最低の日
文字数 3,383文字
白いカーテンの隙間から、朝の光が射している。
なんだか変な夢を見たような気がするが、内容はよく覚えていない。
そういえば昨日も、変な一日で疲れた。
好きな男子にレベル高い彼女がいることが判明するし、何よりロダンとかいうえらそうな黒猫が登場した上、うちに住み着いてしまった。
しかも両親も兄もロダンの存在を不審に思わず、昔から飼っている猫だと認識している様子。
そしてロダンを飼いたいと言い出したのは、母の弁によると、みのり自身らしい──
いやいや、そんなめちゃくちゃなこと、あっていいわけない。みのりは大きくあくびをすると、つぶやいた。
「うん、ありえない。昨日の出来事は、なかった! やっぱりあれは全部、ただの」
「おまえ何ひとりでしゃべってんだ?」
凍りつくみのり。
おそるおそる声の方に目をやると、エメラルド色の瞳の黒猫──
ロダンが、怪訝そうにこちらを見つめていた。
──夢じゃなかった。
「出てって」
みのりは起き上がると、ロダンに向かって突進した。が、案の定、ひらりとかわされてしまう。
「突然うちに押しかけてきて何なの、エーテルハートだかなんだかわかんないけどそんなの知らないしほんと迷惑! お父さんとお母さんとお兄ちゃんを元に戻して、自分の世界に帰って!」
「そいつは無理だな。オレはエーテルハートを手に入れるまでここを離れるわけにはいかないんだよ」
そのうち、部屋のドアが開いてしかめっ面の母が顔を出した。
「みのりったら何騒いでるの! もう真帆ちゃん先に行っちゃったわよ!」
「え……」
スマホの時刻表示を見て青ざめる。
とりあえず今は変な黒猫は置いておいて、学校に行く支度の方が先決だ。
あわてて階下へ駆け下りる。
昨日とは、まるで真逆の朝だ。
制服に着替えたみのりはバタバタと紅茶だけの朝食を済ませた。
父は会社へ、兄は大学へ、とっくに出かけているようだ。
どうしてあのふたりはあんなに余裕を持って支度できるんだろう? みのりには昔から謎だった。
「みのり、髪の毛はねてるじゃない。リボンもきちんと結びなさい。全く昨日のは何だったの?」
「これでいい。ほっといて」
見かねて声をかけてきた母を半ば無視して、家を出ようとする。
みのりのあとについて階段を降りてきたロダンが、ニャーンと可愛く鳴いた。
「ほんとにもう、あの子ったらしょうがないんだから……ねえ、ロダンもそう思うわよね?」
みのりの母に頭をなでられながら、ロダンは心の中でつぶやく。
──早川みのり。ただのどこにでもいる小娘にしか見えない。
こいつとエーテルハートに、いったいどんな関係があるんだ?
* * *
なんとか予鈴前に学校に着いたみのり。
息を切らしながら上履きに履き替えると、教室に向かおうとした。
「早川さん」
呼び止められ、反射的に振り向く。
──目の前にいたのは、正直あまり見たくなかった顔だった。
D組の伊藤ほのか。
春休みから翔太と付き合い始めたという女子生徒だ。
彼女が、みのりに向かってニコニコ微笑んでいた。
「おはよう。ハンカチ落としたよ」
彼女の白くて小さい手には、確かにみのりの使っているキャラクターもののハンカチが握られていた。
ぎこちない動きでそれを受け取るみのり。
「あ、ありがとう」
「ううん。すごくかわいいね、このハンカチ。じゃ、またね」
軽く手を振って、歩き出すほのか。
間近でじっくり彼女の顔を見たのは初めてだ。
長いまつげに大きな瞳。ふわふわにウェーブした髪……まるで美少女の見本。
その上優しいなんて、私じゃ到底勝ち目ない。
いや、そもそも同じ土俵に立とうとすることすらおこがましいのかもしれない。
みのりはその背中をぼんやり眺めていた。
* * *
「みのり、大丈夫? 元気出しなよ。またいいことあるって」
昼休み。みのりは校舎の中庭でお弁当を食べながら、真帆に慰められていた。
うららかな春の陽気が心地いい、外でのランチには絶好の日和だったが、みのりの気は晴れないままだ。
周辺にはバドミントンに興じる女子生徒たちのはしゃぐ声が響いている。
お気楽でうらやましいわ、とみのりはぼんやり思った。
思い返せば昨日から今日にかけて、まさに踏んだり蹴ったりだ。
ロダンとの出会いが非現実的すぎて自分が失恋したことを忘れかけていたが、やはり学校に来て翔太の顔を見ると、平常心ではいられなくなってしまう。
昨日の朝は、彼と同じクラスになれてうれしいとばかり思っていたのに。
しかも今日の午前中は、散々だった。
数学の授業で当てられても難しくて答えられず、体育の授業でチームワークを乱して白い目で見られ。
みのりは、ため息まじりに洩らした。
「私……ほんとに付き合いたいとか、じゃなかったんだよ。遠くからでもたまに顔が見られたら、それで幸せだった。でも、やっぱり七瀬くんが他の子と付き合ってるんだ、それもあんな美少女とって思ったら、なんか……ね」
「しかしあんたのお弁当、相変わらず美味しいわ〜。特にこの卵焼き! ふわっふわで
「作ったのは私だけど、ほとんど昨日の残り物だよ……詰めたのお母さんだし。って真帆、私の話聞いてないでしょ! しかも勝手に食べてるし!」
「ごめんごめん、代わりに私の唐揚げひとつあげるよ」
「もう……」
真帆が差し出す唐揚げを、みのりは頬張る。
そういう真帆のお弁当の唐揚げだって、冷めているのにカリッとしていてとても美味しい。
不意に真帆が、真面目な顔でつぶやいた。
「でも、みのりは可愛いよ。それにこんなに料理上手で、いい子なんだから。私が男だったら、絶対みのりと付き合うのに!」
「真帆……いいよ、気を遣わなくて」
真帆の優しさが痛くて、みのりはうつむいた。
内向的で自分に自信のないみのりが唯一胸を張って特技といえること、それが料理だ。
小さい頃、作った卵焼きを祖父に絶賛されたのがうれしくて、それ以降積極的に料理をするようになった。
真帆も、みのりの作る料理を気に入ったひとりである。
だが今は真帆に褒められても、素直に受け入れることができず卑屈な気持ちになってしまう。
客観的に見て真帆は自分なんかより──翼が惚れるのも無理もないくらい──ずっと魅力的だからだ。
美人なのに気取ったところがなく、社交的で、明るいムードメーカー。
だから親しい女子も多いのに、昼休みも、下校時の寄り道も、週末の買い物も──彼女が誘うのは、なぜかいつもみのりだ。
どうして自分などと特別に仲良くしてくれるのだろうか、と思うことも、正直あった。
真帆は私といて楽しいのだろうか?
みのりは、心の中に広がるもやもやを止められないでいた。
* * *
終業のチャイムが鳴る。
みのりにとっては、解放の音色だ。
クラスメイトたちは新入生がどれくらい入部してくれるかとか、修学旅行の行き先はどこがいいかとか、他愛のない話で笑っている。
今日一日、新しいクラスでさんざんな姿を見せてしまった。みんな内心自分のことを馬鹿にしているんじゃないか──みのりは、一刻も早くこの場から消えたくて仕方なかった。
でも、家に帰ったら帰ったで、きっとあの黒猫が待っているのだ。
まだ、その現実を受け止められていない。
ただ心も身体も疲れていた。
「みのりー」
机から取り出した教科書をかばんにしまおうとしていると、ニコニコしながら声をかけてきた女子生徒がいた。
真帆だ。
「なんか、お腹空いちゃった。用事なかったら、昨日話してたクレープ屋さん行かない? 今日しんどそうだったし、私がごちそうするよ」
みのりは無言で真帆の顔を見つめる。
彼女も訝しげに見つめ返してきた。
「どうしたの?」
「真帆はなんでいつも私に優しくするの。どうせ私と一緒にいたって、楽しくないでしょ……」
「えっ?」
口に出してしまってからはっとしたが、もう遅かった。
真帆は困惑を隠せない表情でみのりを見つめていた。
「ご、ごめん!」
あわてて教室を飛び出す。
「おい、みのり、どうしたんだよ」
運の悪いことに扉の外には翼がいて、呼び止められたが、そのまま走り去ることしかできなかった。