第3話 火曜日、悪者を追い払う。

文字数 2,722文字

 真夜中に、ふと目が覚めた。微かな雨音と軽やかなタイピング。なんだろう、この既視感。視線を巡らせると、暗闇のなかにぽっかりと浮かんだ人工的な光。それに照らされた彼の顔を見つけて、ああ、まだいたんだ、とぼんやりと思う。
 よかった、まだいてくれて。
 よかった? どうして?
 だって、外はまだ雨が降っているし、また行き倒れたりしたら困る。
 そう、それだけだ。
 そういい聞かせて目を閉じる。
 ふたたび眠りに落ちるまで、雨音とタイピングのBGMは続いていた。

 朝、目が覚めると、薬が効いたのかだいぶ楽になっていた。
 彼は、部屋の隅で横になっている。ソファで寝る気はないらしい。相変わらず内臓を庇うような体勢で、ほんとうに大丈夫なのかなと心配になる。
 寝起きで、うっかりしていたのだ。
 ちゃんと生きているよね、と念のため確認しようと、近づいたとたん。
 身じろぎひとつせず眠っていたはずの彼が、ばね仕掛けのように素早く飛び起きてわたしの手を掴んだ。
 ひっ、と思わず息を呑む。ものすごい力だった。
「痛い」
 われ知らずのうちにこぼれたつぶやきに、彼ははっとしたように手を離す。わたしはふらふらと後ずさる。じんじんする手首に目を向けると、掴まれた(あと)がじわりと赤くなりはじめていた。
「悪い」
 わたしを掴んでいた手で、うつむいた額を押さえるようにして彼が短く謝る。驚きのあまり、まだ心臓がばくばくしていたけれど、なんだかものすごく悪いことをした気分になって、ふるふると首を振る。
「ううん。わたしのほうこそ、ごめんなさい。寝起きで、ぼうっとしていて」

」と、最初にたしかにそういわれていたのに。
 約束を破ったのはわたしだ。
 壁に背をあずけるようにして、彼が口を開く。
「むかし、女に刺されたことがある。それで、雨が降ると古傷が痛むんだ」
 とつぜん、なかなかにヘビーな過去を告白されて、思わず聞き返す。
「あ、それで、お腹を庇っているの?」
「ああ」
「そうなんだ……」
 痴情(ちじょう)のもつれというやつだろうか。刃傷沙汰(にんじょうざた)にまで及ぶなんて、相手が激情型の人間だったのか、それとも彼がよっぽどのことをしでかしたのか。
 それが原因で「寝ているときに近寄らないでくれ」といわれたのだろうか。いまの話の流れからすると、そうなのだろう。
 申し訳ないことをしてしまった、と思う。
「ほんとうにごめんなさい」
「いや」
 彼が顔をあげる。
「こっちこそ。手加減できなかった。痛かっただろ」
 掴まれた手のことをいっているのだと気づいて(かぶり)を振る。
「そんなの、ぜんぜん」
 ほんとうはじわりと痛む。それを見透かしたように、彼は目を細めてつぶやく。
「お人好しだな」

 簡単に朝食の用意をして、ふたりで食べた。
 昨日は仕事を休んだので、彼を残して家を出るのは今朝がはじめてになる。仕事に行っているあいだに、彼は出ていくつもりかもしれない。それは彼の自由だし、わざわざ引き留めるのもおかしいだろう。
 夜、帰ってきたときに、彼はまだいるのだろうか。
 本人に聞けばすむ話なのに、なぜか聞けない。
「あの、いちおうスペアキーを置いておくから、もし出ていくなら鍵をかけて、ドアの郵便受けに入れておいて」
 そんないいかたになる。
 テーブルに置いたスペアキーを見て、彼は呆れたようにため息をつく。
「委員長、もっと危機感を持ったほうがいいぜ。パソコンのセキュリティもザルだし」
「それは、わたししか使わないと思っていたから」
「甘いな。いまだって、おれを追い出してから出かければいいのに」
「えっ、いや、だって、雨だし」
「そんな甘い顔してると居座るかもしれないぜ」
「えっ」
「ほら、仕事行くんだろ」
「う、うん」
「気をつけて行けよ」
 だれかにこうして送り出されるなんて、へんなかんじだ。

 休み明けで溜まった仕事を片づけているうちに、あっというまに終業時間になった。キリのよいところで切り上げて、会社をあとにする。霧のような雨が降っている。傘を差して駅に向かう途中、背後から聞こえるはずのない声がわたしを呼びとめた。
有花(ゆか)
 思わず足を止める。振り向くと、二度と会いたくなかった相手がそこにいた。
 うん、見なかったことにしよう。
 そう決めてふたたび歩き出すと、その男は足早に隣にやってきた。
「どういうつもりだよ」
 それはこっちの台詞だ、と思う。いまさらのこのこと現れて、いったいなんのつもりだ。
「ちょっと、来いよ」
 いきなり腕を掴まれる。さすがに驚いて立ち止まり、手を振り払う。
「なんなのよ。気安く触らないで」
「だれに向かっていってるんだ」
 あんただよ。
 一時の気の迷いとはいえ、どうしてこんな男を好きだと思えたのか、不思議でならない。思い出したくもない黒歴史だ。
「あの男はなんだ」
「は?」
「おまえが部屋に引きずり込んだ男だよ」
 引きずり込んだ覚えはない。ひと聞きの悪いことを。
 いや、そんなことより、どうしてそれを。
 ふいに、ぞっとして全身が総毛立(そうけだ)つ。
 そのとき。

「有花に近寄らないでもらえますか」

 雨のなか、黒い傘を差した彼が立っていた。
「おまえ、よくも」
「有花、こっちへ」
 そばでうめく男が気持ち悪くて、わたしはすぐさま彼のほうへと移動する。どうしてここに、と思いながらも、ほっとしている自分がいた。
 だけど、彼に名前を呼ばれたのははじめてだ。いつもは「委員長」とからかい半分に呼ばれているのに。
「よくも、はこちらの台詞(せりふ)です。あれだけのことをしておいて、よくもいまさらのこのこと彼女のまえに姿を現せましたね」
「おまえには関係ない」
「それが、そうでもない」
 いったいなんの話をしているのか。ポカンとするわたしに、彼がいいにくそうに説明してくれた。

「この男、一方的に有花を振って取引先の社長令嬢と結婚したくせに、未練たらたらで、有花の部屋に盗聴器を仕掛けて、携帯端末にGPSを利用したストーカーアプリをインストールしていたんだよ」

「えっ」
 盗聴器? ストーカーアプリ? うそでしょ。

「パソコンにへんなものがあったから、いちおう端末も見ておこうと思って見たら、案の定。盗聴器はぜんぶ、すぐ外して使えなくしておいたし、アプリも削除した。そっち側にお礼を送っておいたんだけど、あんたがわざわざこうして現れたってことは、受け取ってくれたんだよね、あれ」

 なんでもないことのようにいうが、けっこうとんでもないことをいっていないか?

「証拠は揃ってるんだ。あんたに勝ち目はない。これ以上、有花にちょっかい出すつもりなら、あんたのしあわせな結婚生活も社会的地位もすべておしまいってことになるけど、いい? おれ、一ミリも手加減する気ないから」
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