第7話

文字数 2,687文字

 その日も、わたしとミイ姉ちゃんは遊び疲れた体を引きずりながら中庭に到着した。
中庭のすみに小さな二人がけのベンチがあって、でもベンチは大抵、白黒の猫が陣取っていた。(団地に住んでいる猫で、オセロと呼ばれて可愛がられていた。)
中庭に到着すると、やっぱりオセロが気持ちよさそうに休んでいた。ベンチで休むという選択肢がなくなったわたしとミイ姉ちゃんは、当然のように、中庭に一本だけある木、樫の木の下へ足を運んだ。
 中庭に一歩足を踏み入れると、めったに人が訪れないからか、やたら生き生きとした芝や雑草がすぐに足首をくすぐってくる。
 遊び疲れて、少し眠くなった体を引きずりながら、わたしとミイ姉ちゃんは樫の木の方へ進む。オセロが眠そうにあくびをする。すると、とたんに中庭の空気は柔らかく湿った心地よいものとなり、芝生が最高に気持ちの良いベッドに変わるのがわかった。一歩進むごとに眠気は更に大きくなっていく。やっと樫の木の下にたどり着くと、わたしとミイ姉ちゃんはどちらともなく座り込んだ。
 わたしはのびのびと草と土の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、極上のベッドの上にいるかのように、木陰でほんの少し、眠り始める。
 中庭でちょうどよい木陰になっているそこは、暖かさ、静かさ、涼しさ全てが揃ってあって、すぐ近くのベンチではオセロもすっかり眠りこけていて、天国のような場所だった。
 ほとんどわたしが眠りかけていたそのとき、ミイ姉ちゃんがわたしに何かを話したそうな素振りをしていた。
 また……と思って、わたしはわざと固く目を閉じてしまう。
 こういったことは初めてではなかった。ミイ姉ちゃんは青く光り始め、ゆったりとした眠りに落ちる瞬間決まって、わたしに何かを話そうとするのだ。
 わたしはいつもの通り、ミイ姉ちゃんの気配に、気が付かないふりをした。
 それでもなおミイ姉ちゃんがわたしに話しかけようとする雰囲気が伝わってきたので、わたしは慌てて寝返りを打った。
 この時間、眠りに落ちる心地よい感覚が体全体を覆っていて。誰にも眠りを邪魔されたくなかったのだ。
 寝返りをうって背中を向け、徹底的に寝入ってしまったフリをして、ミイ姉ちゃんの話したそうな気配をシャットダウンする。
 しばらくすると、ミイ姉ちゃんの方から柔らかい、暖かな空気が流れてくるのがわかった。そっと目を開け、ミイ姉ちゃんを見ると、ミイ姉ちゃんが呼吸する速さと同じペースで、青く透明な光りを強く、弱く、繰り返し光らせていた。
 青く光るミイ姉ちゃんの美しさに見惚れながら、わたしもゆっくりと今度こそ、眠りの世界へと落ちていった。

 あのときちゃんとミイ姉ちゃんと向き合い、ミイ姉ちゃんの話を聞いてあげていたら、今の現実は違ったかもしれない。だって、ミイ姉ちゃんは恐らくあのタイミングで、自分がこの団地にいる理由をわたしに伝えようとしていたのだから。
 ミイ姉ちゃんがこの団地にいる理由を語るチャンスは、あの、青いまどろみの最中しかなかった。わたしたちはいつもなつやすみの流れの中を泳ぎ回ることに全力を注いでいたから、落ち着いて目の前の事象と関係のないことを話す余裕がなかったのだ。
 でも、七歳だったわたしはミイ姉ちゃんがここにいる理由なんて、心底興味がなかった。今ここにミイ姉ちゃんがいることが大事で、ここにいるのだから、あとはどうでもよかったのだ。
 あの時、眠ったフリなんてしないで、目を開けて、ミイ姉ちゃんの話を聞いていたら、ミイ姉ちゃんがわたしの目の前から唐突に消えてしまう自体を回避できたのかもしれない。
 もはや全部「タラレバ」の話でしかない。今、わたしとミイ姉ちゃんは一切の連絡のやり取りがないし、ミイ姉ちゃんがどこにいるのかも、何をしているのかも、わからない。これが、変えようがない今ある現実だ。
 ミイ姉ちゃんと出会った夏以降、わたしは何事もなく成長していき、高学年になると両親に言われるがままに中学受験をすることになった。そしてなんとか第二志望の女子校にすべりこんだ。両親は喜び、めでたいついでに、わたしが小学校を卒業したタイミングで、念願のマイホームに引っ越した。わたしは合格した私立の女子中学校に新しい家から通い始めた。
こうしてわたしはミイ姉ちゃんとの思い出の場所からさえも離れてしまい、ミイ姉ちゃんとの繋がりは完全に切れた。
 わたしは引っ越し、中学校に通い始めた。中学校の終わり頃だっただろうか、団地が取り壊されて商業施設が立ったという話を聞いた。それにともなって団地の子が通っていた小学校も閉鎖されてしまったらしい
 ミイ姉ちゃんと一緒に過ごした時間は、たったひと夏(というとなんだかキャッチコピーのようでカッコよく聞こえるけれど、事実だから仕方ない)だけで、わたしはあの夏経験した以上のミイ姉ちゃんに関する情報を、まったく持っていない。
 今年の夏は、ミイ姉ちゃんと過ごした夏から数えて十回目の夏である。もう十年も経ったのだ。     
 ミイ姉ちゃんと出会い、別れて以来、わたしはミイ姉ちゃんと空想の中で何度も再会して、年だけ 重ねて十七歳になった。
 空想の中の十二歳のミイ姉ちゃんはいつだって生き生きと汗をかいて笑っている。頭の中で笑っている十二歳のミイ姉ちゃんは、現実と地続きに感じるほどリアルだ。きっとそれは、十七歳のわたしの中に今もなお、七歳のわたしがはっきりと存在しているからだ。
 わたしの中で七歳のわたしは、悲しそうな顔や、後悔した顔をしている。
 ミイ姉ちゃんを思い出すたびに「もしも……」といった仮定をとってつけて、想像の中だけでも結末を変えようと試みる。
 わたしはただ、ミイ姉ちゃんが満面の笑みになる終わり方が知りたいのだ。
 あのとき、ミイ姉ちゃんの横にいたわたしの行動は、正解だったのか。
 どうしたら正解だと思える答えにたどり着くのか。 
 何をしたらミイ姉ちゃんが幸せになれたのか。
 ミイ姉ちゃんの幸せはなんだったのか。
 クリアしないと終わらないゲームのように、何度も何度も、あの夏を思い返す。

 実は、一番脳裏に焼き付いて離れないミイ姉ちゃんの姿は、赤でもなく、青でもない。黒い色をしているときだ。あのときのミイ姉ちゃんはぞっとするほど綺麗で怖かった。
 ミイ姉ちゃんは夜の空よりも真っ黒になった。カラスアゲハの羽よりも真っ黒。夏の強い日差しによってできる影よりも、もっと真っ黒だった。
 一番近い色は、アリンコが作る巣穴。あの穴のようにひたすら黒い、闇。そんな黒い色に、ミイ姉ちゃんは一度だけなった。
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