第一章(四) こんなことになろうとは

文字数 1,677文字

 障子が閉まると同時に、秋風道人が赤のジャージ姿で扉から現れた。秋風道人は手には同じく赤の上下のジャージを持っていた。
「はい、天笠くんの分」と秋風道人がジャージを渡してくれた。
 意味がわからないでいると、秋風道人が「早く着替えなさいよ」と促してきた。

 わけがわからないが、師装束から、赤のジャージに着替えた。着替え終わると、秋風道人が気軽に発言した。
「冥府に来るには、片道はタダだけど、現世に戻るには、お金が要るのよ。でも、天笠くんはお金がないみたいだから、現世に戻るには、走って帰るしかないね。道は誘導するから、一緒に走って、現世に帰ろうか」

 パチスロで熱くなり、帰りの電車賃まで使い込み、家まで歩いて帰った経験はある。だが、さすがに冥府の裁判所から現世まで走って帰りたくはなかった。
 というか、本当に走って現世に帰れるんだろうか。
「仙人のお宝的な、空飛ぶ車とか、なんか、ないんでしょうかね」

 弟子を(たしな)める態度で、秋風道人が小言を口にした。
「若い仙人の移動なんて、走るのが基本だよ。私も仙人に成り立ての頃は、よく山河を走ったものだよ。天笠くんも仙人をやるなら、足腰を鍛えるべきだよ。強い足腰は仙人には必須だからね。それに、師匠がいないなら、仙徒済と現世をよく往復するだろうから、道を覚えたほうがいいよ」

 現世に戻れるものならば、戻りたい。だが、果たして、どのくらい掛かるのやら。帰ったはいいが数百年が経過していたとなれば、それほど帰る意味がない。
 渋っていると、秋風道人が説得に来た。
「なに、迷っているんだい。御両親の気持ちを考えたかい。きっと天笠くんが早くに亡くなって、さぞ、悲しんでいるだろう。早く会いに行って、安心させてあげなさい」

 そうだ。両親が待っている。
「わかりました、お願いします」
 秋風道人に連れられて、裁判所の入口に戻った。秋風道人が走り出すと一瞬で見えなくなった。従いて行くもなにも、あったものではない。

 天笠が唖然(あぜん)としていると、見えなくなった秋風道人が即座に戻ってきた。
「ごめん、ごめん。師匠がいないから、仙人の走り方を知らないんだったね。教えておくよ。仙人の走り方は、足で地面を蹴るのではない。足は、地面に乗せるだけ。地面に体を運んでもらうように走る。慣れれば、一歩で百万里を進む移動が可能だから。ゆっくりやるから、真似てみて」

 秋風道人がのろのろとした動作で足を上げた。足を上げただけで、地面が動いたように秋風道人の体が前に進む。次に秋風道人が足を下ろすと、更に体が移動した。一歩の動作で三歩分の距離を進んだ。
 真似ると、簡単にできた。
「天笠くんは、筋がいいな。その調子で、どんどん行ってみよう」

 次は、もっと距離を出そうと一歩を歩くと、二十歩ぶんくらい進んだ。
 理解した。獄卒と一緒に歩いた時と、感覚は同じだ。獄卒と歩いた時は、地獄ではそういう風に歩けるものだと思ったが、違った。
 獄卒と歩いた時、すでに天笠は、仙人の歩き方をしていた。ただ、無意識下で行っていた。意識して実行すると、更に風景が高速で進んだ。

 歩くのが楽しかった。どんどんと走って行くと、面白いように風景が後退して行った。調子に乗って、高速移動を繰り返していた。
 秋風道人を置いてきたかも、と振り返った。秋風道人は気配もなく、流れる風のように天笠の斜め後ろにいた。

 秋風道人が横に並んで、飄々(ひょうひょう)とした口調で発言した。
「さて、ここからが本番だよ。ここから先に進むと、死が追いかけて来る。追いかけてくる死よりも速く進まないと、捕まるから。捕まったら、さっきの場所に逆戻りだよ。死を振り切れる足腰の強さがないと、仙人としては、やっていけないよ」

 秋風道人が速度を上げると、背後から何か暗く冷たい気配が追いかけて来る気がした。
 少しだけ振り返った。空間に()いた穴があり、大きな闇があった、闇の中には熊手やロープを持った無数の手が突き出していた。
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