第29話 騎士バッジョの覚醒  西暦525年

文字数 3,572文字

 ヒベルニア島 Hibernia Island

 足音は更に草原に近づいて来ていた。

 サラサラは持っていた弓を握り締め、矢筒より一本の鏑矢(かぶらや)を抜き取る。

(来る。もう少しで森を抜け出す!)
 背の高い針葉樹の右枝に足場を移したサラサラが、半身を幹に寄り掛からせる。サラサラは幹に隠れるような姿勢で、迫りくる足音の方位を見詰めた。

(森を抜ければ、サークルの石板は見えてしまう。けれど、足音が森を抜ける位置からでは、聳え立つ石板が盾となり、石台に眠る二人を見付ける事は出来ない。追跡者が父やバッジョ殿の姿を見つける前に鏑矢を放つ。追跡者が一歩でも草原に足を踏み入れたその時に…)
 サラサラはそう決めていた。

(唯、二人が眠りに就いてより、まだほんの少しの時間しか過ぎてはいない。二人は目的を達成したのか? その前に引き戻すことはできない…)
 サラサラは苦悩する。

 その時、草原に向かい走り来る足音が、ぴたりと停止する。

(何、足音が止まった?)
 掛け来る足音が、森を出る手前で急に聴こえなくなったのだ。

 サラサラは足音が停止した森の一点に視線を集中する。そして草原の手前に生える樹木を注意深く見詰めた。

 暫く見詰め続けていると、サラサラは針葉樹の枝葉が揺れ動くようすを確認する。

(草原の手前で木に登り、様子を伺うつもりか!?
 男が一人、素早い身のこなしで針葉樹に登りはじめるのを見つけた。

(徒者ではない。木に登る動作の素早い事、まるで猿のようだ!)
 又一人、並び立つ背の高い針葉樹に男が登り始める。草原に向かい駆けて来たのは、二人の人間であった。

(鏑矢を放つか? もうこれ以上、待つ事は出来ない!?
 思いきれぬサラサラの眼に、針葉樹に登っていた男がひとり、一瞬で木から滑り降りる姿が映し出される。

(何て敏捷(びんしょう)!?
 サラサラは余りにも素早い男の動作に驚く。そして更に、空気を切裂くかすかな振動がサラサラの鼓膜を通り抜ける。

(これは、犬笛!? 人間の耳には聞こえぬ音域…)
 サラサラの耳に犬笛の旋律(せんりつ)が聞こえた訳ではない。唯、振動する空気がサラサラに音色(ねいろ)の気配を伝えた。

(仲間を呼び寄せる気か!?
 サラサラの緊張は頂点に達する。

(今放たなければ、やられる!)
 瞬時に弓を弧の字に引き絞ると、サラサラは樹の上から一気に鏑矢を撃ち放った。鏑矢が大きな音を立て、ストーンヘンジの上に緩やかな弧を描いた。

「何? 鏑矢!?
 イワンとカンブレは、右の空から放たれた鏑矢を見て驚く。

 バッジョの行方を追跡して来た男達が唖然(あぜん)と空を見上げる中、針葉樹を(まばたく)く間に滑り降りたサラサラは、ストーンヘンジに向い青草の草原を駆け始める。

「イワン!! 女がサークルに向い、草原を駆けて行くぞ!」
 針葉樹の枝に乗るカンブレが大声を上げた。

「間違いねえ。ストーンヘンジの中央、石の台座に仰向けで寝てるのはバッジョだ。あの女、我等の事をバッジョの奴に知らせる積りだ。鏑矢なんぞ放ちやがって。よし殺せ。一気に片をつける!」
 イワンは草原へと足を踏み入れ、右前方を駆け抜ける女の姿を追い駆けた。巨樹から即座に滑り降りたカンブレも、草原に出たイワンの後を必死に追い掛けて行く。

「頭目を待たなくても良いのですかい?」
 カンブレは草原を走りながらイワンに尋ねる。

「こうとなっては仕方がねえ。二人で殺るのみよ!」
 イワンはカンブレに言葉を返した。

 サラサラは走りながら器用に弓を引き絞ると、二人の侵入者に向けて素早く三本の矢を撃ち放った。矢はイワンの右耳を(かす)め、走るカンブレの脚を止めさせる。

「おのれ、女と思って…」
 カンブレは先を走るサラサラとの距離を詰めると、特殊なナイフを投げつける。四方に刃を付けたナイフは回転しながら空中を飛び、サラサラを強襲する。咄嗟(とっさ)に払った鋼造りの弓がナイフの軌道を僅かに変えたが、投げつけられたナイフはサラサラの首筋を掠め髪を切り裂いていた。

 サラサラの脚はこの一撃の恐怖で(すく)んでしまう。

「カンブレ!! 女は後だ。バッジョの胸板にこいつをぶち込むのが先よ!!
 遠目に横たわるバッジョの姿を確認したイワンが、手斧(ておの)を振り上げ、ヒベルニアのストーンヘンジへと駆け込んでゆく。

 草原を駆け続けるカンブレもイワンの後に続いた。

 カンブレが投げつけた鋭い刃の強襲に、脚の竦んだサラサラ。それでもサラサラは懸命に脚を励まし、二人の後を追い掛けて行く。

(頭目の言う通りだ。ヒベルニア島のストーンヘンジにバッジョが居る。しかし何故、奴は石台の上で寝ていたのか?)
 イワンは考えていた。

(まあいい。奴が目覚める前が好機。必ず討ち取れる!)
 イワンはバッジョを仕留める事を確信をする。

 石板に囲まれたサークル迄、あと少しという所で脚が竦み、追跡者に先を許したサラサラ。それでもサラサラは己の成せることを忘れてはいない。サラサラは背負ってきた長剣を草原で抜き放つと、バッジョの眠る石台目掛けて、勢いよく剣を投げ放った。

 サラサラの腕から投げ放たれた長剣が、緩やかな放物線を描き、バッジョの眠る石台へと吸込まれて行く。

 空気を切り裂く鏑矢の振動が、バッジョを現世に呼び戻した。バッジョは仰向けの姿勢のまま、台座の上で微睡(まどろ)んでいた。

「騎士様。起きて!!
 バッジョの頭に、サラサラが発する切迫した魂の叫びが飛び込んで来る。

「騎士殿。既に戦いの最中(さなか)じゃ!」
 隣の石台に横たわる老人セラヌリウスの声がバッジョの耳に伝わる。

 (戦いの最中!?)
 その言葉にバッジョは覚醒(かくせい)をする。騎士である熱い血が、一気に体を駆け巡った。

「むうん!!
 鍛え上げられた腹筋を使い、瞬時に上半身を起こしたバッジョの瞳に、手斧(ておの)を振り上げ殺到する男の姿が映し出される。そして、男の頭上を追い越し飛び込んで来る長剣。

 この時、騎士バッジョの瞳には目に映る総ての光景が何ともうすのろで、下手な芝居を観ているような感覚にさえ映っていた。

 ガリアで見たセラヌリウス弟の動きに比べれば、このような者どもなど… バッジョは鼻糞をほじる時間の余裕さえ感じていた。過去に戻り見て来たセラヌリウス弟の素早い動きが、バッジョの動態視力を進化させていたのであろうか… 唯、冷静な思考のみが、バッジョのからだを支配していた。

「もらった!」
 大地を蹴り飛び上がったイワン。イワンの右腕から重い手斧が、バッジョの胸板目掛けて投げ下ろされた。

 風を切裂きながら縦に回転する手斧。バッジョの胸板まで僅か五メートルの距離。

 反面、眠りから覚めたばかりのバッジョにイワンは哀れみさえ感じていた。石台の上に半身を起こしたバッジョの姿が、イワンの眼には余りにも無防備なものと映されていたからである。

 しかし次の瞬間、台座の上に居た筈のバッジョがイワンの前から忽然(こつぜん)と姿を消す。目標を失い、石の台座に打ちつけられたイワンの手斧は砕け、石の破片と共に四方に飛び散る。

「何っ?」
 バッジョの姿を視界から逃したイワンは、(おのれ)の標的を見失った事に狼狽(ろうばい)する。しかし空中を飛び上がり重力の法則に支配されたイワンのからだは、バッジョが居た石台の前に着地するしか他に方法がなかった。

 この時バッジョは、空中を下降するイワンの背中合わせとなる位置に、その身を移してしていた。まるで、イワンのからだを擦り抜けたかのような素早さであったが、イワンの後ろに居たカンブレの目には、バッジョの動きの総てがはっきりと映し出されていた。

 石台に眠るバッジョが上半身を起こすと同時に、イワンは大地を蹴り空中に飛び上がった。振り上げた手斧をイワンが投げ下ろした時点で、カンブレもバッジョの命は(つい)えたものと確信する。石台の上に起き上がったばかりのバッジョのからだは、それ程までに無防備なものと、カンブの目にも映っていたのである。しかし次の瞬間、軽く頭を下げたかと思う間にバッジョのからだは素早く前方にひと回転し、イワンの攻撃を()り過ごしカンブレの前へと位置を移していた。

 バッジョの余りに素早い動作は、カンブレにして「頭目以上」と感じさせるに充分な速度であった。そしてカンブレの思考は途切れる。前転しカンブレの前に位置を移したバッジョの両手には、サラサラの放った長剣が握られていたからである。

 まるで手の平に吸い込まれるかのように空から降りて来た長剣。剣を放つバッジョの構えを知るように”ぴたり”と、長剣はバッジョのもとに舞い降りて来たのだ。

 紫電一閃(しでんいっせん)

 斜め上段より左に薙ぎ払われたバッジョの一振りは、空気をも切り裂いて行く。カンブレの首が跳ね飛んだ時には、バッジョの体軸は更に180度回転し、石台に向かい着地するイワンの胴体をも両断していた。

「後ろからすまぬ…」
 死者イワンに詫びるバッジョの言葉であった。
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登場人物紹介

Sophie(ソフィー) 

堕天使ルシフェルと対峙する程の、ピュア(pure)なパワーを持つ少女。




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