよ」
ディアーヌはアベルに手を取られたまま、バツが悪そうにそっぽを向き、それでも、もじもじしながら小さな声で「ごめんなさい」と言った。
「ほんとにわかってるのかよ?」
なんだか無性に腹が立って、僕は床に転がったまま声を荒げてしまう。
「ディアーヌは自分が何者か、もっと自覚した方がいい」
「わかってるってば!」
プラチナ色の長くまっすぐな髪を揺らし、ディアーヌはアベルの手をふり払って僕をにらんだ。燃えるように紅い目から単純な怒りの感情があふれている。彼女は僕の顔のすぐそばで、ドンと大きく足を踏み鳴らした。
「あたしが何者でどんな宿命を背負ってるかなんて、赤ちゃんの頃から何万回も聞かされてきたし! でも、今この世で唯一無二だってことの責任は、あたしにはない。そんなこと望んでもいない。なのに義務は否応なく果たさなきゃいけない。理不尽だわ」
「だから、君を守るために僕らがいるんだ」
アベルが優しい声でなだめる。
「不自由な思いをさせてしまうけど、すべては君のためだから、どうか聞き分けて欲しい」
「……ずるい。そんな言い方されたら、あたしがわがままみたいじゃない」
「実際わがままだろ」
「ルイはちょっとだまっててくれない?」
アベルは苦笑して、ごく自然な動きでディアーヌの華奢な肩に手をかけた。彼女の白い頬がかすかに赤らむ。
「さあ、もう休んで。お風呂に入るなら、すぐ用意するよ」
素直にうなずいたディアーヌは、もう僕には見向きもしないで、アベルに肩を抱かれて部屋を出て行った。
「くっそ……」
僕は目を閉じて、右手の拳を床に叩きつけた。鈍い痛みがイライラを増幅する。
足音しか聞こえないのに、アベルが彼女をエスコートして二階に上がっていく様子が脳裏に浮かぶ。無造作に束ねたつややかな黒髪をなびかせ、柔和な顔に穏やかな笑みをのせて、彼女がつまずいたりしないよう細やかに気を配って、あのかぐわしい匂いの充満した部屋に、理性を保ったまま入っていけるアベル。
「選ばれるのは唯一人、か」
ディアーヌの運命が過酷なものだとしたら、僕とアベルの運命はいったいどう表現したらいいのだろう。
閉じた目のふちから熱い雫がにじみ出る。
彼女がこの世に生を受けたのは百年も前のことだ。まだ少年だった僕とアベルは、その日から今まで、ずっと力を合わせてディアーヌを守り育ててきた。
すぐ成人化した僕らと違い、彼女の成長はゆっくりしたものだ。生まれて百年経っても、十五歳ほどの人間の少女にしか見えない。成熟するまで、あとどれぐらいかかるかわからない。
僕らはヴァンパイアで、もっとも長命な種族の末裔だ。
そして、今ここにいる三人のほかに仲間はいない。だから、種をつなげるためにディアーヌはいつか子を生さなければならない。僕かアベル、どちらかを伴侶に選んで。
両手でごしごし目をこすり、僕は勢いよく起き上がって自分の務めを果たすべく動き出す。玄関の扉に頑丈なかんぬきをかけ、廊下や居間をまわって閉め切った窓に異常がないか確認する。この百年、住処を転々としても変わらず続けてきた習慣だ。
長い夜が明けた後には長い昼が、息をひそめてやり過ごすべき時間がやってくる。ディアーヌにとっては、成長のための大切な眠りの時間。
二階に上がり、彼女の部屋の前、廊下に置いてあるソファに横になった。ここが僕の寝床なのだ。
「おやすみ、我らが女王様」
ドアの内側からアベルの声が聞こえた。ディアーヌが深い眠りに落ちるまで、ベッドサイドで見守るのが彼の役目だ。
「おやすみ」
小さくつぶやき、僕は目を閉じた。