第8章・波紋

文字数 16,149文字

「憶えがない」
 スヴェルトはそう言って、髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。

があれば、いくら酔っ払っていたからと言っても、分かるはずだ」
 ジョスは長櫃の中を探りながら、スヴェルトの言葉を聞いていた。
「あなたが憶えていらっしゃらなくても、情けをかけられた証拠は、ありました」
「正直に言おう。今までも、呑んだくれてこういう事はあった。だが、何があったかくらいは、男だって、分かる」
「そのお話は、後にしましょう」淡々とジョスは言った。「今は、あの娘の主人に、謝罪をしなくてはなりません」
「俺が掻っ攫って、犯りましたってか」スヴェルトが更に髪を掻き回した。「憶えがないのにか」
「あろうとなかろうと、あなたと家畜小屋にいたのは事実ですから」
 忙しくしていないと、気が狂いそうだった。
 あのような光景、見たくなかった。殆ど現場を押さえたようなものではないか。しかも、夜がすっかり明けてから使いが来て、夜中にスヴェルトが酔って押し入って若い女奴隷を攫って行ったと言うのだから、ジョスにはどうしようもなかった。
「謝罪にそんなに必要か。それに、それはお前の財だろうが」
「あなたの不始末は、わたしの不始末でもありますから、気になさらなくても大丈夫です」
 母の織った極上の布を二疋、銀の宝飾品を何品か選んだ。どれも珍しい、遠国の品だった。
「――で、誰があの女の主人なんだ」
 ジョスはスヴェルトに目をやった。
「ヒュルガ、という名の未亡人だそうです」
 その名を口にするのも苦々しかった。一瞬、スヴェルトの身体が硬くなったようだった。やはり、と思わずにはいられなかった。
「あの娘は生娘だったのですから、賠償金は跳ね上がります」
 スヴェルトの喉から呻きが漏れた。
「身に覚えのない事でも、か」
 ジョスは答えなかった。スヴェルトの記憶にあろうがなかろうが、見てしまった事には変わりがない。それを、どう説明すると言うのだろう。
「おい、ジョス」スヴェルトは溜息を吐いた。「怒っているのか」
「仕方のないことですわ。起こってしまったことは」
 怒りなどしない。唯々、哀しいのだ。苦しいのだ。
 それをスヴェルトに言ったところで、どうなろう。
「では、あの女はどうするつもりだ」
「ここに引き取ります」
 それにはスヴェルトも愕いたのか、立ち上がった。
「なぜ」
「あなたのお手つきなら、そうしなければなりません。もしかしたら、あなたのお子が――」
 それ以上は言えそうになかった。ジョスは口を押えて嗚咽を殺した。
 スヴェルトが、ジョスを抱き締めた。折角、手にした品が床に音を立てて落ちた。
「俺の子を産むのは、お前だけだ、ジョス。あの女ではない。正妻のお前を差し置いて、そのような事は出来ない」
 正妻。
 愛しているから、でも、好きだから、でもない。
 ジョスはスヴェルトの腕を振りほどくと、床の物を拾い集めた。
「出かけてきます。あの娘はミルドに任せてあります。一つ、あなたの側女用に、部屋を与えなくてはなりません」
「一人で行くのか」
「ミルドはあの娘の世話をしておりますし、なるべく早くにうかがった方がよろしいかと。荷物はドルスに持たせます」
「あの男か。それならば、俺が――」
 スヴェルトの声に苦々しさが混じっているのを、ジョスは感じ取った。
 二人が顔を合わせた時に、どのような反応をするのか見たくもあったが、やはり、嫌な気持ちが勝った。
「あなたはお認めにならないのですから、いらっしゃるともめる元になります。それに、ドルスが最初にあなたを見つけたのですから」
 溜息を漏らし、スヴェルトは再び腰掛けた。
 ドルスに賠償の品を持たせ、ジョスはヒュルガの家に向かった。道々、訊ねながらだったが、不審げに見る人の視線にもジョスは怯まなかった。むしろ、ドルスの方が、おどおどとしていた。仕方がない。声を上げてジョスの気を引いてしまったのだ。気の利いた男なら、主人(あるじ)であるスヴェルトの意に添うように、もっと上手く誤魔化した事だろう。
 ヒュルガの家は、戦士階級の者の家屋としては取り立てて変わった所はなかった。
 屋根の雪下ろしをしている男に、ジョスは声をかけた。
「奥さまはご在宅かしら」
 男は、慌てたように屋根から降りてきた。若く、目の醒めるような美丈夫だったが、態度には少し、怯えているようなところがあった。ヒュルガは奴隷に厳しいのだろうかとジョスは思った。
「スヴェルトの妻、ジョスがお詫びにうかがったと伝えてちょうだい」
 どこか、探るような男の表情は不愉快だった。スヴェルトと自分の女主人との関係は、当然ながら知っているだろう。
 男が裏に消えて暫くすると、表の扉が開いた。美しい若い女が、ジョスとドルスを招き入れた。
 ヒュルガは、長椅子にゆったりと腰掛け、まるでジョスを見下すような薄笑いを浮かべていた。
「あら、これはスヴェルトの奥方さま。直々のお越しとは、どういった風の吹き回しでしょう」
 その言い方にも、ジョスに対するあからさまな侮蔑が含まれていた。
「この度は、わたくしの良人、スヴェルトが、奥さまの奴隷に不始末をはたらきまして、まことに申しわけありませんでした」ジョスは頭を下げ、用意しておいた言葉を淀みなく言った。「これは、その賠償でございます。どうぞ、お受け取り下さい」
 ジョスはドルスに合図をした。
 ドルスは家を出る際に指示していた通りに、前に進み出てヒュルガの近くの卓に賠償財を広げた。
 ヒュルガの目が、一瞬、きらめいた。
「相場からもうしますと、これで足りるかと存じますが」
 交易島での価値を考えると、実際には母の反物一疋でも充分なはずだった。
「わたくしね、奴隷は美しい者を使うのが好きですの」ヒュルガは言った。「あの娘はお気に入りでしたわ。それを、あなた、夜中に押し入られて攫われた挙げ句に、処女まで奪われたんですからね。商品としては、無価値になってしまったのですもの」
「それにつきましては、大変、申しわけないことと重々、存じております」
「でもね、わたくしとスヴェルトの関係ですもの、大目に見てあげなくてはね」
 と、ドルスに目をやった。
「その奴隷も、なかなか、いいわね。よかったら、買いますわよ」
 ドルスが怯むのが分かった。
「申しわけございません。この者は農夫ですので、奥さまのご趣味ではないかと思います」
 ジョスはそう言った。
「あなたのお気に入り、というわけね」その言葉には、嫌な響きがあった。「まあ、いいわ。それで、あの娘はどうなさるおつもりなのかしら。こちらでは、もう、引き取る気はありませんわよ」
「承知しております」ジョスは、自分でも愕く程冷静に言った。「スヴェルトさまが情けをかけられたのですから、側女としてこちらで世話をいたしたいと思います」
「それは殊勝な奥さまね」ヒュルガは笑った。「あなたより先に、あの娘にお子ができなければよいのですが」
 北海の男が好むのは、ジョスよりもあの娘だろう。何よりも、結婚後もヒュルガの許に通い続けたスヴェルトの好みでもあろう。
「では、これで交渉は成立いたしましたわね」
 ジョスは言った。
「ええ、わたくしは結構よ」
 一礼をして、後を振り返る事なく、ジョスはヒュルガの元を辞した。
 口惜しかった。
 立場上、ジョスは下手(したて)に出ねばならなかった。あの女に頭を下げねばならなかった。
 戻ると、スヴェルトは出掛けていた。顔を合わせるのが気まずいのは、お互い様だったが、ジョスには何とはなしに、逃げた、と思われた。話して欲しい事、話さなくてはならない事があるというのに、スヴェルトはいつものように戦士の館に行ってしまった。迎えが来たのかも知れないが、こういう時こそ、きちんと向き合いたかった。
 夕刻に、のっそりとスヴェルトは戻って来た。夕食も、普段よりは進まないようで、どこか、ジョスの機嫌を窺っているような所があった。
「話が、ある」
 蜜酒を一気に飲み干すと、立ち上がってスヴェルトは言った。これしきの事で酔う人ではない事は、ジョスも分かっていた。勢い付けの一杯だったのだろう。
 二人で話すには寝室しかなかった。スヴェルトは、厨房で働くミルドやマルナには聞かせたくはないようだった。
 寝室で、スヴェルトは自分の長櫃に座り、ジョスには寝台に座るように示した。そうするとジョスの方が若干、視線が高くなるが、スヴェルトはそれでも構わないようだった。
「往生際が悪いと言われようと、俺には身に覚えがない」
「あの娘には――」ジョスは言葉には出したくはなかったが、肝心な事だった。「あの娘には、情交の跡がありました」
「だが、俺にはない。おれが、あの女を手籠めにしたという証拠は、俺の身体には残ってはいない」
 どこまで行っても、平行線だろう。ジョスは、酔って正体をなくしたスヴェルトの言葉よりも、娘とヒュルガの言葉を信じるしかないのだから。
「大体、俺が無理矢理女をものにしたのなら、隣で寝ていた奴隷達が気付くだろう。家畜も騒ぐだろう」
「奴隷は、逆らう事は出来ません。あなたでなくとも、誰であろうとも。あの娘も、我慢をしていたのではありませんか」
 ジョスは目を伏せ、言った。誰かが女を連れ込んだにしても、それがスヴェルトだとは思わなかっただけだろう。
「お前の新床(にいどこ)のようにか」
 思ったよりも近くで声がして、ジョスは顔を上げた。直ぐ側に、スヴェルトの顔があり、ジョスを覗き込んでいた。その表情は真剣だった。
「お前は特別、我慢強かった。普通はそうではない事は、俺は知っている。自慢出来る話ではないがな」
 ジョスは唇を噛んだ。言わなければ済んだ事を。正直者。馬鹿正直なのだ、この人は。
「俺はあの女を側女にする気はない。俺はそんな器量ではない。お前だけで、充分、満足している」
 では、ヒュルガとの関係はどうなのだろうか、とジョスは思った。自分では不満だったから、あの女と続いていたのではなかったか。望まぬ婚姻に、望まぬ妻。海狼の娘だという事で拒否出来なかったから、一緒になったのではないのだろうか。
「もし、あなたのお子ができておりましたら、あの娘を側女になさいますか」
 スヴェルトは溜息を吐いた。
「それならば、そうする他あるまい。だが、それはないだろう」
 ジョスは疲れていた。
 認めたくはないが、事実は事実だ。何かの間違いであって欲しいと願う気持ちはあったが、事実を曲げる事は出来ない。
「ジョス」
 沈黙したジョスに、スヴェルトが問いかけた。だが、返事をする気持ちにはなれなかった。
「ジョス」
 再び、スヴェルトが問うた。
 返事をしないでいると、いきなり手首を摑まれた。
 あっと思う間もなく、両手首を取られ、寝台に押し付けられた。スヴェルトの全体重が手首にかかったようで、びくともしなかった。上半身は釘で打ち付けられたかのように動かず、脚もスヴェルトに押えられていた。不覚を取った、とジョスは思った。
「ジョス」
 スヴェルトが言った。怒っている風でもなく、至って冷静な声だった。
 そして、スヴェルトは静かに身を引いた。手首も、自由になった。だが、痛みがあった。
「済まなかったな」
 そう言って、スヴェルトはジョスの袖をまくった。摑まれた所が、赤くなっていた。
「あれだけの僅かな時間でも、俺はこれだけの力が出せる。唯論、本気でなどない。そんな事をすれば、お前の骨など、簡単に砕けてしまうだろう」
 確かに、そうだろう。ジョスはスヴェルトの怪力ぶりを初めて知ったような気がした。この人なら、人間の首も簡単に引きちぎってしまうかもしれない。
「酔って訳の分からん俺が、加減が出来るとは思わない。あの女に、痣や擦り傷、そういった怪我はなかったのか」
 ジョスは首を振った。
「殆ど、ミルドに任せていましたので、わたしには分かりません」
「俺は…」スヴェルトはジョスの隣に座して俯き、両手を膝の上で組んだ。「俺は、お前との新床で起こった事が忘れられない。痣が、身体のあちこちにあった。痛みもしただろう。兄貴に、お前は未通女(おとめ)なのだから気遣え、と言われていたのに。お前は、ただ、耐えていた」
「済んだことです」
「ジョス、俺は、お前が妻で良かったと思っている。満足している」スヴェルトは言った。「だから、他に女は要らない。それは、本当だ。信じられないかもしれないが、本当だ」
 ジョスは答えられなかった。
 これまで、この人は何人の女性をその腕にしてきたのだろうか。
 イルガスは、それを知らなかったのだろうか。
 それとも、独り身の男にとって、それは当然の事なのだろうか。
 スヴェルトがジョスを抱き寄せた。ジョスは、上の空で為すがままになっていた。

    ※    ※    ※

 全てが終わった後も、スヴェルトはジョスを放したくはなかった。
 今までの女には、感じた事のないものだった。
 常に、スヴェルトはジョスを捉え事の出来ない不安と共に抱いていた。しっかりと抱き留めておかなければ、するりと腕の中から逃げられてしまうような気がしてならなかった。
 だが、今回は違った。
 ジョスの心はどこか、遠い所にあるようだった。それでも、身体はスヴェルトに応えてくれた。
 ジョスの顔にかかった髪を、そっと払った。
 息はまだ荒かったが、その目はスヴェルトを見てはいないようだった。
「お前は、本当に、綺麗な女だな」
 スヴェルトは言った。睦言は自分には向かないと思って、今までは殆ど口にした事がなかった。だが、言わずにはいられなかった。それ程に、綺麗だと思った。最初はただ、綺麗な女と思っただけだった。それが、徐々に開花するように女らしさを増して行くジョスには、スヴェルトも愕いた。そして、身体の線を撫でた。
 なだらかで柔らかな曲線は、以前とは違う。女は男に抱かれる事によって変わるのか、それとも、子を孕んだ事で、変わったのか。スヴェルトには分からなかった。だが、自分がジョスから離れ難いのは、確かだった。全ての面で満足させてくれる、このような女は二人といない。
 焦点の定まらなかったジョスの目が、スヴェルトを捉えた。
「スヴェルトさま」ジョスは言った。「あなたの心は、一体、どこにあるのでしょうか」
 そっと手が延ばされて、スヴェルトの頬に触れた。
「わたしには、あなたが分かりません」
 ジョスの顔は哀しげだった。涙はなかったが、泣いている、とスヴェルトは思った。
「分からないのは、俺も同じだ」
 スヴェルトは呟いた。「俺は、馬鹿だからな」
 ジョスは微笑んだ。その表情に、スヴェルトの胸は締め付けられた。
「ああ、そうだ、俺は馬鹿だ。だから、お前を哀しませる」
 そっと、スヴェルトはジョスに唇付けた。

    ※    ※    ※

 毎日の生活に、異物が入り込んだような感覚を、ジョスは拭えなかった。
 あの娘、ハザルの存在のせいだという事は分かっていた。スヴェルトはその必要はないと言ったが、ジョスはハザルに一部屋を与えぬ訳にはいかなかった。予備の部屋は家使いの者の為の物しかなかったので、取り敢えずはそこに住まわせる事にした。
 そうなると、あの、泣き腫らした目をしていた娘は、奴隷の鎖を首には着けていたが、急に堂々とし始めたようにジョスには見えた。この家の主人であるスヴェルトが手を出した女なのだから、そういう事もあるのだろうと思った。
 スヴェルトは、遠征後のように早くに戻るようになった。そして、決してハザルには目を向けようとしなかった。
 ミルドはハザルと上手くはやって行けてはいないようだった。たまに、厨房から言い争う声が聞えた。そして、マルナもハザルに近寄らなかった。こちらは、どちらかと言えば、恐れているようだった。
 折角、居心地良く作り上げた家が、たった一人の存在で駄目になって行くのを、ジョスは感じた。
 スヴェルトが指摘した事を、ジョスは嫌だったが、次の日にミルドに確認してみた。ジョスの手首の痣は、消えるまでに三日かかった。だが、ハザルにはジョスの見たところでは、傷も痣もなかった。そして、ミルドの答えも同じだった。
 だとすれば、二人は合意の上だったのか。
 それならば、ドルスもソールトも気付かなかったのも道理と言えよう。
 では、スヴェルトが嘘を吐いているのか。それは、有り得ないとジョスは思った。確かに、大雑把な人ではあったが、嘘を言うような人ではない。ジョスはずっと、そう信じてきた。
 これからも、信じたかった。
 再び、スヴェルトはジョスの元へ戻って来た。だが、二人の間にはハザルという存在がいつもあった。
 信じる信じないの問題ではなかった、ハザルがこの家庭に入り込んだ事が、問題なのだった。スヴェルトは、ハザルを普通の奴隷として扱え、と言う。だが、もしもの事を考えると、それは出来なかった。また、恐らくはヒュルガの口からであろう、スヴェルトが側女を持ったという噂が膾炙(かいしゃ)している事を、ジョスはフレーダから知らされた。
「本当ですの、奥方さま」フレーダは、自分の事でもないのに取り乱していた。「ヨルドが申しておりました。奥方さまがお子に恵まれないから、船団長が側女をお持ちになった、と」
 皆は、ジョスが流産した事を知らない。それも、スヴェルトの優しさなのだろう。
「スヴェルトさまは認めていらっしゃいませんが、そうなるでしょう」諦めの気持ちでジョスは言った。「わたしは二十六になりますから。スヴェルトさまはともかく、周りは待てないでしょう」
「族長のことですか」
「族長は、船団長の地位をスヴェルトさまのお子にと考えていらっしゃいます。スヴェルトさまは、能力のある者が継ぐべきだとお考えのようですが、族長のお考えには、逆らえませんから」
「族長のお考えが、慣例ですもの」フレーダは言った。「ああ、でも、まだ早過ぎはしませんか。まだ、時間はありましょうに」
 ジョスはフレーダの手を取った。
「ありがとう。でも、族長のお考えなら、それに背くことはスヴェルトさまでも無理です」
「船団長は、その事で大荒れしていらっしゃるらしくて、つい先日も、その噂をしている者を殴り倒されたのだと、ヨルドが申しました。奥方さまは、大丈夫でいらしゃいますの。そのような者と、ご一緒にお住まいになって」
「わたしは、大丈夫」
 嘘だった。そして、この話はさっさと終わらせたかった。
「それよりも、ヨルドどのから、あれからは殴られてはいないの」
「わたしは慣れておりますわ」
 目を伏せるフレーダを、ジョスは抱き締めた。やはり、暴力は続いているのだ。
「他の家庭の問題なのでしょうけど、いけないわ。スヴェルトさまも気にしておいでです。あなたは、ヨルドどのの子達の母親でしょう。大切にされてしかるべきだわ。守ってくれる人は、他にはいないの」
「奥方さま、優しい奥方さま」フレーダの声は震えていた。「わたしの両親は亡くなりましたし、兄弟姉妹もおりませんの」
「何かあれば、助けられるかもしれないわ。だから、その時には、すぐにここに来て」
 フレーダは目を伏せた。
「ヨルドを、一人にはできませんわ。あの人にも、他に家族はいないのですから」
 例え、それがどのような男であったとしても、フレーダはヨルドから離れる気持ちはないのだ。ジョスは哀しい気持ちでフレーダと別れた。
 それは、自分も同じかもしれない。
 族長もタマラも、自分が流産したことを知らないのだとすれば、本当に側女を置かなくてはならなくなるだろう。その後、子に恵まれなかった夫婦もいる事をジョスは知っていた。年齢的なもので子が流れたと言う者もいるのかもしれない。それも、有り得る事だった。
 それにしても、荒れているというヨルドの謂いが大袈裟であるにしても、スヴェルトがハザルの件でそのような反応を示すとは思いもしなかった。外でどのような噂が流れているのか、ジョスは知りもしなかった。スヴェルトが何も言わないからだ。それは、守ってくれているのだと解釈しても良いのだろうか。
 噂は噂で放っておけば良い、というのが、ジョスの考えだった。だが、あのハザルとの関係を認めぬスヴェルトには、我慢ならないのだろう。
 その夜、食事が終わるとジョスは、立ち上がったスヴェルトに言った。
「わたしたちのことで、つまらない噂が流れているようですが、お気になさいませんように。好きに言わせておけばよろしいのです。冬ですもの、皆、話の種がほしいだけなのですから」
 スヴェルトは、むすっとした顔をしながら外套を着た。
「お前の事を、何も知らない奴らが勝手に喋るのを許せるのか」
「わたしのことなら、なおさらです。気にしておりません」
 ジョスは、スヴェルトに分厚く重い茶色の外衣を手渡した。
「俺が気にする」
 スヴェルトは声を荒げた。ジョスはたじろいだ。
「自分の女房が悪く言われて、黙っていられるか」
「では、お出かけになるのはお止めください。酔って、心にもないことを申す者もおりましょう。ならば、いっそのこと、聞かなければよろしいのです」
「…そういう訳にもいかんのだ」
 ジョスは首を傾げた。スヴェルトは毛皮を羽織ると、ぐいとジョスを抱き寄せた。
「兄貴の呼び出しだ。行かなくてはならない。お前の志は有り難く、受け取っておく」
 そう言うや、スヴェルトはジョスを突き放し、足早に出て行った。
 遂に、族長の耳に入ったのだろう。
 その意味を考えると、ジョスはおかしくなりそうだった。
 自分がタマラに言われていたように、スヴェルトも族長から同じ事を言われていたのだろう。
 ジョスは溜息を吐いて、崩れるように食卓の椅子に座した。
「奥さま、大丈夫でいらっしゃいますか。お顔の色が、悪うございますが」
 食卓の片付けをしていたミルドが言った。
 流産の一件から、ミルドはジョスの健康状態に対して少々、神経異質になっているようだった。あのような場に居合わせるのは、滅多にある事ではないのだから、仕方のない事なのかもしれない。
「ええ、大丈夫、ありがとう。それより、明日の麵麭の仕込みをしなくては」
「それは、わたしにお任せください。奥さまは明日、お願いいたします。今日は、もう、お休みください」
 ジョスは暫く考えた。遠征の間に、ミルドは家事全般を把握できるようになっていた。そのお陰で、自分が臥せっていた間には全てをこなしてくれていた。麵麭も、スヴェルトの好みかどうかはともかくとして、ジョスの教えたように焼くことは出来る。
「では、お願いするわ。旦那さまは族長のところにお出かけだから、お帰りはいつになるか分からないの。仕込みが終わったら、食卓の灯りだけ点しておいて、炉の火は消して休んでちょうだい」
 そう言って、ジョスは寝室に下がった。
 ハザルの件が族長の耳に入ったのなら、あの娘は公認のスヴェルトの側女となる。そうすれば、いかにスヴェルトが拒もうとも、それなりの扱いが必要になるだろう。
 今の使用人部屋ではなく、妾としての部屋を増築し、召し抱える者、衣服などの支度…。
 その全てを調えるのは、ジョスの仕事だとタマラは以前に言った。それが、女主人の器量だと。
 それが、ここでの常識だった。戦士階級でも自由民でも、奴隷女を囲う者は多い。島では有り得なかった事だ。奴隷の子は、いかに族長の子であったとしても奴隷身分だ。子がない者や、余程の才覚がなければ、本妻の子と同じ扱いは受けられない。
 もし、ハザルが身籠もっていたら、と思うと、ジョスはどうして良いのか分からなかった。
 自分に子が出来なければ、男女の別なく、その子がスヴェルトの後継ぎとなる。だが、もし、自分にも子が出来たとしたら、どうなるのだろうか。自分は、その子を奴隷身分のままにしておけるだろうか。ハザルを解放させ、その子にも相続権を持たせる事が出来るだろうか。
 全ては、スヴェルトの心で決まるのだ。

    ※    ※    ※

 「――で、兄上、話と言うのは」
 スヴェルトは、ダヴァルと差し向かいで呑んでいた。だが、いつまで経っても本題を切り出そうとしない兄に痺れを切らした。
「ああ、まあ、その事だが」兄は言い難そうだった。大体の用件の見当は付いていた。「お前、他家の奴隷女に手を出したらしいな」
「俺自身は覚えがありませんが」
「だが、奥方が賠償財を持って行ったそうではないか。それに、その女を引き取ったと聞いたが」
 スヴェルトは溜息を吐いた。
「その話ですか、はやり」
「噂だけではないのだな」
「ええ、その通りです」
 スヴェルトは椅子の背に深々と凭れ、脚を組んだ。
「なら、その女を側女にするのだな」
「俺はそのつもりはありません」
 ぐいと杯をあおってスヴェルトは答えた。「俺は妾持ちの器ではない」
「しかし、お前の奥方には子が――」
 杯を荒々しく音を立てて置き、スヴェルトは兄に最後まで言わせなかった。
「ジョスには、何の落ち度もありません」
「落ち度の問題ではなかろう」ダヴァルは顔をしかめた。「年齢的な事もあるだろう。あの歳で初子は難しいのではないか」
「兄上」スヴェルトは組んでいた脚をほどき、卓子に寄り掛かって小さな声で言った。「俺に責任があるのです、何もかも」
「それはそうだろう。酔っ払った挙句に他家の奴隷を連れ出すとはな。しかも、よりによって、ヒュルガのな」
 兄はスヴェルトとヒュルガの関係を知っている。
「それ以外にも、色々と」
 スヴェルトは頭を抱えた。そして、髪を掻き回した。どう説明すればよいのか、言葉が思い付かなかった。
「俺は、今までこれ程自分が臆病だとは知らなかった」
「お前が恐妻家だったとは、知らなかったな」
 愕いたように、ダヴァルは杯から口を離した。「そんなにあの奥方は気が強いとは思わなかったな」
「そういう意味ではありません。ジョスは心優しい、良い女だ。俺には過ぎた、女房だ」
「話が見えんな」
 二人の杯に、奴隷娘がなみなみと酒を注いだ。ダヴァルはその娘に顎で下がるよう示した。酒壺を置き、娘は下がった。
「言った通りですよ。ジョスは、俺達の知っている女ではない。全く、違う。何を考え、何を思っているのかも分からない。何故、俺のような男でも我慢出来るのかも」
 ダヴァルは声を上げて笑った。
「最後のは、分かるな。だが、女というものは、男にとっては分からん事だらけだ。そんな事を一々、気にするとは、お前らしくない」
「そう言う意味ではなく」スヴェルトはむっとした。「まあ、兄上はジョスと暮らしている訳ではありませんからな」
「こちらこそ愕いている」ダヴァルは大袈裟に両手を広げた。「お前のような大酒飲みの大飯喰らいの男に、よくもあの、海狼の娘が我慢出来るものだとな」
 それどころか、ジョスは自分の笑顔と笑い声が好きだとさえ言った。それは、兄にも秘密だ。思い出すだけでも赤面する。
「ジョスは俺が優しい、と言う。男に女は分からん、とは仰言るが、それは有り得んでしょう」
「――有り得んな」
 再び、ダヴァルは笑った。
 スヴェルトは杯に口を付けて、舐めるように蜜酒を飲んだ。
「果たして

は、俺に満足しているのでしょうかね」
「そのような事、俺が知る訳がなかろうが。自分で訊け、自分で」
 ダヴァルは手をスヴェルトに向けて、追い払うように振った。
「それが出来れば苦労はしません」
「それが、臆病者の意味か」ダヴァルはにやりと笑った。「さすがの猛者も、惚れた女には弱かったか」
 ヨルドと同じ事を言う、とスヴェルトは舌打ちをした。
「何と言っても、母君に似た、あれ程の美人だ。惚れてもおかしくはあるまい」
 兄がヨルドよりも始末が悪いのは、自分よりも年長で族長である事だった。
「確かに、ジョスは綺麗だが、それで惚れたとは限らんでしょう」
「そうだな、お前は一年間、ずっとごねまくっていたからな。余計に認めたくはないのだろう」
 兄は顎髭を撫でて、にやにやと笑った。
 そうだった、と改めてスヴェルトは思った。床入りまで、自分は結婚したくはなかったではないか。薄絹の下にずっと隠れていたジョスの顔を見た途端に、そのような事は忘れてしまったのではなかったのか。
「だが、惚れていようがいまいが、後継ぎの問題は、別だ。海狼の血を引いた子が出来んのは残念だが、仕方あるまい」
 そうではない。
 そう叫び出したいのを、スヴェルトは何とかこらえた。そうではない。ジョスは石女(うまずめ)ではない。
「兄上は、海狼殿の血が欲しかったのですか」
 スヴェルトは苛立った。
「姻戚関係が、七部族の結束の為にも必要な事は分かるだろう。それには、やはり直系の血は強い」
「では、何故、あの部族は他との姻戚を求めんのです。養い子を出しも入れもしないでしょう」
「分からん」あっさりとダヴァルは言った。「あの部族が最後に北海に加わった事と関係あるのかもしれんが、理由はお前の方が知っていそうだがな」
 確かに、ジョスは自分達とは違う神を奉じている。だが、こちらの神々にも抵抗はないようだった。奴隷はいない、と言った。族長自らが漁に出るとも。あらゆる面で、自分達とは異なり過ぎている。
「とにかく、その女を側女にする事だ。海狼殿の手前、族長集会が済むまで今のままで良かろう。だが、その分、奥方をせいぜい大事にする事だな」
「俺は、ジョスを大事にしているつもりですが」
「それは、奥方が決める事だ。お前のような気の利かん男では、心配で仕方がない」
 溜息を吐いて、ダヴァルは言った。余程、気になるようだ。
「俺達は上手くやっています。御心配には及びません」
 兄は、義姉とジョスの不仲なのをどの程度把握しているのだろうか、とスヴェルトは思った。ジョスは何も言わないし、義姉はスヴェルトを毛嫌いしている。女同士の問題に首を突っ込むのも面倒だった。
「まあ、あのように細い女はな、石女で良いのかもしれん」
 ぽつりとダヴァルは言った。
「どう言う意味ですか」
 早く子を、とせっついておきながら、今更、とスヴェルトは少々腹が立った。
「あのような女に、俺達のような大柄な男の子が出来たら。胎で育ち過ぎて、出産の時に両方駄目になる事も少なくはないそうだ」
「誰が、そのような事を」
 杯をぐっと握り締めて、スヴェルトは言った。
「療法師だ」
「療法師が、何故」
「俺が以前に手を付けた女が、そうだったからだ」
「兄上は――兄上は、その女に惚れていらっしゃったのですか」
 タマラに夢中だった兄に限って、そのような事はないだろうと思いながらも、スヴェルトは静かに言った。
「まあな、全てがタマラとは反対の女だったな」
 初めて訊く話だった。兄が奴隷女に手を付けた事も、その女が孕んでいた事も、当然、知っていた。だが、兄がその女をどう思っているかは知らなかった。訊く事もなかった。
 黙って、スヴェルトは酒入れを手にすると、兄の杯に蜜酒を注いだ。
「俺はジョスが大事です。女としても、女房としても、満足している。だが、あれがどう思っているのかは、俺には分かりません。子を欲しがっているのは、確かでしょうが」
 あの異教での葬送の際、強くそう感じた。だが、スヴェルトは恐ろしかったのも事実だ。それは、ジョスを失うかもしれない、という不安だった。兄の話で、それが現実に起こりうる事として重くスヴェルトの胸にのしかかった。
 大事に思うからこそ、失いたくはない。
 それに何の不思議もない。
 しかし、スヴェルトは自分がジョスに「惚れている」とは思わなかった。良い女、良い妻だからこそ、大事にもするし、失いたくもない。それで理屈は合っているのではないだろうか。
「取り敢えず、集会が終われば、俺は自分の土地に移ります。奴隷女を側女に、と仰言るのなら、あの離れでは狭すぎる。ジョスに子が出来ても同じです。人手も必要になりますし。集会ではジョスも家族に会いたいでしょうから、今のままでおりますが、夏になればあちらの方も調えておきたいと思います」
「少々、遅くなったがな、それが良かろう。まあ、もっとゆったりと暮らせば、奥方に期待も持てるしな。お前も良い夫になったものだ」
 ダヴァルは杯に口を付けた。
「それともう一つ、不愉快な噂が広まっているようだ」


 家の前で、スヴェルトは立ち尽くしていた。
 雪が、その身体に降り積もっても、寒さは全く感じなかった。
 自分は何をどうすれば良いのか、分からなかった。
 兄との話の内容を、ジョスに伝えねばならない。
 いつまでも立っていたところで仕方がないと思い切った時には、スヴェルトの身体は雪にまみれていた。
 食堂にはジョスの姿がなかった。普段ならば、どれ程遅くとも待っていてくれているはずだった。不安を覚えてスヴェルトは燭台を持って、寝室へ向かった。
 そっと扉を開けると、暖炉の火の明かりにジョスが身を起こすのが見えた。
「気分でも悪いのか」
 声を抑えてスヴェルトは言った。
「大丈夫です。それよりも、スヴェルトさまこそ…」
 ジョスはスヴェルトに近付くと、身体の雪を払った。
「どうなさったのですか、こんなに雪に――」
 スヴェルトはジョスを抱き締めた。温かな首筋に顔を押し当てた。
 ゆっくりと、ジョスの腕がスヴェルトの背に回された。
「冷え切っていらっしゃるではありませんか。今、暖炉の火を大きくいたします」
 スヴェルトはジョスの為すがままに胴着の上に着た物を脱ぎ、導かれるままに暖炉の前に座した。火掻き棒で小さくなった火を熾すと、ジョスは粗朶を加えた。
「こんなになるまで、どうなさったのですか。どこかで、転んだりはなさっていませんか」
「大丈夫だ」
 短く、スヴェルトは言った。
 手を火にかざして、スヴェルトは言葉を探した。だが、何も出ては来なかった。
 黙って、ジョスはスヴェルトの横に座った。
 視線を落としたスヴェルトの目に、ジョスの夜着の裾の刺繍が見えた。夜なべ仕事で、亜麻を織った残り糸で刺したのだろう。スヴェルトの下着の首回りにも、そうした刺繍が施されていた。衣服の繕い跡に、目立たない色ではあったが、何かの印が刺繍されている事もあった。
 そのような細やかな心遣いを見せる妻に、どうして兄との話を伝える事が出来るだろうか。
 残酷だ。
 だが、その種を撒いたのは他ならぬ自分なのだ。
「ジョス」スヴェルトはようやく言った。「ジョス」
御酒(ごしゅ)をお飲みになりますか、少しは身体も(ぬく)もりましょう」
「いや、酒はいい」
 スヴェルトは視線を落としたまま、言った。
「お前に暖めて欲しい」そして、ジョスを見た。その表情は、優しかった。「お前に、暖めてほしい」
 自分の言葉の馬鹿さ加減に、スヴェルトはうんざりした。だが、ジョスは笑わなかった。黙って、スヴェルトをその腕で包み込んだ。


 暖炉は熾火になっていた。
 ジョスを胸に(いだ)きながら、スヴェルトは話すべき事をぼんやりと考えていた。後になればなる程、話しづらくなるのは分かっていた。
「兄貴と話した」
 腕の中で、ジョスの身体がびくりと動いた。この女も、その言葉を覚悟していたのだろう。
「あの女を、側女にしなくてはならない」
 ジョスが深い溜息をついた。
「集会の後、新しい館に移る。それを機に、だ。それまでは、今まで通りだ。兄貴は体面を気にしているようだが、そんな事はどうでも良い。俺は、やはり、妾を持つような器の男ではない。お前だけで充分だと思っている」
 ジョスが身体を硬くするのが分かった。
「あなたは船団長でいらっしゃいますから、族長はその事もご心配なのでしょう」
「そうだ。だが、そんな事は俺にはどうでも良い事だ。前にも言っただろうが、実力のある者が勝ち取れば良いだけの話だ」
「そうもいきませんでしょう」ジョスがスヴェルトを見上げた。「ここでは、全てが世襲――長子相続ですから」
「お前の島では違うのか」
「あなたのおっしゃる、実力主義です。族長の地位も、長子だからとは限りません。末子のこともあります」
 そう言えば、とスヴェルトはイルガスの言葉を思い出した。そう言えば、イルガスは自分よりも妹の方が族長には相応しいと言った事があった。その妹と言うのは、ジョスの事なのか。女は族長になれないと言うと、笑ってはいたが。
「それが、正しい地位の相続なのだろう。それでなくては、部族に災いをもたらしかねんからな。だから、俺は、例えお前の子であっても、船団長を目指すなら実力でその地位を勝ち取らせる」
「それでよろしいかと思います」
「だが、そうは思わぬ者も多い。俺はお前が大事だ。妻としても女としても、お前以上の者はいない。だから、側女はいらん。そう言っても、聞き入れてはもらえん」
「優しい方」ジョスは再び、スヴェルトの胸に顔を寄せた。「わたしのことを心配してくださっているのですね。でも、族長に逆らうことはできません。あなたの兄上であっても」
 本当に優しければ、このような事態にはなっていなかった。
 スヴェルトは思った。
「大丈夫です、わたしは。あなたという方が、変わってしまわれない限り、大丈夫ですから」
 まるで、自分に言い聞かせているようだと思った。
「家のことは、わたしにお任せください。あなたは、ご自分のなすべきことに集中してください」
 どれ程の思いをこの女は抱えているのだろうかと、スヴェルトは思わずにはいられなかった。辛い、哀しい…そう言う言葉を一切、口にした事はなかった。だが、本当のところはどうなのだろう。そのような素振りは見せないが、自分のような男に嫁がされて、嫌ではなかったのか。長く自分を省みなかった夫に、待ちくたびれたりはしなかったのだろうか。
 良い男なら、この集落にも幾らでもいる。そういった男に、心を寄せる事はなかったのだろうか。
 スヴェルトは、直ぐにその考えを打ち払った。
 それは、ジョスに対する侮辱だ。亡くした子の父親を疑う事だ。また、これから産まれて来るかもしれない子の父親をも。
 だが、同時に、子の父を知るのは母親のみとも言う。
 夫は、妻がそう言えば、その言葉を信じるしかない。
 ヒュルガだけではなく、夫の留守にスヴェルトを寝床に誘った女は、一人や二人ではなかった。落とし胤はないものの、ジョスに限ってそのような事がない、と言い切れるのだろうか。だから、自分に対しても、我慢も出来れば優しくも出来るのではないだろうか。
 疑っては、いけない。
 スヴェルトはジョスの背を撫でた。そして、心地の良い髪の香りを胸一杯に吸い込んだ。
「どうなさったのです」
 眠気の混じった声で、ジョスが不審げに訊ねた。
「いや」
 スヴェルトは、全ての考えを振り払った。
 ジョスは不貞を働くような女ではない。ジョスがそうだと言うならば、この世界に貞淑な女など、存在しない事になるだろう。着替える姿も自分には見せぬようにする程の、慎み深い女だ。そのような事が、あるはずもない。
 それを言えば兄に、「お前は馬鹿だ」と笑われそうだった。だが、それでも構わなかった。兄が、集落の者が、ジョスの何を知っているというのだろうか。
 このような自分の胸に寄り添い、今は、もう、静かに微睡もうとしている。完全にスヴェルトを信頼しきっているような表情だった。
 自分が言葉足らずな事を、スヴェルトは口惜しく思った。気の利いた一言も言うことが出来ない。睦み言の一つも言えない。
 胸の中にある感情を整理する事すらも、出来ない。
 戦士として生きる為に必要なもの以外は、全て切り捨てて来た。このよく分からぬ胸のわだかまりも、恐らく、そのような物の一つだったのだろう。
 自分の心を表す方法は、捨てるべきではなかった。
 今更ながらに、スヴェルトは思った。
「ジョス」
 スヴェルトは呟いた。それが聞えたのか。ジョスは薄く目を開けたが、直ぐに閉じてしまった。
 以前にも問いかけた。
 今は、あの時とは状況が違ってる。
 それでも――
 それでも、お前はまだ、生涯を共にしたいと思っているのだろうか。
 一緒になって良かったと、思っているのだろうか。
 その答えを聞く勇気は、スヴェルトにはなかった。
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