被抑圧者への光

文字数 1,940文字

 一つの文学作品が、すべての人を救うのは難しい。
「逃げてもいいんだよ」という言葉は、「逃げたい」と思っている人の罪悪感を消し、痛みを和らげる効果を持つかもしれないが、反面「逃げない」という選択をした人を傷つける危険があるだろう。
 細部でどれほど多様な弱者に配慮がなされようとも、物語のテーマが一つに収斂していく中では、このトレードオフの関係は逃れられない運命ではなかろうか。

 もちろん従来の作品では取りこぼされてきた人々がいるからこそ、この『愛されなくても別に』は必要とされたのだろう。
 世にはびこる「きれいごと」に反発する人は確実にいる。そこで作者はあえて負の感情を丁寧にすくい取り、苦しむ者の解放を試みたと思われる。被抑圧者に光を当てるのが小説の役割の一つとするなら、批判を恐れずこれを世に出した人々に私は敬意を払いたい。 

 黙殺されがちな負の感情は、短いエピソードにも端的に表れる。
 例えば主人公がテレビのワイドショーへの感想を述べる場面。映画の自殺シーンが子供に悪影響を与えかねないと怒りを露わにするコメンテーターに対し、主人公は「物語の中の自傷によって救われる子もいる」と反発するのだ。そして自己と他人とで、世界の見え方がこんなにも違うのかと絶望する。
 読者は衝撃を受けつつも、ここまで暗い感情に支配された主人公がこれからどう変わっていくかに注目せずにはいられない。
 
 その主人公とは、大学生の宮田陽彩(ひいろ)。睡眠時間を削り、長時間のアルバイトをしているが、これは親に出してもらえない学費の工面のため。一緒に暮らす母親は浪費癖がひどく、離婚した夫からの養育費の他、娘の奨学金にまで手を付けている有様だ。家事もできず、自分の娘を奴隷扱いしている。
 
 これだけで十分に衝撃的だが、同級生の江永の送る人生はさらに壮絶だ。
 江永の父親は殺人犯。母親は生活費を得るため、娘に売春を強要してきた。江永は親の命令に従いつつも、やがて反発。現状を変えるには母親の元を逃げ出すしかなかったという。

 これほどのすさまじい状況において、作者は丹念に、そして鋭く彼女たちの心理を描写する。ひりつくような、際限まで磨かれた文章によって、一般的には話題になりにくい感情の鬱屈が描かれる。安易な反論を許さない的確な描写に圧倒されるばかりだ。

 脇役たちも巧妙に配されている。宮田や江永とは異なる形で親の存在に苦しむ木村、世間でいう「普通」の感覚に近い堀口。彼ら同世代の若者たちによる会話が、特異な心情の理解を助ける役目を持つ。

「愛」という言葉の使い方が独特だ。この物語では相手を暴力的に支配し、呪縛するものを愛と呼ぶ。血縁という簡単には断ち切れないものを背景にしているだけに、親の愛は最も恐ろしい凶器となりうる。
 その凶器で殴られ続ければ、中には二度と立ち上がれなくなる者もいるだろう。

 しかし宮田と江永の二人は違う道を選んでいく。二人は理不尽な「愛」に対して決然と立ち向かうのだ。
 警戒心の強い宮田は多くの物事を匂いで判断しており、香りや匂いに関する描写は多い。逆に体温は苦手としており、江永には心を開いても手を触れることができないのが特徴的だ。
 だからこそ、ラスト付近で二人が手をつなぐ姿が印象的なのだろう。今日を生き抜くための友情が、愛という名の呪縛を断ち切る武器となった瞬間だ。

 ここで称えられているのは、外から与えられたのではなく自力で獲得した不屈の精神。二人は過酷な環境で育ったにも関わらず、現状を客観視する聡明さと、自らの立ち位置を変える強さを獲得したのである。

 二人の決断に共感できるかどうかは話が別だ。戦場では自分が生き残るために相手を殺さざるを得ない場合があるが、ここにも同じように残酷な匂いがある。
 個人的な話にはなるが、義理の親を介護している私からすると、これを免罪符にされては敵わないというのが本音だ。どんな親もいつかは弱り、助けを必要とする立場になるが、大人になった子供はそうした厳しい現実とドライに向き合わねばならない。これは親を大切にしようという伝統的な価値観の話ではなく、単なる責任の取り方の問題だ。

 しかしこの本の主人公は二十歳前後の若者であり、親はまだ身勝手な人生を謳歌している。子供が大人へと成長するその一過程という条件の下では、まず自分を優先し、自分の人生を生きることが正しい選択となることもあるだろう。

 現状を打破する一瞬を捉えたこの作品は、若い世代には強烈に効くと思われる。特に家庭環境に悩む人には、大いに人生の指針を与えてくれるだろう。
 大人世代には、苦しんで成長してきた自身の過去を顧みる時の、また苦しむ他者の内面を理解するためのヒントとしておすすめしたい。
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