二の幕
文字数 4,920文字
翌日、私たちは朝一で登校し、図書室で調べ物をしていた。
授業で使うための資料として集められている新聞でなにか手掛かりを探したいという雪白くんは、ずっと無言でパラパラとファイリングされた記事に目を通している。
私はというと、特にすることもなく、雪白くんの邪魔にならないようにと彼のはす向かいに座って最近はやりの限界集落さに住む老人がゾンビと戦う小説に目を落としていた。
小説も中盤に差し掛かり、物語の中の木梨さんが手作り味噌を分けてあげるシーンに差し掛かった頃、雪白くんに声を掛けられる。
もう!これからがいいところなのに!と思ったけど、そうだそうだ私は雪白くんの手伝いに来てるんだったと思い直し顔をあげる。
差し出された記事に目を落とすと、そこには全身を紐のようなもので拘束され腹部が切り裂かれるという事件があったという見出しが載っていた。
当時はその手段の残酷さに話題になったが、なんの続報もないままだったため、似た事件が学校であっても話題にすらならなかったレベルで忘れられていたし、私も忘れていた事件だった。
「この記事にある被害者の雨野 竹人 。聞き覚えがあるか?」
名前を聞いた瞬間、私の頭に鈍い痛みが走る。
知っている。
聞いたことがある。
なんだっけ。
ズキズキと広がってくる痛みに耐えながら必死に思い出そうとする。
「…去年のクリスマス…阿隅と…」
「見つからなかったから心配したよ!昨日はごめんね」
なにかを思い出しそうになった瞬間に聞こえた阿隅の声で思考が途切れる。
頭痛はスッと引き、なにかに引っ張られるように私は阿隅の方に引き寄せられた気がした。
「あ!大丈夫だよ!今日来れてよかった。あれからおばさんに怒られなかった?」
「うん!大丈夫!でも、母さんったらなにか誤解してるみたいだから、しばらく私の家に来ないほうがいいかも…」
「そっかぁ」
「心配しないで!ちゃんと私から朱音はいい子だって話しておくから」
いつも通りのなんともない会話。でもなにか引っかかる。
不自然?なにが?あれ?私はなにをしていた?
なにかを…なにかを思い出して、雪白くんにそれを伝えようとしてたはず。
それはとても大切なこと。
私の気持ちを無視するように、私の顔は笑顔を作り、口が勝手に動く。
目の前の阿隅に変な様子もなく、「昨日はごめんね」と少し照れくさそうにいう。
私の気のせいかな。ちょっと物忘れするくらい誰にでもあるもんね。
「朱音!しっかりしろ」
納得しかけた時、雪白くんの声で我に返る。
そうだ私はなにかを思い出そうとしていたんだった。その瞬間、私は自分の体も思考もなにかに引っ張られた。
「ところで、月城くん…朱音を変なことに巻き込むのやめてくれない」
気が付くと阿隅が雪白くんのことを昨日のように睨み付けていた。
「阿隅…月城くんは悪くないよ…阿隅をたすけ…」
「朱音!今すぐその女から離れろ」
「?ーーーーーつ!」
なんとか誤解を解こうと思っている私の言葉を遮るように雪白くんが大声を出す。
なんのことがわからず聞き返そうとしたけれど、首がなにかに圧迫されて声が出ない。なにかが巻き付いている?でも何も見えない。なにこれ?
パニックになっている私の肩を掴んだ雪白くんは、私の体をそのままぐっと引っ張り内ポケットから出した短刀で何かを切るモーションをした。
勢いよく振り上げた短刀がなにかに当たって速度を落とし、ブチンという音がすると首の圧迫感が消えてなくなった。
そのまま私の体を抱き上げた雪白くんは、そのまま走って窓際へいったかと思うと、窓を開けてベランダへと飛び出した。
「とりあえず退くぞ。しっかりつかまってろ」
咄嗟に私は雪白くんの首に腕を回し、しっかりと体をくっつけながら阿隅の取り残されている図書室を見ようと首を回したが、雪白くんの体に隠れて中は良く見えなかった。
「え?え?阿隅がまだ中にいるよ?」
「後で話す」
雪白くんはそういうと、ベランダの手摺の上にひょいっと登った。
いくら私が小柄とはいえ、私を抱えてそんな簡単に登れるの?それにもしかして飛び降りるつもり?ここから?
まだ早すぎて誰もいない校庭を見てみるが、とても飛び降りて助かるとは思えない。
ちょっと待ってと雪白くんを止めようとしたとき、頭にまた鈍い痛みが走る。
【まったく朱音ってば本当に鈍いのね。
だから大好きな友達だったんだけど】
痛みがジワジワと波紋のように広がって阿隅の声だとわかるのに、阿隅の声じゃないなにかが私の頭の中に響いてくる。
なにこれ?阿隅はどうなったの?
【大好き大好き大好きだから…朱音…大好き】
「耳を貸すな」
響いている声は彼にも聞こえているのか、私が頭を抑えているからなにか感じ取ったのか、私の額に自分の額を合わせながら静かに一言だけそう告げて、雪白くんは前を向いた。そして、そのまま勢いよく手摺を蹴って空中へと飛び出した。
思わずギュッと目を閉じて雪白くんにしがみつく。風が頬にあたり、自分が高くから落下しているのが嫌でもわかる。
風とは違う硬さを伴うなにかが頬のよこをビュンビュン横切っていく気がして目を薄っすら開けてみるが何も見えなかった。
見慣れた校庭が目に入り、私たちは無事地面に着いたのだと気が付く。なんの衝撃もなく、さっきまで図書室にいたことなんて嘘だったみたいに私のことを抱えたまま校庭に降り立った雪白くんは、そのまま後ろを振り向くことなくすごいスピードで走り出す。
「これが怪異ってやつなの?雪白くん倒せないの?」
「…物の怪を裁くには…そいつの形と因果と名前を定めないといけない」
流れていくように目まぐるしく変わる景色と頬に当たる風ですごく速く雪白くんが走っていることはわかるけど、そんな速さにも拘わらず次々と黒いモヤモヤのようなものが追いかけてくる。
雪白くんは、私を抱えているにも関わらずそのモヤモヤをピョンピョンと飛ぶように掻い潜りながら、涼しい顔を崩さないままそう答えた。
「うーん名前なら…なんか殺人おばけとかじゃだめ?」
「…危機感がないな君は」
「だめかー」
雪白くんは、私のせっかく思いついた提案を呆れたように却下しながらどんどん裏山の道から外れた森の方へと向かっている。
その間も黒いモヤモヤはうねうねと私たちの近くに蠢いていて、時々蛇みたいに私たちの足や手に強い力で巻き付くけれど、それに引っ張られる間もなく、雪白くんが巻き付いたナニカを分厚いスライムか何かのように引きちぎりながら進んでいく。
最初は怖くて声をあげそうになったけれど、段々と進んでいくうちに雪白くんが落ち着いているからか、マヒしてしまっているのかどちらなのかはわからないけれど、怖さは不思議と感じなかった。
「名は存在を縛り、理に沿わせることが出来るもの。適当に考えた名前より、古からなるべく大勢のヒトに使われている名の方が…効果がある」
「えー!適当って!ひどい!」
「…朱音暴れるな」
つい雪白くんの首に回した手を放そうとしてしまい、慌ててぎゅっと体を雪白くんに寄せた。
やっと黒いモヤモヤが追いかけてこなくなったみたいで、雪白くんはしばらく走り続けた後、裏山の池の近くの小屋の前で止まった。
雪白くんは私を地面に下ろすと周りを警戒しながら小屋の中に入っていく。
なんだか久しぶりの地面な気がする…とホッと胸をなで下ろしながら私も、雪白くんのあとに続く。
彼は私に部屋の中央でじっとしているようにと言って、ブレザーのどこかから取り出した白い紙に赤い模様が描いてあるお札を小屋の窓やドアに張り付けていく。
手伝いをしようと、最後の一枚を手渡そうとしたけど、どうやら予備か何かだったみたいで、戻ってきた雪白くんは私の持っていた余りのお札には気が付かないまま最後の仕上げだという感じで紅い糸に鈴が等間隔で並んでいるもので円を描き私と自分を囲んだので私はそっと自分のポケットの中にお札を忍ばせた。
その円に入ったからなのか、たまたまなのかはわからないけど、急に頭の中にかかっていた靄が消えたような感覚がして、ハッとなる。
そうだ。なんでこんな大切なことを忘れていたんだろう。
私は…この目で見て、この胸でしっかりと喪失感を味わったはずだった。
「もしかして阿隅って死んでる…よね?」
ポロポロと私の目から零れる大粒の涙と一緒に次々と溢れ出てくる彼女のお葬式、全校集会、心無いニュース根も葉もないうわさ話といった思い出たち。
「そうだよね。そうだ。思い出した。去年のクリスマス…阿隅…彼氏ができたって言ってて…」
私は、雪白くんのブレザーの襟を掴みながら思い出したことを確認するように話し出す。
そうでもしないとこの悲しみとショックに耐えられそうになかった。手も唇も震えてうまく動かない。
そんなめちゃくちゃな状態の私の話を、雪白くんは黙って聞いてくれた。
阿隅は死んだ。
他殺だった。大好きで親は反対してるけど彼氏と一緒に住むんだって…。
それで、今年のクリスマスは彼の家にお泊りしてって…それで…そのまま、阿隅と連絡は取れなくなった。
何日も連絡が取れないのでさすがに怖くなった私は、阿隅のお母さんに事情を話したのだった。
そして、阿隅のお母さんが捜索願いを出してすぐ、彼女は無残な姿となって山の中で発見された。
複数人からの暴行の痕があったと刑事さんが話しているのを聞いてしまった気がする。
あっというまに、未成年の少女の悲惨な死はニュースになって、学校にマスコミが駆け寄って、阿隅はワイドショーや週刊誌に援助交際をしているとか、金品をだまし取っていたと書かれていた。
阿隅の彼氏はどこかの偉い人の息子だったらしく、とても優秀な弁護士さんがついたので実刑は喰らわなかったと聞いている。
そうだ。そうだった。それは…遊びに来たなんて言ったらおばさん怒るよ…。
雪白くんがそっと差し出してくれたハンカチを受け取り、私は涙を拭いながらもう一つ重要なことを思い出した。
「それなら…私が話してた阿隅はなに?」
「物の怪」
「え?」
薄々気が付いていたけど、認めたくなかった。
まだ信じられない私は、いつも阿隅とやりとりをしていた小型タブレットの履歴を隅から隅まで見てみるがどこにも阿隅とのやり取りはない。
阿隅と話している時の自分はどう見えていたのかとか、なんで阿隅が妖怪なんてものになってしまったのかとかいろいろな疑問が頭の中をぐるぐると回ってめまいがしてくる。
そんな私の混乱を鎮めようとしてくれるのか、私の頭をそっと撫でながら雪白くんは静かな声で話し始めた。
「彼女の強い感情の残滓が物の怪と結びつき、君の記憶を依り代にしてこの世に具現化した。
このままだと彼女の魂は物の怪に囚われて成仏できないで此の世を物の怪として永遠にさまよい続けることになる」
「今ならまだ…阿隅を助けられる?」
永遠という言葉を聞いてゾッとする。
神様とか輪廻とか信じていないけれど、それはとても苦しくて残酷な気がしたのだった。
「形と因果、それに名前が必要だ」
私から離れ手を顎に当てて考える仕草をした雪白くんの手首にキラッと光るなにかを見つけた。
慌てて駆け寄って雪白くんの腕を掴んで光ったものを確かめに行く。
急に腕を掴まれて一瞬驚いた顔を浮かべた雪白くんも、私が手に取った髪の毛くらい細い半透明のそれを見てなにかわかったような顔になる。
「糸?」
「蜘蛛…か」
雪白くんは私の手から糸を取り、そっと息を吹きかけてそれを円の外に吹き飛ばすとブレザーの襟を直しそう言った。
「形はわかった。残りは因果と、名前だ」
授業で使うための資料として集められている新聞でなにか手掛かりを探したいという雪白くんは、ずっと無言でパラパラとファイリングされた記事に目を通している。
私はというと、特にすることもなく、雪白くんの邪魔にならないようにと彼のはす向かいに座って最近はやりの限界集落さに住む老人がゾンビと戦う小説に目を落としていた。
小説も中盤に差し掛かり、物語の中の木梨さんが手作り味噌を分けてあげるシーンに差し掛かった頃、雪白くんに声を掛けられる。
もう!これからがいいところなのに!と思ったけど、そうだそうだ私は雪白くんの手伝いに来てるんだったと思い直し顔をあげる。
差し出された記事に目を落とすと、そこには全身を紐のようなもので拘束され腹部が切り裂かれるという事件があったという見出しが載っていた。
当時はその手段の残酷さに話題になったが、なんの続報もないままだったため、似た事件が学校であっても話題にすらならなかったレベルで忘れられていたし、私も忘れていた事件だった。
「この記事にある被害者の
名前を聞いた瞬間、私の頭に鈍い痛みが走る。
知っている。
聞いたことがある。
なんだっけ。
ズキズキと広がってくる痛みに耐えながら必死に思い出そうとする。
「…去年のクリスマス…阿隅と…」
「見つからなかったから心配したよ!昨日はごめんね」
なにかを思い出しそうになった瞬間に聞こえた阿隅の声で思考が途切れる。
頭痛はスッと引き、なにかに引っ張られるように私は阿隅の方に引き寄せられた気がした。
「あ!大丈夫だよ!今日来れてよかった。あれからおばさんに怒られなかった?」
「うん!大丈夫!でも、母さんったらなにか誤解してるみたいだから、しばらく私の家に来ないほうがいいかも…」
「そっかぁ」
「心配しないで!ちゃんと私から朱音はいい子だって話しておくから」
いつも通りのなんともない会話。でもなにか引っかかる。
不自然?なにが?あれ?私はなにをしていた?
なにかを…なにかを思い出して、雪白くんにそれを伝えようとしてたはず。
それはとても大切なこと。
私の気持ちを無視するように、私の顔は笑顔を作り、口が勝手に動く。
目の前の阿隅に変な様子もなく、「昨日はごめんね」と少し照れくさそうにいう。
私の気のせいかな。ちょっと物忘れするくらい誰にでもあるもんね。
「朱音!しっかりしろ」
納得しかけた時、雪白くんの声で我に返る。
そうだ私はなにかを思い出そうとしていたんだった。その瞬間、私は自分の体も思考もなにかに引っ張られた。
「ところで、月城くん…朱音を変なことに巻き込むのやめてくれない」
気が付くと阿隅が雪白くんのことを昨日のように睨み付けていた。
「阿隅…月城くんは悪くないよ…阿隅をたすけ…」
「朱音!今すぐその女から離れろ」
「?ーーーーーつ!」
なんとか誤解を解こうと思っている私の言葉を遮るように雪白くんが大声を出す。
なんのことがわからず聞き返そうとしたけれど、首がなにかに圧迫されて声が出ない。なにかが巻き付いている?でも何も見えない。なにこれ?
パニックになっている私の肩を掴んだ雪白くんは、私の体をそのままぐっと引っ張り内ポケットから出した短刀で何かを切るモーションをした。
勢いよく振り上げた短刀がなにかに当たって速度を落とし、ブチンという音がすると首の圧迫感が消えてなくなった。
そのまま私の体を抱き上げた雪白くんは、そのまま走って窓際へいったかと思うと、窓を開けてベランダへと飛び出した。
「とりあえず退くぞ。しっかりつかまってろ」
咄嗟に私は雪白くんの首に腕を回し、しっかりと体をくっつけながら阿隅の取り残されている図書室を見ようと首を回したが、雪白くんの体に隠れて中は良く見えなかった。
「え?え?阿隅がまだ中にいるよ?」
「後で話す」
雪白くんはそういうと、ベランダの手摺の上にひょいっと登った。
いくら私が小柄とはいえ、私を抱えてそんな簡単に登れるの?それにもしかして飛び降りるつもり?ここから?
まだ早すぎて誰もいない校庭を見てみるが、とても飛び降りて助かるとは思えない。
ちょっと待ってと雪白くんを止めようとしたとき、頭にまた鈍い痛みが走る。
【まったく朱音ってば本当に鈍いのね。
だから大好きな友達だったんだけど】
痛みがジワジワと波紋のように広がって阿隅の声だとわかるのに、阿隅の声じゃないなにかが私の頭の中に響いてくる。
なにこれ?阿隅はどうなったの?
【大好き大好き大好きだから…朱音…大好き】
「耳を貸すな」
響いている声は彼にも聞こえているのか、私が頭を抑えているからなにか感じ取ったのか、私の額に自分の額を合わせながら静かに一言だけそう告げて、雪白くんは前を向いた。そして、そのまま勢いよく手摺を蹴って空中へと飛び出した。
思わずギュッと目を閉じて雪白くんにしがみつく。風が頬にあたり、自分が高くから落下しているのが嫌でもわかる。
風とは違う硬さを伴うなにかが頬のよこをビュンビュン横切っていく気がして目を薄っすら開けてみるが何も見えなかった。
見慣れた校庭が目に入り、私たちは無事地面に着いたのだと気が付く。なんの衝撃もなく、さっきまで図書室にいたことなんて嘘だったみたいに私のことを抱えたまま校庭に降り立った雪白くんは、そのまま後ろを振り向くことなくすごいスピードで走り出す。
「これが怪異ってやつなの?雪白くん倒せないの?」
「…物の怪を裁くには…そいつの形と因果と名前を定めないといけない」
流れていくように目まぐるしく変わる景色と頬に当たる風ですごく速く雪白くんが走っていることはわかるけど、そんな速さにも拘わらず次々と黒いモヤモヤのようなものが追いかけてくる。
雪白くんは、私を抱えているにも関わらずそのモヤモヤをピョンピョンと飛ぶように掻い潜りながら、涼しい顔を崩さないままそう答えた。
「うーん名前なら…なんか殺人おばけとかじゃだめ?」
「…危機感がないな君は」
「だめかー」
雪白くんは、私のせっかく思いついた提案を呆れたように却下しながらどんどん裏山の道から外れた森の方へと向かっている。
その間も黒いモヤモヤはうねうねと私たちの近くに蠢いていて、時々蛇みたいに私たちの足や手に強い力で巻き付くけれど、それに引っ張られる間もなく、雪白くんが巻き付いたナニカを分厚いスライムか何かのように引きちぎりながら進んでいく。
最初は怖くて声をあげそうになったけれど、段々と進んでいくうちに雪白くんが落ち着いているからか、マヒしてしまっているのかどちらなのかはわからないけれど、怖さは不思議と感じなかった。
「名は存在を縛り、理に沿わせることが出来るもの。適当に考えた名前より、古からなるべく大勢のヒトに使われている名の方が…効果がある」
「えー!適当って!ひどい!」
「…朱音暴れるな」
つい雪白くんの首に回した手を放そうとしてしまい、慌ててぎゅっと体を雪白くんに寄せた。
やっと黒いモヤモヤが追いかけてこなくなったみたいで、雪白くんはしばらく走り続けた後、裏山の池の近くの小屋の前で止まった。
雪白くんは私を地面に下ろすと周りを警戒しながら小屋の中に入っていく。
なんだか久しぶりの地面な気がする…とホッと胸をなで下ろしながら私も、雪白くんのあとに続く。
彼は私に部屋の中央でじっとしているようにと言って、ブレザーのどこかから取り出した白い紙に赤い模様が描いてあるお札を小屋の窓やドアに張り付けていく。
手伝いをしようと、最後の一枚を手渡そうとしたけど、どうやら予備か何かだったみたいで、戻ってきた雪白くんは私の持っていた余りのお札には気が付かないまま最後の仕上げだという感じで紅い糸に鈴が等間隔で並んでいるもので円を描き私と自分を囲んだので私はそっと自分のポケットの中にお札を忍ばせた。
その円に入ったからなのか、たまたまなのかはわからないけど、急に頭の中にかかっていた靄が消えたような感覚がして、ハッとなる。
そうだ。なんでこんな大切なことを忘れていたんだろう。
私は…この目で見て、この胸でしっかりと喪失感を味わったはずだった。
「もしかして阿隅って死んでる…よね?」
ポロポロと私の目から零れる大粒の涙と一緒に次々と溢れ出てくる彼女のお葬式、全校集会、心無いニュース根も葉もないうわさ話といった思い出たち。
「そうだよね。そうだ。思い出した。去年のクリスマス…阿隅…彼氏ができたって言ってて…」
私は、雪白くんのブレザーの襟を掴みながら思い出したことを確認するように話し出す。
そうでもしないとこの悲しみとショックに耐えられそうになかった。手も唇も震えてうまく動かない。
そんなめちゃくちゃな状態の私の話を、雪白くんは黙って聞いてくれた。
阿隅は死んだ。
他殺だった。大好きで親は反対してるけど彼氏と一緒に住むんだって…。
それで、今年のクリスマスは彼の家にお泊りしてって…それで…そのまま、阿隅と連絡は取れなくなった。
何日も連絡が取れないのでさすがに怖くなった私は、阿隅のお母さんに事情を話したのだった。
そして、阿隅のお母さんが捜索願いを出してすぐ、彼女は無残な姿となって山の中で発見された。
複数人からの暴行の痕があったと刑事さんが話しているのを聞いてしまった気がする。
あっというまに、未成年の少女の悲惨な死はニュースになって、学校にマスコミが駆け寄って、阿隅はワイドショーや週刊誌に援助交際をしているとか、金品をだまし取っていたと書かれていた。
阿隅の彼氏はどこかの偉い人の息子だったらしく、とても優秀な弁護士さんがついたので実刑は喰らわなかったと聞いている。
そうだ。そうだった。それは…遊びに来たなんて言ったらおばさん怒るよ…。
雪白くんがそっと差し出してくれたハンカチを受け取り、私は涙を拭いながらもう一つ重要なことを思い出した。
「それなら…私が話してた阿隅はなに?」
「物の怪」
「え?」
薄々気が付いていたけど、認めたくなかった。
まだ信じられない私は、いつも阿隅とやりとりをしていた小型タブレットの履歴を隅から隅まで見てみるがどこにも阿隅とのやり取りはない。
阿隅と話している時の自分はどう見えていたのかとか、なんで阿隅が妖怪なんてものになってしまったのかとかいろいろな疑問が頭の中をぐるぐると回ってめまいがしてくる。
そんな私の混乱を鎮めようとしてくれるのか、私の頭をそっと撫でながら雪白くんは静かな声で話し始めた。
「彼女の強い感情の残滓が物の怪と結びつき、君の記憶を依り代にしてこの世に具現化した。
このままだと彼女の魂は物の怪に囚われて成仏できないで此の世を物の怪として永遠にさまよい続けることになる」
「今ならまだ…阿隅を助けられる?」
永遠という言葉を聞いてゾッとする。
神様とか輪廻とか信じていないけれど、それはとても苦しくて残酷な気がしたのだった。
「形と因果、それに名前が必要だ」
私から離れ手を顎に当てて考える仕草をした雪白くんの手首にキラッと光るなにかを見つけた。
慌てて駆け寄って雪白くんの腕を掴んで光ったものを確かめに行く。
急に腕を掴まれて一瞬驚いた顔を浮かべた雪白くんも、私が手に取った髪の毛くらい細い半透明のそれを見てなにかわかったような顔になる。
「糸?」
「蜘蛛…か」
雪白くんは私の手から糸を取り、そっと息を吹きかけてそれを円の外に吹き飛ばすとブレザーの襟を直しそう言った。
「形はわかった。残りは因果と、名前だ」