第8話 逢瀬

文字数 1,977文字

 七時をちょっとだけ過ぎた頃、美樹は約束通りやって来た。昼間は明るいパステルカラーのスーツだったが、今は真っ赤な体にフィットするスーツに着替えていた。ただでさえ派手な顔立ちがよりいっそう引き立って、女神というのが居るなら、きっとこんなふうじゃないか、と俺は思うのだった。
「ご免なさい。ちょっと遅くなったかしら」
「いや、俺も今仕事終わったところです」
「そう。じゃ、行きましょ」

 美樹は俺の腕を取ると、半ば強引にオフィスの外へ連れ出した。エレベーターで一階のフロアまで降り表へ出ると、既に辺りは暗かった。通りに並んだ街灯と、オフィスの窓の明かりがアスファルトの道路に明るいモザイク模様を描いている。脇にタクシーが停まっていた。タクシーに乗り込んだ俺は、行き先を聞いていなかった事を思い出し、美樹に訊ねた。
「それで、何処へ行くんです?」
「銀座よ」
「え……でも、銀座のクラブとか、高級なんじゃないですか? 俺、そんなに経済的余裕ないですよ」
情けないが本当の事である。美樹はクスッと笑うと、
「そんな事は百も承知よ。私の働いているお店なの。割安で入れるわ。というか、私が奢るわよ」
と言って俺の脇腹を肘でつついた。
「何か悪い気が」
「良いのよ! 私の方が誘ったんだから。気にしないで。さ、行くわよ! 運転手さん、銀座ね」
ロボット運転手は
「承知いたしました」
と味気の無い声で告げると、ゆっくりとタクシーを発進させた。

 銀座の繁華街のとある高級クラブの前でタクシーは止まった。タクシーを降りた俺はクラブの下り口を見て固まった。本当にお高そうなクラブである。大理石の柱に嵌まったドアの作りからしていかにも高級そうだ。
「そんなに緊張する事ないわ。要するにただの飲み屋よ」
美樹はそう言って笑うと、俺の腕を掴んでクラブのドアを開けた。薄暗い廊下を進んでフロアへ出ると、眩しいシャンデリアの光が俺の目に飛び込んできた。夜の盛り場らしく、オフィスの様に明るいという訳ではなかったが、落ち着いた暗いオレンジ色の空間の中で、シャンデリアはダイヤモンドの様に輝いていた。

「こっちよ。席は予約してあるの」
美樹は自分の胸に俺の腕を押し付けるようにして腕を絡めると、一番奥の席まで俺を案内した。
「座って」
俺は言われるままにソファーに腰を下ろすと、改めてまじまじとフロアを眺めた。各ブロックに並べられた革張りのソファーが、一層高級感を演出している。
「これ、本物の革かい?」
俺はソファーを手で押した。
「え? ええ。そうだと思うわよ。でもそれがそんなに重要な事かしら?」
美樹はメニューを見ながら不思議そうな声を出す。重要かしら、だって? もちろんそうだ。今時本物の革を使った製品など、正真正銘の高級品にしか存在していない。地球環境保護のために、もう随分前から、動物の革を使った製品の製造は厳しく規制されているのだ。だが美樹はそんな事には興味が無い様子だった。

「とにかく、何か頼みましょ」
美樹は俺にメニューを渡した。俺はメニューに書かれた酒類の値段を見て、頭がクラクラしはじめた。ビール一杯が三千円だって!?
「心配要らないわ、私が払うんだから」
俺の心を見透かした様に、美樹はクスリと笑った。
「じ、じゃあ取り敢えずビールにしようかな」
「分かったわ」
美樹はテーブルのベルを押してボーイを呼び出すと、
「私はジントニック。こちらはビールね」
とオーダーした。俺はソファーの背もたれへ深く体を埋めると、フウッと一息付いた。新宿の焼鳥屋ならともかく、こんなお高い空間は落ち着かない。

 ビールとジントニックが運ばれてきて、取り敢えず俺達は乾杯した。俺はビールを一口飲んでみた。さすが、高級クラブだけあって、その辺で買うビールとは味が違う――とは思わなかった。正直、どこがどう違うのか分からない。こんな物が三千円……
「ほとんど場所代よ」
俺の疑問を察した美樹がすかさず答える。そうか、場所代か。言われてみればそうだよな。銀座の一等地だからな。

「あの……何て言うか、こんな高級クラブの高級ホステスやってる美樹さんが、何で俺なんか誘ってくれたんです? いつももっと上等な客達と飲んでるんでしょう?」
「そうね……私が貴方の事気に入ったからなんだけど、それじゃ駄目かしら?」
美樹は悪戯っぽくウインクすると、ジントニックを一口口に含んだ。
「駄目だなんて……」
俺の心は密かに舞い上がった。
「いや、嬉しいけど」

――体を売ったりもしてるって――

小林の声が頭を過った。
「それってつまり、俺の事が好きっていう風に解釈して良いのかな?」
「そうよ。好きでもない男にわざわざ奢ってまで飲ませる程物好きじゃないわ」
美樹は当たり前でしょう? という表情で溜め息を付いた。

 この時の俺の気持ちを想像してみてくれ。文字通り、俺は驚きと共に天にも昇る気分だった。
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