第15話
文字数 5,863文字
広い玄関に入って息を深く吸うと、湿った木に匂いがした。いい加減ヒールが高いサンダルは疲れていたから、さっさと脱ぎ捨てる。木目が大きい床はひんやりと冷たかった。足の裏が気持ちいい。石畳の玄関に脱ぎ捨てたサンダルをそろえる。スリッパが置いてあったが、履きたくなかったのでそのまま裸足でいた。アサを見下ろすと、華奢なサンダルに慣れていないせいか、ボタンが硬くて外れないようだった。取れないーっと言いつつサンダルが壊れそうな勢いでボタンを引っ張っている。それを、心配そうに荷物持ちにさせた諒が見ていた。
もし外してあげようか、なんて言ったら後悔するわよ。
そういう視線でじっと諒を見ていると、さすがに諒は気づいているのかただ見ているだけだった。
「あらまあ。二人とも大きくなってー」
前掛けで手を拭きながら、奥から着物を着たおばさんが出てきた。ここの旅館、かりん荘の女将さんの良子さんだ。ふんわりとまとめ上げた白髪が何本か混じっている灰色の髪が去年とほとんど変わってないように見える。着物は淡い水色と黄色の涼しげな柄だ。目じりに寄せたしわが一層優しさを引き立てている。
「良子おばさん! 久しぶりー! 着物かわいいね!」
何とかボタンを外したアサは、しょっぱなからテンションを上げて良子さんにからんだ。良子さんは嬉しそうな顔をして微笑む。
「これ、今日着る初めての着物なのよー。安沙奈ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいわー」
片手を頬に当てて、にっこりと上品に微笑んでいる。全く老けを感じさせない笑顔だ。
森宮家は代々ここ豊駕島でかりん荘という旅館をやっている。旅館と言っても小さなものだが、経営はそこそこ成り立っていて、ユキやアサの家族と親しく付き合っている。アサとユキの祖父母の家はどちらももうこの島にはない。祖父母たちはアサやユキのお母さんたちからそれぞれしつこくすぐに会える本土に来るように言われ、体も体が心配ということもあって数年前から本土で暮らしているのだ。だから、その頃から毎年アサとユキはかりん層にお世話になっている。
「それにしても、本当に咲姫ちゃんと直樹くんも来てくれるなんて。何年ぶりかしらねえ」
玄関でアサが脱ぎ散らかしたサンダルを片付けていたところを直樹が呼ばれる。直樹は腰をかがめるのを止めて、まっすぐ良子さんを見た。
「えっと……多分、五、六年ぶりっすね」
それからペコリと頭を下げてよろしくお願いします、と言った。
「あら、いいのよーそんな堅苦しい挨拶は! 二人とも立派になったわねえ」
そう言いつつ、上がって上がってと、みんなを玄関の奥へと連れて行った。一般のお客さんは入れない、かりん荘と廊下一本で繋がっている良子さんの自宅に向かう。途中にある日本庭園のような小さな庭では、大きな赤いコイがゆらりと泳いでいるのが見えた。ユキとアサ、直樹と咲姫、それに諒と薫も荷物持ちとしてついてきているから、廊下は大勢が歩いてぎしぎし鳴っている。
「はい、じゃあ、ちょっとここで待っててね。おばさん、飲み物持ってくるから」
良子さんの自宅の居間である畳の部屋に座らされる。毎年おなじみの光景だ。ただ、咲姫と直樹だけはこれからどうなるのか分からないようで、首をくるくる動かして部屋を見渡していた。直樹は何とか咲姫の隣の席を確保してはいるが、反対側の咲姫の隣はもちろん薫が座っている。そして、その隣に諒が座っていて、その隣がアサである。
「アサ、ジュース!」
「俺も!」
諒とアサがリラックスしきった様子で注文している。
こういう、諒とアサが一緒になってるのが、たまに気に食わないのよね。
諒のアサに対する恋心にずいぶん前から気づいているユキは、頬杖をついて小さくため息をついた。
でもまあ、アサは諒のこと友達として好きなんだから、あんまり諒をいじめるのもよくないし。
そう割り切って、「あたし麦茶くださーい」と行きかけた良子さんの後姿に声をかけた。毎年、アサがジュースでユキは麦茶だから、良子さんは準備しているはずだった。
「あ、直樹と咲姫ちゃんはいいのー?」
「わたしは何でもいいよ。直樹くんは?」
咲姫に顔を下から覗かれるようにされた直樹は慌てて飛びのいている。
「へ?! 俺?!」
「直樹は何でもいいだろ? 咲姫が気にするようなことじゃない」
薫が柔らかく笑って直樹との会話をさえぎった。眼鏡の奥で、知的なのかずる賢いのかよく分からない瞳が笑っている。直樹を見ると、さすがにいらっとした顔になって、あぐらをかいてうつむいた。
ちょっと、やられっぱなしじゃだめよ、直樹くん。反撃しなさいよ。
「ね、ユキ」
ワンピースのすそを引っ張られてアサの方へと向き直る。
「何?」
「さっき言った、薫がもしかしたら使えるってどういう意味?」
薫がすぐ傍にいるのにもかかわらず、アサはユキの耳元で囁いた。慌てて薫を見たが今は咲姫を落とすこと以外どうでもいいようで、周りにあまり気を配ってないようだ。
「あー、その話ね。つまり、薫が咲姫ねえにべたべたすればするほど、直樹くんの嫉妬心は膨らむじゃない。だから、他の男にとられるぐらいなら、俺が告白してやるーって思って、シャイボーイじゃなくなるかもしれないってこと」
「あぁーそっか。なるほど」
ぽんと小さく手を打ってアサは頷いた。
「でも、この調子じゃ難しそうなんだけど……」
一人でじっと言いたいことも我慢している直樹を見ていると、シャイボーイじゃなくさせるのは至難のことだと思えてしまう。それに、咲姫ねえも大して積極性があるわけじゃないから、薫に流されるままになっている。島に来る前の感じでは、直樹のことが気になっているようなそぶりだったのに。
「なあ、二人して何の話してんの?」
横から今度は諒が首を突っ込んできた。
「ちょっと、恋のキューピッドでね……」
アサが難しそうな顔をして直樹と薫を交互に見ながら答えた。
「は? コイの急ピッチ?」
「……あんたぐらい、あんたの兄貴も頭悪いとよかったんだけどねー」
ユキも困ったように咲姫を見つめながら諒にてきとうに答える。
「ここは、今日の夜にでも咲姫ねえに話してみなきゃいけないかしら。できれば、直樹から積極的に動いてほしかったけど」
ため息と共に言葉を吐き出すと、アサが不思議そうな顔でユキを見つめた。
「何で? 何で直樹から動いてほしかったの?」
「だって、漫画の中ってみんなそうなんだもの」
ふう、とため息をついた。
ユキは意外と、少女マンガを読んでいたりする。人並みに漫画の主人公の女の子に憧れることだってある。
「へえ、そうなんだあー……。ユキって実は夢見がち少女? ドリーマーガール?」
「はあ? 何よそれ」
「はーい、飲み物よ」
ふすまが丁寧に開いて、そこからひざを折って座った良子さんがにっこりと微笑んだ。脇には大きなおぼんが置かれていて、その上にガラスのコップがたくさん置いてある。
「あ、わたし運びます」
慌てて薫とおしゃべりしていた咲姫が席を立った。形がユキと同じ真っ白なワンピースのすそがふわりと揺れる。
「あら、咲姫ちゃんありがとうねえ」
「いえ、泊めてもらうわけですし」
咲姫はおぼんを持って、テーブルの方へとこぼさないように歩いてきた。
「はい、直樹くん」
一番に直樹に麦茶の入ったグラスを差し出した。それを、直樹が咲姫と目を合わせなようにして受け取った。それから、みんなの手にグラスが行き届くと良子さんが口を開いた。
「それでね、部屋割りなんだけれどね。まず、毎年安沙奈ちゃんと有姫ちゃんは同じ部屋だから、今年もそれでいいかしら?」
「いいでーす!」
アサがにっこり笑って言い、ユキも当たり前、という顔で頷く。
「じゃ、これ鍵。二階の一番突き当りね。それから……直樹くんと咲姫ちゃんはここでいい?」
かりん荘の見取り図で、二階のユキとアサの部屋となった隣の部屋を良子さんはさした。しばらく、部屋に沈黙が訪れる。
「え、あの……なんで同じ部屋なんっすか?」
しどろもどろになりながら、ようやっと直樹が良子さんのおかしなところを質問する。
ユキが咲姫を盗み見ると、顔色を変えずにじっと良子さんの指した見取り図を見つめている。だが、緩やかにカーブがかかった髪から覗いている耳が赤い。どうやら、驚きすぎて頭の中がショートしてしまっているらしい。
「あら、遠慮しなくていいのよお。若いんだし、付き合ってるなら同じ部屋になりたいでしょう?」
うっわあ……良子おばさん、それ完璧な勘違い。しかもあんまり勘違いしてほしくなかった。これじゃあ、余計咲姫ねえと直樹くんが意識するわ。
ユキの心配をよそに良子さんはみんなが黙っている理由がつかめない様で、とりあえずにこにこ笑っている。
「えっと、あの、付き合って、ないです。わたしたち」
何とか言葉を紡いで咲姫が良子さんに訂正する。
「え、そうなの? あら、本当に?」
良子さんは目をぱちくりしてユキとアサの方を見た。アサもユキも無言で何度も頷く。
「まあ! やだわーわたしったら。勝手に勘違いしちゃったわ! じゃ、二人はこことここの部屋ね」
それぞれお向かいの部屋をさして、良子さんは何事もなかったかのように鍵を二人に渡した。二人とも赤い顔のまま鍵を受け取る。
「じゃ、さっそくお部屋にお荷物置いてきちゃいなさいな」
「はぁい! よし、ユキ行こおっ」
わざとアサが明るい声を出して思いっきり笑った。ユキもそれに合わせる。
「おっけー。じゃ、諒、あたしたちの荷物を持ちなさい」
「はあ? また俺ぇー?」
「当たり前じゃない! か弱いあたしたちが荷物持って階段なんて上れるわけないわ」
誰がか弱いんだよと言い、心底嫌そうな顔をしたが、諒も空気をきちんとわかっているので四の五の言わずに二人分荷物を持った。
三人で先に応部屋から出ようと席を立つ。咲姫と直樹を先頭に行かせたって、わからないに決まっているから。
荷物を持った諒が最初にふすまを抜けて、そのあとをアサも抜けた。ユキも続こうとすると、ぱしっと手首をつかまれた。そのままズルズルと階段と反対方向に引きずられる。アサと諒はそれに気づかずに先に階段がある廊下の奥へと進んでしまった。
「ちょ、ちょっと!」
声をあげるが、ユキを引きずっている張本人は無視して、どんどん逆方向に進んでいる。そして、今までいた部屋が見えなくなるように廊下を一度曲がり、ようやっと足を止めた。
「なあ、本当に咲姫と直樹付き合ってないわけ?」
「手、離しなさいよ」
相手を脅す時に使う声で薫に言うと、薫はすぐに手を離した。ごめんごめんと笑って謝っている。握られていた手首をさすりながら、薫をにらみつけた。
「まあまあ、怖い顔しないでさ。で? 本当に付き合ってないの? 俺、完璧に付き合ってるって踏んでたんだけど」
「薫、付き合ってるって思ってて、あんなに咲姫ねえに話しかけてたわけ?」
「まあね」
しらっと言われて、怒る気力も失せてしまう。
「…………付き合ってないわよ。でも薫が入る隙間もないから」
「お、付き合ってないんだ。じゃ、俺本気で頑張っちゃおっかなあー」
「ちょっと! 人の話聞いてる?!」
ここからじゃ、向こうにいる人たちには誰にも聞こえないのをいいことに大声が出た。薫は怒ったユキをなだめるように両手を広げている。
「まあまあ、そうやってすぐカッカすんなよ。見る人によっては、咲姫よりも有姫の方が好みって人もいるんだからな」
「そんなの知らないわよ! とにかく、咲姫ねえはだめ! 直樹くんとすぐ付き合うんだからっ」
「直樹ぃー? あいつそんな度胸あったっけ?」
本気でおかしそうに笑う薫を、ユキは黙って見ていた。こいつを関わらせれば上手くいけば直樹と咲姫がくっつくかもしれないなんて、どうして思ったんだろう。こんな嫌なやつ、自分の姉に話しかけるのを見るだけで不愉快な気持ちになる。
下唇を噛みながらじっと黙っていると、薫は思い出したように笑うのを止めた。
「あ、分かった。さっき安沙菜と話してたのは、それか。もしかしたら、俺がいい感じに直樹を刺激してくれるって思ったんだ」
「……完璧な見込み違いだったみたいだけど。話はそれで終わり? だったら、あたしもう行くから」
薫からきびすを返して、アサが待っている部屋へ行こうとする。こんなヤツに時間を割いてやれるほど時間が余っているわけではない。
そう思って一歩踏み出したのだが、また薫は慌ててユキの手首をつかんだ。
「あ、ちょっと待って」
「何?」
半分うんざりしながら振り向くと、薫は来い来いと手招きしている。しょうがないからもうちょっとだけ薫に近づく。薫はユキの背丈に合わせて屈んだ。
「俺、直樹からとらないで上げてもいいよ」
「え……っ」
本当? と言いそうになったところで、薫がずる賢い顔をしてにやっと笑った。そして、すっと姿勢を正す。あっという間にユキは薫に見下ろされる。
「でも、本当に気に入っちゃったら取っちゃうかもな」
「はあ? どっちなのよ?」
意味が飲み込めなくて、よく分からないことを言った薫を呆れた目で見た。薫はさっきと変わらず笑った顔を保ったまま、壁に背中を預けた。
「だから、猶予をあげるってこと。直樹だってずっと一緒に遊んできたしね。だから、始めのうちは直樹が焦る程度に咲姫にくっついてるよ。でも、あんまりあいつがうじうじしてたら、後はもう知らない」
薫が言った言葉を頭の中で反復させながらしっかりと飲み込む。それってつまり、かなりユキが望んでいたことに近い。直樹がうじうじしたときを思うと怖いが。
「……分かった。それまでに、咲姫ねえたちをくっつければいいんでしょ? 約束を破るのはなしよ?」
挑むような目で薫を見上げると、いきなり頭をくしゃくしゃと撫でられた。
「有姫、お姉ちゃん思いのいい子だなー」
「ちょ、髪が乱れるっ」
「んなもん、船下りたときから乱れてただろ」
そう言いつつ、薫は手を離した。
「そんじゃ、どうにかしてみろよ」
「言われなくても」
ユキが強く言い返すと、片腕を上げてひらひらと手を振って薫は一人で先に行ってしまった。もうかりん荘にいる理由はなくなったらしく、さっさと玄関の方に戻っていった。黒い半そでのシャツをかぶった背中がやけに広く見えた。
「ユキ? どこぉー?」
二階からアサの声が聞こえて、はっと顔を上げる。それから、早足で二階にと続く階段まで戻っていった
もし外してあげようか、なんて言ったら後悔するわよ。
そういう視線でじっと諒を見ていると、さすがに諒は気づいているのかただ見ているだけだった。
「あらまあ。二人とも大きくなってー」
前掛けで手を拭きながら、奥から着物を着たおばさんが出てきた。ここの旅館、かりん荘の女将さんの良子さんだ。ふんわりとまとめ上げた白髪が何本か混じっている灰色の髪が去年とほとんど変わってないように見える。着物は淡い水色と黄色の涼しげな柄だ。目じりに寄せたしわが一層優しさを引き立てている。
「良子おばさん! 久しぶりー! 着物かわいいね!」
何とかボタンを外したアサは、しょっぱなからテンションを上げて良子さんにからんだ。良子さんは嬉しそうな顔をして微笑む。
「これ、今日着る初めての着物なのよー。安沙奈ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいわー」
片手を頬に当てて、にっこりと上品に微笑んでいる。全く老けを感じさせない笑顔だ。
森宮家は代々ここ豊駕島でかりん荘という旅館をやっている。旅館と言っても小さなものだが、経営はそこそこ成り立っていて、ユキやアサの家族と親しく付き合っている。アサとユキの祖父母の家はどちらももうこの島にはない。祖父母たちはアサやユキのお母さんたちからそれぞれしつこくすぐに会える本土に来るように言われ、体も体が心配ということもあって数年前から本土で暮らしているのだ。だから、その頃から毎年アサとユキはかりん層にお世話になっている。
「それにしても、本当に咲姫ちゃんと直樹くんも来てくれるなんて。何年ぶりかしらねえ」
玄関でアサが脱ぎ散らかしたサンダルを片付けていたところを直樹が呼ばれる。直樹は腰をかがめるのを止めて、まっすぐ良子さんを見た。
「えっと……多分、五、六年ぶりっすね」
それからペコリと頭を下げてよろしくお願いします、と言った。
「あら、いいのよーそんな堅苦しい挨拶は! 二人とも立派になったわねえ」
そう言いつつ、上がって上がってと、みんなを玄関の奥へと連れて行った。一般のお客さんは入れない、かりん荘と廊下一本で繋がっている良子さんの自宅に向かう。途中にある日本庭園のような小さな庭では、大きな赤いコイがゆらりと泳いでいるのが見えた。ユキとアサ、直樹と咲姫、それに諒と薫も荷物持ちとしてついてきているから、廊下は大勢が歩いてぎしぎし鳴っている。
「はい、じゃあ、ちょっとここで待っててね。おばさん、飲み物持ってくるから」
良子さんの自宅の居間である畳の部屋に座らされる。毎年おなじみの光景だ。ただ、咲姫と直樹だけはこれからどうなるのか分からないようで、首をくるくる動かして部屋を見渡していた。直樹は何とか咲姫の隣の席を確保してはいるが、反対側の咲姫の隣はもちろん薫が座っている。そして、その隣に諒が座っていて、その隣がアサである。
「アサ、ジュース!」
「俺も!」
諒とアサがリラックスしきった様子で注文している。
こういう、諒とアサが一緒になってるのが、たまに気に食わないのよね。
諒のアサに対する恋心にずいぶん前から気づいているユキは、頬杖をついて小さくため息をついた。
でもまあ、アサは諒のこと友達として好きなんだから、あんまり諒をいじめるのもよくないし。
そう割り切って、「あたし麦茶くださーい」と行きかけた良子さんの後姿に声をかけた。毎年、アサがジュースでユキは麦茶だから、良子さんは準備しているはずだった。
「あ、直樹と咲姫ちゃんはいいのー?」
「わたしは何でもいいよ。直樹くんは?」
咲姫に顔を下から覗かれるようにされた直樹は慌てて飛びのいている。
「へ?! 俺?!」
「直樹は何でもいいだろ? 咲姫が気にするようなことじゃない」
薫が柔らかく笑って直樹との会話をさえぎった。眼鏡の奥で、知的なのかずる賢いのかよく分からない瞳が笑っている。直樹を見ると、さすがにいらっとした顔になって、あぐらをかいてうつむいた。
ちょっと、やられっぱなしじゃだめよ、直樹くん。反撃しなさいよ。
「ね、ユキ」
ワンピースのすそを引っ張られてアサの方へと向き直る。
「何?」
「さっき言った、薫がもしかしたら使えるってどういう意味?」
薫がすぐ傍にいるのにもかかわらず、アサはユキの耳元で囁いた。慌てて薫を見たが今は咲姫を落とすこと以外どうでもいいようで、周りにあまり気を配ってないようだ。
「あー、その話ね。つまり、薫が咲姫ねえにべたべたすればするほど、直樹くんの嫉妬心は膨らむじゃない。だから、他の男にとられるぐらいなら、俺が告白してやるーって思って、シャイボーイじゃなくなるかもしれないってこと」
「あぁーそっか。なるほど」
ぽんと小さく手を打ってアサは頷いた。
「でも、この調子じゃ難しそうなんだけど……」
一人でじっと言いたいことも我慢している直樹を見ていると、シャイボーイじゃなくさせるのは至難のことだと思えてしまう。それに、咲姫ねえも大して積極性があるわけじゃないから、薫に流されるままになっている。島に来る前の感じでは、直樹のことが気になっているようなそぶりだったのに。
「なあ、二人して何の話してんの?」
横から今度は諒が首を突っ込んできた。
「ちょっと、恋のキューピッドでね……」
アサが難しそうな顔をして直樹と薫を交互に見ながら答えた。
「は? コイの急ピッチ?」
「……あんたぐらい、あんたの兄貴も頭悪いとよかったんだけどねー」
ユキも困ったように咲姫を見つめながら諒にてきとうに答える。
「ここは、今日の夜にでも咲姫ねえに話してみなきゃいけないかしら。できれば、直樹から積極的に動いてほしかったけど」
ため息と共に言葉を吐き出すと、アサが不思議そうな顔でユキを見つめた。
「何で? 何で直樹から動いてほしかったの?」
「だって、漫画の中ってみんなそうなんだもの」
ふう、とため息をついた。
ユキは意外と、少女マンガを読んでいたりする。人並みに漫画の主人公の女の子に憧れることだってある。
「へえ、そうなんだあー……。ユキって実は夢見がち少女? ドリーマーガール?」
「はあ? 何よそれ」
「はーい、飲み物よ」
ふすまが丁寧に開いて、そこからひざを折って座った良子さんがにっこりと微笑んだ。脇には大きなおぼんが置かれていて、その上にガラスのコップがたくさん置いてある。
「あ、わたし運びます」
慌てて薫とおしゃべりしていた咲姫が席を立った。形がユキと同じ真っ白なワンピースのすそがふわりと揺れる。
「あら、咲姫ちゃんありがとうねえ」
「いえ、泊めてもらうわけですし」
咲姫はおぼんを持って、テーブルの方へとこぼさないように歩いてきた。
「はい、直樹くん」
一番に直樹に麦茶の入ったグラスを差し出した。それを、直樹が咲姫と目を合わせなようにして受け取った。それから、みんなの手にグラスが行き届くと良子さんが口を開いた。
「それでね、部屋割りなんだけれどね。まず、毎年安沙奈ちゃんと有姫ちゃんは同じ部屋だから、今年もそれでいいかしら?」
「いいでーす!」
アサがにっこり笑って言い、ユキも当たり前、という顔で頷く。
「じゃ、これ鍵。二階の一番突き当りね。それから……直樹くんと咲姫ちゃんはここでいい?」
かりん荘の見取り図で、二階のユキとアサの部屋となった隣の部屋を良子さんはさした。しばらく、部屋に沈黙が訪れる。
「え、あの……なんで同じ部屋なんっすか?」
しどろもどろになりながら、ようやっと直樹が良子さんのおかしなところを質問する。
ユキが咲姫を盗み見ると、顔色を変えずにじっと良子さんの指した見取り図を見つめている。だが、緩やかにカーブがかかった髪から覗いている耳が赤い。どうやら、驚きすぎて頭の中がショートしてしまっているらしい。
「あら、遠慮しなくていいのよお。若いんだし、付き合ってるなら同じ部屋になりたいでしょう?」
うっわあ……良子おばさん、それ完璧な勘違い。しかもあんまり勘違いしてほしくなかった。これじゃあ、余計咲姫ねえと直樹くんが意識するわ。
ユキの心配をよそに良子さんはみんなが黙っている理由がつかめない様で、とりあえずにこにこ笑っている。
「えっと、あの、付き合って、ないです。わたしたち」
何とか言葉を紡いで咲姫が良子さんに訂正する。
「え、そうなの? あら、本当に?」
良子さんは目をぱちくりしてユキとアサの方を見た。アサもユキも無言で何度も頷く。
「まあ! やだわーわたしったら。勝手に勘違いしちゃったわ! じゃ、二人はこことここの部屋ね」
それぞれお向かいの部屋をさして、良子さんは何事もなかったかのように鍵を二人に渡した。二人とも赤い顔のまま鍵を受け取る。
「じゃ、さっそくお部屋にお荷物置いてきちゃいなさいな」
「はぁい! よし、ユキ行こおっ」
わざとアサが明るい声を出して思いっきり笑った。ユキもそれに合わせる。
「おっけー。じゃ、諒、あたしたちの荷物を持ちなさい」
「はあ? また俺ぇー?」
「当たり前じゃない! か弱いあたしたちが荷物持って階段なんて上れるわけないわ」
誰がか弱いんだよと言い、心底嫌そうな顔をしたが、諒も空気をきちんとわかっているので四の五の言わずに二人分荷物を持った。
三人で先に応部屋から出ようと席を立つ。咲姫と直樹を先頭に行かせたって、わからないに決まっているから。
荷物を持った諒が最初にふすまを抜けて、そのあとをアサも抜けた。ユキも続こうとすると、ぱしっと手首をつかまれた。そのままズルズルと階段と反対方向に引きずられる。アサと諒はそれに気づかずに先に階段がある廊下の奥へと進んでしまった。
「ちょ、ちょっと!」
声をあげるが、ユキを引きずっている張本人は無視して、どんどん逆方向に進んでいる。そして、今までいた部屋が見えなくなるように廊下を一度曲がり、ようやっと足を止めた。
「なあ、本当に咲姫と直樹付き合ってないわけ?」
「手、離しなさいよ」
相手を脅す時に使う声で薫に言うと、薫はすぐに手を離した。ごめんごめんと笑って謝っている。握られていた手首をさすりながら、薫をにらみつけた。
「まあまあ、怖い顔しないでさ。で? 本当に付き合ってないの? 俺、完璧に付き合ってるって踏んでたんだけど」
「薫、付き合ってるって思ってて、あんなに咲姫ねえに話しかけてたわけ?」
「まあね」
しらっと言われて、怒る気力も失せてしまう。
「…………付き合ってないわよ。でも薫が入る隙間もないから」
「お、付き合ってないんだ。じゃ、俺本気で頑張っちゃおっかなあー」
「ちょっと! 人の話聞いてる?!」
ここからじゃ、向こうにいる人たちには誰にも聞こえないのをいいことに大声が出た。薫は怒ったユキをなだめるように両手を広げている。
「まあまあ、そうやってすぐカッカすんなよ。見る人によっては、咲姫よりも有姫の方が好みって人もいるんだからな」
「そんなの知らないわよ! とにかく、咲姫ねえはだめ! 直樹くんとすぐ付き合うんだからっ」
「直樹ぃー? あいつそんな度胸あったっけ?」
本気でおかしそうに笑う薫を、ユキは黙って見ていた。こいつを関わらせれば上手くいけば直樹と咲姫がくっつくかもしれないなんて、どうして思ったんだろう。こんな嫌なやつ、自分の姉に話しかけるのを見るだけで不愉快な気持ちになる。
下唇を噛みながらじっと黙っていると、薫は思い出したように笑うのを止めた。
「あ、分かった。さっき安沙菜と話してたのは、それか。もしかしたら、俺がいい感じに直樹を刺激してくれるって思ったんだ」
「……完璧な見込み違いだったみたいだけど。話はそれで終わり? だったら、あたしもう行くから」
薫からきびすを返して、アサが待っている部屋へ行こうとする。こんなヤツに時間を割いてやれるほど時間が余っているわけではない。
そう思って一歩踏み出したのだが、また薫は慌ててユキの手首をつかんだ。
「あ、ちょっと待って」
「何?」
半分うんざりしながら振り向くと、薫は来い来いと手招きしている。しょうがないからもうちょっとだけ薫に近づく。薫はユキの背丈に合わせて屈んだ。
「俺、直樹からとらないで上げてもいいよ」
「え……っ」
本当? と言いそうになったところで、薫がずる賢い顔をしてにやっと笑った。そして、すっと姿勢を正す。あっという間にユキは薫に見下ろされる。
「でも、本当に気に入っちゃったら取っちゃうかもな」
「はあ? どっちなのよ?」
意味が飲み込めなくて、よく分からないことを言った薫を呆れた目で見た。薫はさっきと変わらず笑った顔を保ったまま、壁に背中を預けた。
「だから、猶予をあげるってこと。直樹だってずっと一緒に遊んできたしね。だから、始めのうちは直樹が焦る程度に咲姫にくっついてるよ。でも、あんまりあいつがうじうじしてたら、後はもう知らない」
薫が言った言葉を頭の中で反復させながらしっかりと飲み込む。それってつまり、かなりユキが望んでいたことに近い。直樹がうじうじしたときを思うと怖いが。
「……分かった。それまでに、咲姫ねえたちをくっつければいいんでしょ? 約束を破るのはなしよ?」
挑むような目で薫を見上げると、いきなり頭をくしゃくしゃと撫でられた。
「有姫、お姉ちゃん思いのいい子だなー」
「ちょ、髪が乱れるっ」
「んなもん、船下りたときから乱れてただろ」
そう言いつつ、薫は手を離した。
「そんじゃ、どうにかしてみろよ」
「言われなくても」
ユキが強く言い返すと、片腕を上げてひらひらと手を振って薫は一人で先に行ってしまった。もうかりん荘にいる理由はなくなったらしく、さっさと玄関の方に戻っていった。黒い半そでのシャツをかぶった背中がやけに広く見えた。
「ユキ? どこぉー?」
二階からアサの声が聞こえて、はっと顔を上げる。それから、早足で二階にと続く階段まで戻っていった