第2話

文字数 1,776文字

 二年前、バイクを買おうと孝之が決めたとき、母の和恵は顔をあからさまにしかめて、「お願いだから不良みたいなことはやめてちょうだいよ」と言った。
 そんな言葉を聞くことになると、予想してはいた。してはいたけれど、いざ実際に聞かされてみると、嫌な気分だった。

 バイク雑誌に目を落としたまま、気に入った車種をチェックしていたペンを止め――止めた途端に、久しぶりにはしゃいでいた気持ちが、穴の開いた風船から空気が抜けるようにふうっと萎んでいくのを感じた。
 窺うように、訊いた。

(なんで不良なのさ)
 和恵は大仰に溜め息をついた。
(なんでも何もないでしょ、あんなブンブン五月蝿いだけのもの。足が欲しいならうちの車を使えばいいじゃないの)
(マフラーを変なのに付け替えなければ、それほど五月蝿くならないよ。それにお金のことは、自分の金で買うから。大学、休みに入るから、バイトする)
(またそんなこと言って。自分のお金って言ったって、ご飯もこの家のローンも、大学の学費だって、全部お父さんが稼いでるんですからね)

 母のいつもの口上だ。自分の金で、自分の力で――息子のそう言う言葉を聞くといつも、彼の人生が彼女の手のひらの上にあるのだということを、どうにか示そうとする。

 二度目の国立大学の受験に失敗し、学費が倍もかかる三流私大に引っ掛かっただけの孝之には負い目がある。そう言われてしまうと、言葉に逆らう術がない。それでも、大学生にもなって自分が欲しいものも好きに買えないというのは、あまりに恥ずかしい気がする。

(バイクなんて危ないし、雨が降ったら乗れないでしょう。車検のお金だってかかるし、停める場所だってないじゃない。それでも乗りたいって言うなら好きにしていいけど、あとで後悔しても知らないんだから)

 この母は、小さな問題点を見つけ出しては積み上げていくのが得意だと、孝之は思う。昔から、孝之がしたいと言ったことに、頷いたことなど一度もない。
 高校卒業後の進路選択のときもそうだった。自然と四年制大学に流れる周囲の中で、デザインをやりたくて美術の専門学校に行きたいと孝之が言ったときも、彼女は相手にしなかった。周囲の流れに逆らうことは、誰でも通る道であり、誰もが後悔して引き返していく道であることを、滔々と説明してみせた。

 そうして入った大学の中で、孝之の生活は酷く希薄だった。節目節目で目的地を設けてくれていた受験がなくなると、向かう方向もわからなくなる。自分のしたいことがなんなのかもわからないまま、ずるずると呼吸を続けていく生活。

(何処に行ったって不満くらいあるでしょ。大学を辞めるっていっても、わざわざ一度受かったものを入りなおして、また思ってたところと違ってみなさい。後悔するんだから)

 何も何の考えもなしに飛び出していこうというわけではない。反発の思いで、きちんと調べることは調べた。情報を探るうちに嫌になるのが常だった。何処を見回しても立ち入り禁止の札が掲げられているような気がして怖気づき、進める道は結局今歩いているところしかないのだと尻尾を巻く。そしてまた後悔する。じくじくと無力感に襲われる。

 もう絶対辞めてやると、まだやれるかもしれないの間で浮き沈んでいく日々の繰り返し。夢なのか逃避なのかを推し量るだけの不毛な語らい。あやふやな見通しと、確かに費やした数年の時間。きっかけがどうしても掴めなかった。それでも惰性でなく自分の足で歩いていく級友を見るたび、自分の中で何かが腐っていくような気がした。

 そんなだったから、友達の250ccの後ろに乗って走ったときは気分が良かった。
 ずっとこんな新鮮な空気を、肺の中に送り込んでいなかった気がして。

「好きにしていい」の言葉に従って、孝之はバイトで金を溜めた。ここで好きにしなければ、そのうち好きにしていいと言われても何もできなくなる。
 それでも夏休み中、朝から晩まで働いて得た紙幣の厚みを渡すとき、確かに孝之は思ったのだ。ほんとにこれでいいのかな、と。

 バイクは手に入れた途端、指の間をするりと抜けて、月極駐車場で引き篭もりになった。
 引き篭もりになったバイクは、対人恐怖症になって、ホイールに蜘蛛の巣をつけたまま、外出拒否をしている。
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