見聞士 改稿版
文字数 2,405文字
眼下に広がる密林は、いまや夕暮れの山影にあって、闇夜の海原にも似た、言い知れぬ不気味さをたたえていた。遥か先では、夏だというのに雪を抱く峰々がそびえている。残照が、人間たちの行く荒涼とした痩 せ尾根道 だけを浮かび上がらせていた。
集団は、馬を引く行商人を中心とするが、武器を携えた男たちや、ボロ布のような長衣を引きずる巡礼者 も混じっている。街道より外れて数日。重い荷を背負って険阻 な道を行く馬たちは顔を歪め、鼻息を荒くしていた。
見聞士 のカイローは、そのなかを歩きながら、コウモリがひらひらと舞って蛾 を捕らえる様子を興味深げに眺めていた。そのうちに、天敵をあざ笑うよう器用にかわす蛾がいることに気がつく。つぶさに観察してしまうのは彼の、見聞士としての癖だった。
カイローは王立機関よりの命を受け、各国を渡り歩いている。表向きは、目にする珍しいものや、各地の伝承、風俗を書き残すのが役目だった。
小さな頃は、旅人に聞かされる未知の世界に憧れていた。峠を越え、橋を渡るたびに見知らぬ風景が広がり、そこには多様な人々の暮らしがあるからだ。振り返ると、人生の半分が旅と共にあった。
仕事柄、ありのままの描写を旨とするが、ときには故郷を思って拙 い詩も詠 んだ。
隊商との旅は道中の安全以外にも何かと都合がよい。傍では、駆け出しの行商人が手に入れたばかりの荷馬を引いている。知り合ってからまだ日は浅いが、商売敵 ではないカイローに気を許し、聞きもしないことまでよく喋る若者だった。カイローもそのいくつかを書き留めていた。
若者が言うには、新参の商人のうちでも血気盛んな者たちが、夜陰 に紛れて尾根を下り、密林の近道を抜け駆けしようと示し合わせているようだ。
やがて一団は、開けた場所を見つけると夜営の準備を急いだ。荷を下ろそうとするが、どの馬も気が立っており、商人たちはなだめるのに追われた。カイローの横でも若者が「よう、よう」と愛馬の首筋を撫でている。
尾根には薄闇が漂い、星が不吉に瞬 き始めていた。
人間たちは川の氾濫 に業を煮やし、渡河をあきらめて山越えの廃道 に踏み入ったのだ。野盗すら出ない僻地 だが、魔物との遭遇に備え、護衛が雇われていた。彼らはいま案内人と、夜の見張りについて話し合っている。
巡礼者たちは長い祈りを終え、硬いパンと水だけの食事をとっていた。なかには乳飲み子を連れた母親がいて、泣き止まない子をあやすのにずいぶんと手を焼いている。
旅慣れた古参の商人たちは火を囲み、下世話な話に花を咲かせていた。カイローが持参の酒袋を差し入れるだけで、彼らから珍しい話を聞けるはずだ。望めば温かいスープにもありつけるだろう。
尾根の裾 を覗 き込みながらカイローは、気もそぞろな様子で火を起こす若者に尋ねた。
「きみも、離脱の持ちかけに乗ればよかったと思っているのかい？」
若者の目が、向き直ったカイローの肩越しに何かを捉えていた。
彼の馬が首を高く持ち上げ、声を震わせていた。直後、頭上の闇から鼓膜の裂けるような咆哮 が打ち下ろされる。いまにも恐慌 をきたしそうで、カイローは身をかがめることしかできない。
本能が、絶対的な捕食者の出現を告げていた。
巨大な影が人々の真上を覆い、誰かが悲鳴を上げた。焚 き火が、艶 やかなクチクラ層で覆われた全身を暗闇に照らし出す。なめし皮のような翼を羽ばたかせ、鐘楼 ほどもある巨躯 が舞い降りた瞬間、空気を切る音とともに、しならせた尾が水平になぎ払われた。
鉄鍋や火が着いたままの焚き木、さらには染織物 や漆器などの商い品がまぜこぜになって宙を舞い、砂塵 だけが揺り返した。
むせ込みつつ、カイローが顔を上げると、近くにつながれていたはずの、若い商人の馬が消えていた。突 っ伏 していなければ自分も……と彼は戦慄 した。
魔獣――おそらくドラゴン――が遠雷 のような唸 りを立てながら、首をゆるりとめぐらせ睨 みを利かせる。
「すぐに、つがいのもう一匹が来る。刺激するなよ。馬も荷物も捨てて行け」
護衛のひとりがしゃがんだまま、静かに指示を出す。つがいが揃う前に縄張りから逃げるしかない。
人間たちは群れをなした。
カイローは、馬をなくしたあまり茫然 と座り込む若者の横顔をはりつけると、腰を抜かした巡礼の女を引き起こす。彼女は、しっかりと我が子を抱きしめていた。
――この赤子は危険を感じとり、母親に知らせようとしていたのだ！
ふと、ある山里で耳にした、馬に関する伝承を思い出し、後ろを振り返った。
ドラゴンは、つがいで獲物の群れを追い詰めて食らうというが、狩りにしてはあまりにも殺気立っていた。すると驚いたことに、自力で縄を脱した馬たちが十頭、二十頭と体を寄せ合い、天敵に対して歯を剥 き出すと甲高くいななき始めたのだ。
まさかの抵抗にドラゴンは苛立ち、蹴爪を立てて地面を踏み鳴らすが、腹を膨らませると、ふたたび激しい咆哮を浴びせかけた。
これには馬もたまらず、ことごとくが竿立 ちになって狂乱する。人間に至っては、背後から心臓をえぐられた錯覚を起こし、ばたばたと折り重なるように倒れ込んでしまった。
誰もが死を思った。
今まさに飛びかかろうとするドラゴンであったが、不意に背中を向けたかと思うと、身を乗り出して斜面を覗き込んだ。遠くでかすかな咆哮が響くとすぐさま翼を広げ、何かに狙いを定めた様子で、足元に広がる闇へと巨体を躍 らせた。
正気を取り戻したカイローは護衛の男たちと共に、失神した者を叩き起こして回った。
ドラゴンは繁殖期を迎え、警戒心を強めていたのだ。いつか聞いた、馬の生存本能にも運よく助けられはしたが、一刻も早く危険な狩り場を抜けなければならない。
人間たちは震える足に鞭 を打った。このまま夜を徹して歩くことになるだろう。
見聞士は眼下の森を一瞥 し、尾根を下った者たちの無事を祈ることしかできなかった。
集団は、馬を引く行商人を中心とするが、武器を携えた男たちや、ボロ布のような長衣を引きずる
カイローは王立機関よりの命を受け、各国を渡り歩いている。表向きは、目にする珍しいものや、各地の伝承、風俗を書き残すのが役目だった。
小さな頃は、旅人に聞かされる未知の世界に憧れていた。峠を越え、橋を渡るたびに見知らぬ風景が広がり、そこには多様な人々の暮らしがあるからだ。振り返ると、人生の半分が旅と共にあった。
仕事柄、ありのままの描写を旨とするが、ときには故郷を思って
隊商との旅は道中の安全以外にも何かと都合がよい。傍では、駆け出しの行商人が手に入れたばかりの荷馬を引いている。知り合ってからまだ日は浅いが、
若者が言うには、新参の商人のうちでも血気盛んな者たちが、
やがて一団は、開けた場所を見つけると夜営の準備を急いだ。荷を下ろそうとするが、どの馬も気が立っており、商人たちはなだめるのに追われた。カイローの横でも若者が「よう、よう」と愛馬の首筋を撫でている。
尾根には薄闇が漂い、星が不吉に
人間たちは川の
巡礼者たちは長い祈りを終え、硬いパンと水だけの食事をとっていた。なかには乳飲み子を連れた母親がいて、泣き止まない子をあやすのにずいぶんと手を焼いている。
旅慣れた古参の商人たちは火を囲み、下世話な話に花を咲かせていた。カイローが持参の酒袋を差し入れるだけで、彼らから珍しい話を聞けるはずだ。望めば温かいスープにもありつけるだろう。
尾根の
「きみも、離脱の持ちかけに乗ればよかったと思っているのかい？」
若者の目が、向き直ったカイローの肩越しに何かを捉えていた。
彼の馬が首を高く持ち上げ、声を震わせていた。直後、頭上の闇から鼓膜の裂けるような
本能が、絶対的な捕食者の出現を告げていた。
巨大な影が人々の真上を覆い、誰かが悲鳴を上げた。
鉄鍋や火が着いたままの焚き木、さらには
むせ込みつつ、カイローが顔を上げると、近くにつながれていたはずの、若い商人の馬が消えていた。
魔獣――おそらくドラゴン――が
「すぐに、つがいのもう一匹が来る。刺激するなよ。馬も荷物も捨てて行け」
護衛のひとりがしゃがんだまま、静かに指示を出す。つがいが揃う前に縄張りから逃げるしかない。
人間たちは群れをなした。
カイローは、馬をなくしたあまり
――この赤子は危険を感じとり、母親に知らせようとしていたのだ！
ふと、ある山里で耳にした、馬に関する伝承を思い出し、後ろを振り返った。
ドラゴンは、つがいで獲物の群れを追い詰めて食らうというが、狩りにしてはあまりにも殺気立っていた。すると驚いたことに、自力で縄を脱した馬たちが十頭、二十頭と体を寄せ合い、天敵に対して歯を
まさかの抵抗にドラゴンは苛立ち、蹴爪を立てて地面を踏み鳴らすが、腹を膨らませると、ふたたび激しい咆哮を浴びせかけた。
これには馬もたまらず、ことごとくが
誰もが死を思った。
今まさに飛びかかろうとするドラゴンであったが、不意に背中を向けたかと思うと、身を乗り出して斜面を覗き込んだ。遠くでかすかな咆哮が響くとすぐさま翼を広げ、何かに狙いを定めた様子で、足元に広がる闇へと巨体を
正気を取り戻したカイローは護衛の男たちと共に、失神した者を叩き起こして回った。
ドラゴンは繁殖期を迎え、警戒心を強めていたのだ。いつか聞いた、馬の生存本能にも運よく助けられはしたが、一刻も早く危険な狩り場を抜けなければならない。
人間たちは震える足に
見聞士は眼下の森を
