川崎さんは百合なのか、違うのか

文字数 6,853文字

「山ノ内さんは、京都で行きたい場所ってあるかしら?」

「え、ええっと、特に希望はないよ。川崎さんは?」

「そうねぇ……」

 そう言って川崎さんは顎に指を当てた。

 その横顔は、がらんとした放課後の教室と背後の夕焼けと相まって、どことなく絵になっている。


 クラスメイトの川崎さんは大人っぽい。

 それはスラリとしたスタイル、滑らかな髪、こなれたメイクの話だけではない。

 川崎さんは文字を書いても、お弁当を食べても、ただ歩いても、何をしても品があるのだ。

 こんな同級生を見ていると、私含めて他の女子は小学生からやり直したくなると、よく話していた。

 しかし、もとが人格者の川崎さんなので、羨望や嫉妬の対象にはなるが、嫌われることはなかった。

 まったくもって完璧人間である。

 ますます羨ましくなる。

 ただ、一つだけ、欠点というわけではないが、真偽不明のある噂が川崎さんを取り巻いていた。

 それは、川崎さんの恋愛対象が女の子――端的に言って百合であるということだ。

 もちろん、今の世の中の風潮で、人格者相手に、襲われそうとかネガティブな話は出てこない。

 もともと、私たちは恋バナ大好き民族であり、一部には本気で川崎さんを狙いだしている子もいた。

 とは言え、私はそれを第三者視点で楽しむ野次馬に過ぎなかった。

 だから、

 二年生に進級し、川崎さんと同じクラスになり、同じクラス委員になるとは思わなかった。

 よろしくね、と言われたときのことをよく覚えている。

 なんの変哲もない挨拶だったけど、艶っぽい唇をきゅっと口角だけわずかに上げて、当然のようにアイメイクがされた涙袋で目を細め、綺麗とか美人というより色気に溢れていた。

 こんな色気があるなら、私だって抱かれてもいい気がしてくる。

 そして、今。

 そんな川崎さんと放課後の教室で二人きり、隣に並んでいた。

「蓮華王院、下鴨神社とかどうかしら?」

「い、いいんじゃないかな?」

 来月予定の修学旅行についての打ち合わせ中である。

 ただ、私は先生が用意してくれたガイドブックとにらめっこし、川崎さんのセリフに相槌を打つばかりだった。

 これが川崎さんでなければ、色恋や他人の噂話でジャブして、相手の人格タイプを判断するのだが。

 さすがにデリケートな噂を抱える本人と噂話はできない。

 しかも、同級生というより年上みたいな人相手に何を話せば――

「ねえ、山ノ内さん。もしかして私が百合だって噂、知っている? それで緊張しているの?」

「……」

 川崎さんは不意に私の顔を覗き込むようにして言い、私は相槌すらできず、数秒の時間を置いて、

「な、なにが!?」

 大きな声で裏返ってしまった。

 川崎さんはそんな私を眺め、目元は涼しげに、くすくすと笑った。

 意外にも、その笑い方は少し子供っぽい屈託さがあったが、その分だけ私は恥ずかしかった。

 私は咳払いをして、改めて口を開く。

「な、なんの話? 噂? ええ? 川崎さんの噂? そんなの知らないよ。私は噂話とか好きじゃないし。百合? 私は百合よりひまわりの方が明るくて好きだな。あ、ひまわりの種って食べたことある? あれってけっこう美味しいんだよ」

 私はまくしたてる。

 ちょっと混乱しているけど、ここはひたすら言い切って話題転換するに限る。

 だって川崎さんは、今私の顔を覗き込める位置にいるのだ。

 いや、私だって川崎さんがいい人だって知っているし、川崎さんになら抱かれてもいいと思ったことはあるけれど、それはそれでこれはこれで、人って二人きりになったらどうなるか分からないってお父さんも言ってたし、川崎さんのことはまだまだ知らないし――

 私は外側でも内側でもまくしていたが、川崎さんは軽く手を振ってみせた。

「大丈夫よ。そんな気を使わなくて」

 そして言う。

「だって、その噂、私が自分で流した噂だから」

「え?」

 私はぽかんと口を開けた。

「今、なんて?」

「私が女の子好きっていう噂は私が流したの」

 川崎さんはいたずらっぽく笑ってみせた。

 その顔はまた子供っぽいと思ったが、私の口は開いたまま動かない。

「私って、自分で言うのもなんだけど、男の子によく告白されるの。でも、それを断るのも煩わしくて、けっこうストレスになるのよね。でも、私が女の子好きって噂さえあれば、男の子から言い寄られなくてすむでしょ?」

「は、はぁ」

 私は男の子から言い寄られた経験すらないけれど、一応頷く。

「だけど、おかげで男の子だけじゃなく、女の子とも疎遠になりがちになっちゃってね」

「え? そうなの?」

 私が見る限りでは、川崎さんはいつも女子の中心にいるけれど。

「学校でみんなと一緒にいるときはいいんだけどね。今度、二人で遊ぼうって言うと、渋る子が出てきちゃって」

 自業自得だけどね、とどこか他人事のように川崎さんは言う。

 私は納得したが、ただその渋る子たちが渋る理由が噂以外にあることを、私は知っていた。

 女の嫉妬は激しいものなのだ。

 もし、百合という噂のある川崎さんと一緒に遊ぶ女子がいれば、周りはそれを付き合っていると認識するだろう。

 とすれば、川崎さんを本気で狙っている子が嫉妬に狂うのは必至。

 そして川崎さんと二人きりで遊ぶ子はいなくなった――という話である。

 とは言え、そもそもがデリケートな話なので、普段川崎さんと一緒にいる友だちも、ことのすべてを川崎さんに伝えることもいかないのだろう。

 だが結果的に、自業自得と言っても川崎さんが困ることになり、私もちょっと同情してしまった。

「じゃあ――」

 だから私はまた少し声が裏返っていたが、勇気を出す。

「今度、私と遊ぶ?」

 言うと、川崎さんは長い睫毛が目立つ目をパチパチとさせて、私は間違ったか? と思ったが、

「嬉しいわ」

 川崎さんは笑顔を見せた。そして、

「それじゃ、いつどこに行きましょうか。あ、前から行きたかった喫茶店があるのだけれど、そこでいいかしら? そこでランチをとって、ゆっくりお茶しながらお話してって感じの予定で。それなら日曜の十一時でいいかしら?」

 今度は川崎さんがまくしたててきた。

 そして私はまたも相槌の連続になる。

「女の子と二人きりで遊ぶなんて、久しぶりだわ。本当に嬉しい」

「……え、本当に嬉しいの?」

「当たり前よ。なんでそんなこと聞くの? それとも私と遊ぶの、本当は嫌?」

「そ、そんなことは――」

 川崎さんは優しく微笑み、私の手を掴んできた。

「私は本当に嬉しいわ。誘ってくれてありがとう」

 なんだか大人っぽいを超えて、天使みたいだった。

 そして同時にまた子供っぽくも見える。

 こんなふうに喜んでもらえると、私も勇気を出した甲斐がある。

 それに私も、けっこうミーハーなところがあるので、川崎さんとは遊んでみたかったという気持ちが前々からあったのだ。

 ただ川崎さんは川崎さんで、

「私、実は山ノ内さんと遊んでみたかったから嬉しいわ」

「え? 本当?」

「ええ、もちろん」

 と、言ってくれた。。

 それは、やはり大人っぽい川崎さんらしい社交辞令なのかもしれないが、

「なんだか照れくさいなぁ」

 私は顔が少し熱くなったのを感じた。

「ふふっ。素直に受け取って。私、可愛い子が好きなんだから」

「やめてよ、もう。川崎さんの方が美人じゃない」

「そ? ありがとう。さぁて、いいかげんクラス委員のお仕事の続きをしましょう」

 私は正直に、またちょっと勇気を出して褒めたのだが、あっという間に話題転換された。

 ちょっと寂しいが、川崎さんは褒められ慣れているのだろう。

 私も川崎さんを見習って、さっさと仕事を始めることにする。

 次は、みんなが好きそうな場所の候補を絞って――

「――ん?」

 と、そこで急に思考停止した。

 川崎さんは、私を可愛いと言った。

 いや、まあ、可愛いなんて全女子が活用する社交辞令ではあるし、私だって三日に一回は使う。

 だけど――

「――」

 私は、さっきから今までの会話を回想する。

 しかしどこをどう回想しても、川崎さんは、噂を流したのは自分だ、とは言ったものの、それ以上のことを言っていない。

 自分が百合であるという噂を一度たりとも否定していなかった。

「……」

 私はちょっと体が強ばったが、しかしせっかく仲良くなれたんだし、これぐらい今聞き直せばいい話だ。

「ねえ、川崎さん。川崎さんって好きなタイプは?」

「可愛い人かしら」

 ……あ、きっと可愛い系の男子が好きなんだ。

「ジェニーズの知根くんってカッコいいし、可愛い系でもあるよね」

「興味ないわ」

 ……人の好みは千差万別だよね。

「クラスの男子ってどう思う?」

「ゴミか、カボチャか、せいぜい豚かイノシシね」

 ……川崎さんは大人っぽいから、男子が子供に見えるんだろうな。

「今まで付き合った人はいる?」

「小学生のときにクラスメイトのカナちゃんと」

 ……小学生のときだしね。

 けどもう無理。

 ちょっと仲良くなったからって、改めてあなたは百合ですか? なんて聞けないから遠回しに攻めたけれど、もうこれは確定ではないか。

 私は眉間に皺を寄せる。

 しかも川崎さんは委員の仕事を本格的に取り掛かっていて、これ以上聞ける雰囲気でもない。

 その姿勢は、やはり大人っぽくテキパキとしたものであり、シャーペンを走らせ――

 その姿を見て、私は思い直す。

 もし川崎さんが百合だったとして、本来は慌てたりするべきことでもない。

 前にLGBTの人の講演というのも学校でやっていた。

 例えば男性の同性愛者だからって、相手が男性なら誰でもいいわけでもないし、襲ったりするわけじゃないと。

 川崎さん=百合=危ない人なんて式は成立しない。

 川崎さんは仮に百合だったとしても、人格者たる普通の人だ。

 そして川崎さんが危ない人だったとしても、それがどうしたとも言える。

 なにせ私は川崎さんになら抱かれてもいいと思ったことさえあるのだ。

 そのときはこっちがリードするくらいの気構えでいけば――

「山ノ内さん、本当にありがとうね」

「な、なにが!?」

 私はまた声が裏返ってしまった。

 そしてたった今考えた内容に自分で恥ずかしくなり、それが顔に出ていないか心配になった。

 だが川崎さんは私に構わず、またシャーペンを走らせたまま言う。

「誘ってくれて、本当に嬉しかったわ」

「あ、ああ、うん。別にいいよ。そんなたいしたことじゃないし」

 私は言いながら、川崎さんがこちらの顔を見ていないことに感謝し、平静さを取り戻していく。

 だが、

「私にとってはたいしたことよ」

 走らせていたシャーペンを、川崎さんは止めて、私に顔を向けた。

 その顔は、強い日差しのせいでできた陰でよく見えなかったけど、特に感情がこもっているようには見えなかった。

 しかし、私はその中で光る瞳と目が合い、ドキリとした。

「たいしたことなのよ」

 川崎さんは繰り返して、そのまま黙った。

 陰になった川崎さんの顔は、怖い顔にも見えたけど、蠱惑的にも見えた。

「えっと……」

 なんだろう、この空気は。

 私はなにかを言おうとしたけど、空気感に負けて、なにも絞り出せなかった。

 ちょっと、急に汗が出てきた。

「山ノ内さん、どうかした?」

「い、いや、べつに」

 川崎さんの問いに、私は答えるが、その質問をしたいのは、むしろ私の方だった。

 どうしたらいいんだ、この空気は。

 私は、一瞬だけ取り戻していた平静さをもう一度取り戻したかったが、もう無理だった。

 かろうじて川崎さんと目を合わせていたが、できれば今すぐにでも逸らして、適当な明るい話題に切り替えたかった。

 と、思っていたら、川崎さんの方から視線は逸らされた。

 川崎さんは言う。

「山ノ内さんって、指きれいね。触ってもいいかしら?」

「え?」

 突然のことに少し驚いたけど、頷いだ。

 話題転換になるなら、なんでもよかった。

 指を触られるなんてどうってことない話だし。

 たぶん、だけど。

「本当に綺麗ね。何か使ってるの?」

 川崎さんはおもむろに私の手を取った。

「……特には」

「なんにもお手入れしていないなんて、ダメよ。私のハンドクリーム使ってみる?」

 私は返事をしなかったが、川崎さんはさっさと自分の鞄からハンドクリームを取り出し、私は流されるように、ありがとう、と手を差し出す。

 だが川崎さんは、ハンドクリームを自分の手に広げ、私の手を取った。

「こういうクリームはね、強くしちゃダメよ? 優しく、丁寧にね」

 クリームは冷たかったけど、そう言う川崎さんの手つきは確かに優しかった。

 なんだか、ピアノでも弾いているように、滑らかに私の手を撫でていき、絡めていった。

 絡めすぎにも思えたけれど。

 なんだか、ピアノと言うより、恋人みたいな触り方だ。

 なんとなく、心臓の音が大きくなってきた。

「か、川崎さん。ありがとう。あとは自分で――」

 これ以上は、ダメだ。

 もう私の理性も限界だった

 だから私は言ったが、途端、川崎さんは私の手を握った。

「か、川崎さん?」

 振りほどこうと思えばできなくはない。

 その程度の優しい力だった。

 だが、それをすれば、完全に拒絶という意志を示すわけであり、それだったら――

 川崎さんの片手が私の手を離れたが、それはもう片方の私の手へ伸ばされた。

「こっちも、ね」

 川崎さんと私は、互いの両手を握りしめ合うような形になった。

 自然、

「山ノ内さんって、本当に綺麗な手だし、可愛い顔――」

 私たちは正面から向き合った。

 しかも、もともと隣り合わせで、両手で両手を握れる距離。

 川崎さんの顔がそこにある。

 相変わらず、陰が強くて、その表情ははっきりしない。

 涼しげに無表情なような、優しく笑っているような。

 ちょっと顔を詰めれば、川崎さんの顔は見えるだろうけど、そうするともう――

 川崎さんは、黙ってしまった。

 私は川崎さんをじっと見ている。

 どうやら川崎さんも私をじっと見ているらしい。

 なんとなく、距離が近づいてきたような気がする。

 川崎さんの顔の細部が見えてきた。

 繊細な前髪、長い睫毛、輝く目を彩るアイシャドウ、頬に塗られたチーク、そして唇に塗られた深い朱の口紅……

「はい。終了」

 川崎さんは言って私の手を離し、私は、

「へ?」

 と、そのまま手を掲げたまま固まっていた。

「今日はもうこれまでにしましょうか。続きはまた明日。あ、ハンドクリーム、調子がよかったら、あとでLINEで売ってるサイト教えてあげるわ。って、まだLINE交換してなかったわね。ふふ。……っと、これでよし。他になにか今日のうちに話しておかなきゃいけないことはあるかしら? ないわね? それじゃ、また明日ね。日曜日も楽しみにしてるわ。それじゃあね」

「……うん。それじゃあ」

 私は夕日が差す教室に一人ぽつねんと残された。

 最終的に怒涛の勢いだったが、私は今の出来事を回想する。

 結局、川崎さんは百合だったのか、ただ私をからかっただけ。

 私は固まったままの両手を見る。

 と、そこでピロンと、LINEが来たというアラームが鳴った。

 川崎さんからだった。

『今日はいろいろとごめんなさいね。嫌だった?』

 その文を読んで、私はふーっと息を吐き、返事をする。

『いろいろテンパっちゃったけど、気にしなくていいよ』

 送信すると、その返事もすぐ来た。

 だが、それは、

『そう。良かったわ。私、好きな人には嫌われたくないもの』

「――」

 その好きというのは、LIKEか、はたまたLOVEか。

 私は顔を覆いたくなった。

 だが、またもう一文、川崎さんから来た。

『それに、ひょっとしたら仲間かもしれない人だしね』

「――」

 私は静かにスマホを置いた。

 私は静かに顔を覆った。

 その手は、ハンドクリームの香料の匂いがした。

 ――私が百合だってこと、川崎さんにバレてる?
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