我道創作論:SF定義の大前提

文字数 5,088文字


 私は自己小説『vs,SJK』『G-MoMo』を〈FSF /Fuzzy Science Fiction〉としてシリーズを銘打っていますが、この呼称が固まるまでは〈ファジーSF〉と銘打ってました。
「ファジーSF? 聞いた事ないジャンルだけど?」って人、当然です。
 だって〈ハードSF〉の対語として、私が定義した造語ですから(少なくとも〝既にあった〟かは知らんwww)。

 たまに「科学考証や理論武装がアマいから」とか「玄人に粗捜し攻撃されそうだから」とかの理由で、自虐的に自分の作品を〈ナンチャッテSF〉とか表現してる人を見ますが、そんな卑下しなくていいんです。
「リアルな作品以外は〈SF〉とは言えないよね」なんてハードSF至上論は狭義的な自己陶酔でしかないし、そもそも〝その論〟の矛盾にも気付いてないだけ(この辺、後で書きますから)。
 私に言わせれば〈SF〉とは、もっとおおらかで多岐に渡るジャンルです。実は〈ホラー〉〈ファンタジー〉よりもヴァリエーションの懐は広いとさえ考えています。
 もう〝(一応は)科学論っぽさで合理的な理屈付け〟をしてあったら、それは分類として〈SF〉です。
 うん、〝っぽい〟でいい。

 彼の巨匠監督〝アルフレッド・ヒッチコック〟は名画『鳥』のラストに於いて〝鳥達の襲撃理由〟を明かすか否かで一考し、結局〝未解明のまま説明しない〟という投げっぱなしジャーマンなオチを選択しました。曰く「それを合理的に説明してしまうと〈パニックホラー〉ではなく〈SF〉になってしまうから」

 或いは同じ『ゾンビ映画』でも〈ブードゥーゾンビ〉を題材にした『吸血ゾンビ』は〈怪奇映画〉で、近年型ゾンビの発祥となった『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は(一応の)科学論的要素に起因しているため〈SFホラー〉に大別されます。

 ね?
 つまりは、そういう事なのよ。
 科学知識云々以前に、結局は〝理路整然とした合理的説明が有るか否か〟なの。口先三寸であっても〝理屈臭いか否か〟なの。

 だから、科学論ビギナーでも胸張っていい。
 卑下的に〈ナンチャッテSF〉よりか〈ファジーSF〉の方が、ちゃんと〈SF〉のカテゴリーとして意識できて誇らしいでしょう? 自分的にも。


 実は多くの〈SF〉って〝リアル(断言)〟じゃなく〝リアルっぽい〟だけなんです。
 うん、極端に言えば感覚の錯覚。
 〝SFの母〟と呼ばれる始祖的作家〝H.G.ウェルズ〟の言葉を『宇宙戦争』の後書から引用すると──

「私の科学小説は(現実的予見を込めたジュール・ベルヌの科学小説と比べて)可能性のある事を取り扱っていない。
 まったく相違した方向に想像を働かしているのである。
 みんな空想で、真面目な可能性を示した物ではない。
 夢の中で保つぐらいの真実味があれば良いと思って書いた。
 読み終わるまで読者を──証拠や議論に依らず──文芸的技巧や幻想によって──惹き付ければ足りるので、読者は巻を閉じた瞬間に、その不可解な事に気が付くであろう。
 かかる種類の小説の生きた興味は非空想的のところに存ずるのであって、発明そのものに依存しない。
 人情小説と同じような興味を動かすのである。
 違った世界とか奇抜な発明とかいう空想的の要素は、我々の心に起こる〝驚異〟〝恐怖〟または〝当惑〟の情を強化するために使用するので、それ自身は何でもない。
 この原則を飲み込まないと、愚かな誇張した物が出来上がる」
「空想小説の作者は読者に興味を持たせるため、まず不可能な理論を消化させなければならぬ。
 ありそうな事だと思わせて、その錯覚が消えぬ内に筋を発展させるので、その点で私の小説が現れた時には新味があったと思う。
 それまでは空想的探検小説を除けば、その空想的要素を魔術によって間に合わせたものである。
(中略)
 ところが十九世紀の終わりになると〝魔術〟で金を作り出す事すら困難になってきた。
 それで私は、今までのように〝悪魔〟や〝魔術師〟を引っ張り出す代わりに、科学的術語を巧妙に使用するのが好結果を得られるだろうと思った。
 これは決して大発明ではない。
 陳腐な物を現代的にし、できるだけ現実の理論に近付けさせたに過ぎない」

 と、いう事(結構〈SF作品の真髄〉を余す事無く語っちゃってます、ウェルズ大先生)。
 まぁ、私の〈FSF〉は〝愚かな誇張した物〟ですけどwww
 つまり重きを置くべきは〝物語〟や〝キャラ立ち〟の方にこそあって、基本的に科学論はリアルっぽく見せるための〈テクスチャー〉なワケです。
 早い話〈ロボット〉を〈モビルスーツ〉と一貫呼称すれば「なんという事でしょう(by加藤み ● り)」的にbeforeアフターな新しさという事。
 もちろん〈SF:サイエンス・フィクション〉ですから、ある程度は科学的な合理性でなければならないけど、それは個々で尺度が違うから自分の作品世界観的にOKならそれで善し。
 現実に顕現可能な論かどうかは二の次三の次。
 だって〈SF創作者〉は「SF作品を書きたい」のであって「ホーキング博士の後継者を目指している」ワケじゃないでしょう?


 そもそも〈SF:サイエンス・フィクション〉は、それ以前は〈サイエンス・ロマンス〉と呼ばれていて、最盛期であった五〇年代アメリカに於いては〈センス・オブ・ワンダー:不思議な感性〉とも呼ばれていました。
 だから、古典の中には最近のSF概念からすると〈モダン・ファンタジー:現代的幻想奇譚〉と呼んでもいい作風があったりします。
 この観点からしても『ウルトラ』とか『戦隊』とか『世にも奇妙な物語』も立派に〈SF〉なのです。
 そもそも〈ヒーロー〉〈ロボット〉〈ホラー〉等は〈SF〉と相殺する要素ではありません(だから〈SFヒーロー〉〈妖怪ヒーロー〉なんて細分化呼称があるワケですし)。
 ただ〝混在しただけ〟です。
 〝面白いか否か〟〝子供向けか否か〟等は〝SFか否か〟とは別判定案件。


 例えば、私が聖典として崇拝し続けている作品『フランケンシュタイン』は〈古典ホラー〉であると同時に〈SFの元祖〉とも称されていますが、それは、この作品が科学小説の細分化呼称が確立する以前に解剖学的設定基盤を物語プロットに盛り込んでいたが故。
 ですが、現代的科学視点では流石に『死体を縫合して電気ショックで甦らせた人造人間』なんてコンセプトは到底リアリティーを感じるものではないし『オカルト』でしかない。
 だけれども、現代ではともかく発表当時に於いて、この作品が科学的リアリティーを持っていた事は紛れもない事実で、それは同世代の古典ホラーキャラクターである〈ドラキュラ〉なんかと並べても露骨に〝科学的雰囲気〟を強調している特異なキャラクター性でも明らか(ココ、大事です)。
 つまり〝魔術で死体を蘇らせた〟でも成立する物語を〝解剖学で死体を再生した〟から『元祖SF』足り得た(実際『フランケンシュタイン』は、文学史的に『ファウストもの』と分類されています)。
 かと言って、作者〝メアリー・シェリー〟女史が『解剖学』に精通していたワケではなく、事実、作品内に於いてつぶさには描写されていない……あくまでも〈コンセプトソース〉に過ぎず、つまりは『科学っぽく見せている』だけなんです。


 さて、では何故〈ハードSF〉だけが絶対的価値観で賛美されるかと言うと……これはもう『ブレードランナー』の洗礼でしょう。
 この前衛的でシャープな作風&世界観は〈サイバーパンク〉というジャンルを確立した偉業でした。
 で、この洗礼を受けて心酔した人が「リアルじゃなきゃ〈SF〉じゃない!」なんて偏った価値観を主張し始めた。
 いや、私も『ブレードランナー』は好きですけどね?
 コレが革新的な大作なのは異論無いですけどね?
 それで「オレは〈SF〉を極めし者なんだぜ? ヘイヘ~イ ♪ 」ってのは「逆に短絡的な価値観じゃね?」みたいな。
 昔から『ウルトラセブン』信者が『ウルトラマンタロウ』を「あんな子供向けなオチャラケは〈SF〉じゃない!」って定番口撃する姿勢がありました……ってか、現在でも微々とありますw(目指した方向性が違うんだから『セブン』のルールで比較しても意味無いのにね?www)
 で、この論も結局は〈ハードSF至上主義〉で、依然進歩していない。
 そうした論を主張する割には『スターウォーズ』や『スタートレック』や『エイリアン』なんかは「イエーイ ♪ 」なワケで……これってば矛盾しています。
 だって「現実的でなきゃ〈SF〉じゃない」って言うなら〝人間同然のアンドロイド〟とか〝宇宙怪物〟とか〝星間戦争〟してる時点で、現時点では『現実的』じゃないですから。
 うん? 「いずれは、そういう時代が来るよ!」って?
 だ~か~ら~!
 〝いま現在〟来てないでしょ!
 それを言うなら〈フェルミのパラドックス〉だって「いずれは、そういう時代が来るよ!」でしょ?
 いつ〈宇宙人〉と邂逅するかなんて、誰にも否定できないでしょ? 〝いまは無い〟だけで?
 そういう主張で押し通すなら、心酔すべきは『日本沈没』や『SARS』や『アポロ13』とか『アルマゲドン』なワケで〝現実として明日起きても当然な作品〟だけを心酔すべきなんですよ。
 上記のような作風だけを容認して、それ以外を排他しているなら「言うだけあって硬派やな」と脱帽ですけど。
 ところが、この矛盾点を失念して「リアルじゃなきゃ」とか声高に言うマニアが結構いる。
 っていうか、然も正論みたいに大手振ってる。
 っていうか、映画監督や評論家にもいるwww

 だから、そこに対するアンチテーゼとして〈ファジーSF〉を提唱したかったのです。


 そもそも『ブレードランナー』は『フランケンシュタイン』の現代感覚アレンジですし、
『エイリアン』は古典スペオペ小説の金字塔『宇宙船ビーグル号』の〝宇宙怪物イクストルのエピソード〟から頂いちゃってるし、
『スターウォーズ』はジョージ・ルーカスが『フラッシュ・ゴードン』をやりたくて自作した作品です。
『スペース・ヴァンパイア』なんて『ゴシック吸血鬼テンプレ』以外の何物でもない。
 古典を現代的視点でも『リアル』に見えるようにテクスチャーを貼り直しただけ。
 だから、もう『ブレードランナー』でも『フランケンシュタイン』でもいいじゃない!
 『ウルトラセブン』でも『ウルトラマンタロウ』でもいいじゃない!
 『X-MEN』でも『僕のヒーローアカデミア』でもいいじゃない!
 『スパイダーマン(ハリウッド版)』でも『スパイダーマン(東映版w)』でもいいじゃない!
 『銀魂』でも『ドラえもん』でもいいじゃない!
 所詮〈SF〉は〝大衆娯楽〟だもの。
 選民的な高尚嗜好じゃなくて、万人が楽しむべき通俗娯楽だもの。
 あとは単に〝好き嫌い〟の嗜好問題!
 上も下も無い!

 だから、意欲的に〈SF〉へとチャレンジしている創作者さんは「科学論ビギナーだし、マニアの鑑賞に耐えられないから……」なんて卑下する必要無し!
「コレが私の〈SF〉なんだ! 文句あるか!」って、胸を張りましょう。
 逆に〝科学論を盾に優越否定してくるような輩〟には、こう返してやりましょう──「わー、スゴーイ! 博識だねー★ じゃあ、すぐに〈メガヒットSF〉書いて?」と。
 絶対書けませんからwww
 科学ウンチクだけで書けるワケがない。
 そんなアマいもんじゃない。
 だって〈SF〉とは、即ち〈作品〉ですもの。
 つまり〝惹き付ける構想力/アッと言わせる発想力/個性的なキャラクター立て/読者目線を意識した緩急勝負観/巧な文才〟そして、何よりも〝書き上げる熱意〟──こうした素地が備わってこそ『SF作品』として具現化出来るのです(ちなみに私的持論ですが、これは〝どれかひとつ〟でもいいんです……己の〈武器〉に磨きを掛けて突出させれば)。
 だから、書き手さんは胸張って下さい?
 サブカル史の観点では〝熱意に〈作品〉を書いているあなた〟の方が〝何も生み出せない科学ウンチク〟よりも尊いのです。
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※ フェルミのパラドックス:
 物理学者〝エンリコ・フェルミ〟が唱えたジレンマ論。
「銀河が果てしなく広い以上、地球と同じ環境の惑星が無いはずない。同様の進化論にて同等以上の知的生命体も必ず存在する。にもかかわらず、こちらからメッセージを送っても一向に接触が無いのは何故だろう」という概念。




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