第1話

文字数 1,376文字

「ねぇ、タカくん、ごめん。ちょっとケチャップ買ってきてくれるかなぁ」
 ある週末の日の、その午後――。
 そう奥さんに頼まれて、ぼくは、近所のスパーに足を運んでいた。
 買い物を終えたぼくは、待ちあぐむようにして、駅のほど近くに設えてある喫煙所へとそそくさと足を運んでいた。ぼくの家では煙草が吸えない。ちっさな子どもがいるからだ。最近、ぼくは、だからこういう場所で一服するのを余儀なくされている。
 さっそく、煙草の煙を美味しそうに吹かしていると、ほどなく、そこに妙齢の女性が現れて一服しはじめた。
 そこにまた、初老の男性もやってきて一服しはじめた。しばらく、三人で、煙草の煙を美味しそうに吹かしていた。
 すると突然、初老の男性が妙齢の女性に、こう話しかけた。
「あれ、おまえさん、妊婦さんじゃねぇのかい。だったら、タバコなんか吸っちゃいけねぇなぁ」
 ぼくはハッとして、女性のお腹をチラ見した。なるほど、傍目に見ても、お腹がふっくらしているのがよくわかる。
 へえ、とぼくは感心した。
 とかく、他人事には無関心な時代だ。そういう時代にありながらも、この男性は他人なのに、やがて生まれてくる赤ちゃんのことを慮って、いずれ母親になる女性にあえて積極的に注意喚起を促したのだから。
 
 こういう時代であっても、他人に対して、ちゃんと道理を説ける人がいる。なんとも素敵な男性ではないか。
 そんなふうに、内心微笑むと、にわかに暖かい満足の情が胸のうちにあふれてきた。だがーー。
 ふん、大きなお世話よ。
 そんな感じで、その彼女は、ふてくされたように、吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
 それから、男性に乾いた無表情な眼差しを向けて、その場から、ぷいっ、と去って行った。
 やれやれ――切ない吐息が洩れる。しかもそれと同時に、さっき、あふれてきた満足の情が、たちどころに、どこかへと消え去っていた。

 その晩、食卓についたぼくは、奥さんに、昼間の一件を話して聞かせた。
 苦笑交じりに、それを聞いた奥さんが言う。
「小さな親切、大きなお世話って言うもんね」
 そうだねーーうなずいたぼくは、ため息を含みながら、言う。
「自分では良かれと思ってやったことが、相手にとっては、かえって迷惑なことだってあるんだよね」
「そうなのよねぇ」と、ため息交じりに、奥さんもうなずいて、こうつづける。
「でもさぁ、その一方で、声をかけざるを得ない現実が横たわっているのもまた、事実じゃない」
「え⁈」
 ぼくはけげんそうな顔で首をかしげる。それでも、わずかな間のあとで、ああ、このごろ話題になっている、あれね、と合点がいく。

 独り暮らしで、孤独を強いられている老人。七人に一人はいると言われる、貧困に苦しむ子どもたち。
 寂しくないですか。
 ちゃんと食事していますか。
 社会を見渡せば、そんな言葉をかけて、励ましてあげなければならない人たちが、たしかに、少なからずいるのだ。
 ただ、難しいのは、声をかけてあげるべきなのかそうでないのか――その線引きは一筋縄ではいかない。
 浮かない眉をひそめて、ぼくはひとりごとのようにつぶやく。
「なんだかややこしい時代になっちまったもんだよなぁ……」
「ほんとねぇ」
 間髪を入れず、奥さんもうなずく。
 するとくしくも、二人のやるせなさそうなため息が、深く、長く重なった。
 
 
 
おしまい
 

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