ふたつの恋
文字数 3,233文字
新しい部屋も決定し、いよいよ家を出る兄をみのりはフェリー乗り場まで見送りにきていた。
見送りはいらない、と言われていたが、みのりがどうしてもといって聞かなかったのだ。
「たまに、遊びにいっていいよね。松山でおいしい鯛めし食べたいもん」
「言うと思ったよ。いいけど」
苦笑する兄。みのりは少しためらったあと、切り出した。
「私、なんでもできるお兄ちゃんがずっとうらやましかった。だけど、お兄ちゃんだってなんでもうまくいってるわけじゃなかったんだよね。最近になって、やっと気づいたの」
「なんだよ、急に。……でも、僕は内心みのりがうらやましいと思ってたよ」
「えっ!? そうだったの!? なんで!?」
兄からの予想もしなかった返答に、驚きを隠せないみのり。
「僕が大人に褒められる理由はだいたい、勉強やスポーツが人よりできるから。だけどみのりは素直で優しい子だって、いつも内面について褒められてた。特にじいちゃんにはな。割り切ってたつもりだけど、やっぱりうらやましかったよ。たまに」
「そうだったんだ……」
「だから結局さ、みんなうらやましいんだよ。自分じゃない誰かのことが」
兄はそう言って笑ってみせた。
なんだか心が軽くなったみのりは、兄に一番伝えたかったことを言おうと口を開いた。
「ねえお兄ちゃん。私のやりたいこと、あったよ。いつかお兄ちゃんが、まだ気づいてないだけって言ってたよね。本当にそうだった」
「よかったじゃないか。みのり、頑張ってるな。なんか相談ごとでもあったら、なんでも言えよ」
「ありがとう……!」
ボーッ、と汽笛が鳴った。出港の合図だ。
兄はこれからこの白い船に乗って、新天地へと旅立つのだ。
「お兄ちゃん! 行ってらっしゃい」
みのりは兄に最大限のエールを送る。フェリーに乗り込もうとした彼は、振り返ってこちらに軽く手を振った。
兄妹は今、それぞれの向かう道に踏み出そうとしていた。
季節はめぐる。
暑かった夏が終わり、そして秋も過ぎようとしている。
冷たい風に舞った枯葉が一枚、中庭のベンチに座るみのりのひざの上に落ちた。
枯葉をまた風に飛ばすと、みのりはかばんから取り出したアルバムを手に取り、開いてみる。ふっと口元が緩んだ。
──今までは、こんな風に思い出を振り返るなんて、しなかったな。
「みのりちゃん、ここにいたんだー!」
「愛ちゃん、里奈ちゃん」
顔を上げると、A組の女子生徒二人組が微笑んでいた。
あのクラスマッチ以降、仲良くなった子たちだ。クラスは違うが、あれから親しい友達として、交流が続いていた。
「何見てたの?」
「十一月までの学校行事で撮った写真もらったから、見てたんだ」
「へえー、うちらも見ていい?」
「もちろんいいよ」
アルバムを手渡すと、彼女らはページをめくり、はしゃいだ。
「これが体育祭のときのでしょ、これが修学旅行の清水寺で撮ったやつ……あ、文化祭のみのりちゃんだよ。めっちゃ真剣にお好み焼き焼いてるね」
「え、何これ。いつのまに撮られてたんだろ」
ヘラを手にし、鉄板に向き合う自分の写真を見て、苦笑するみのり。
「C組の屋台、やたらお客さん多かったよね。やっぱりみのりちゃん、食物学科目指してるだけあって料理上手いもん」
「あーあ、焦るなー。もう二年も半分過ぎたし、みんな進路決めちゃって──あ、これ宮崎さんのステージのやつじゃん」
里奈の指さした写真に、みのりは釘付けになる。
文化祭のステージ。アイドル風の衣装に身を包み、熱唱する真帆の姿が写っている。
昔から歌が上手かった彼女はかなりの注目を集め、一緒に写真を撮りたいと観客から引っ張りだこになっていた。
「このときの熱狂すごかったよね。宮崎さん背が高くて綺麗で、憧れちゃうな──身長少し分けてほしい」
「あぁ、愛ちゃん、よく小学生に間違われてるもんね」
「言わないでよ! 小学生じゃないし!」
「いいじゃん、小動物みたいで可愛いよ」
ふたりのじゃれ合いをよそに、みのりは真帆の言葉を思い出していた。
──私、気づいちゃったの。翼が好きだって。
「宮崎先輩と早川先輩、どっちか坂本先輩と付き合ってるんですか? 私、彼のこと好きですから。はっきりさせておきたいんです」
数日前。
一見おとなしそうな一年生の女子に、宣戦布告とも取れる発言を受けてから、真帆は様子がおかしくなってしまった。
──当然ながら、翼は彼女の告白を受け入れなかったようだが。
心配になりみのりが問いただすと、真帆は観念したように翼への想いを打ち明けた。
「え、え、うそ──……今までそんな素振り、全然見せなかったのに!」
まさか、真帆の方も翼のことを好きだったなんて。
喜ぶ気持ちと、友達なのになぜ言ってくれなかったのかという気持ちがみのりの中に交錯していた。
「もしあの子が翼と付き合い始めたら、って考えたら……モヤモヤして、何か嫌だ、ってなった。それで、もしかして──って」
「はあ……それだったら、真帆も告白するのは?」
「そんな! だって、生まれたときからずっと一緒にいて……かっこ悪いとことかいっぱい見せてきたのに。今更異性としてなんて、絶対見てもらえないよ」
頰を染め恥ずかしがる真帆。突然恋する乙女と化した彼女に、みのりは唖然とするしかなかった。
──だけど翼くんだって……真帆は美人で優しくてモテるから、他の男子からの視線にいつもやきもきしていたんだよ?
……と言えないのがもどかしい。ただこのまま、静かにふたりを見守っていたいと思った。
──私よりずっと大人でしっかりしてると思ってたけど、自分の恋のことになるとこんなに自信がないなんて。
──真帆も、普通の十七歳の女の子だったんだ。
そう思うと、みのりは真帆が急に愛おしくなった。
「私、今の真帆が好きだよ。すっごく可愛いと思う。応援するよ」
「な、何言ってんのよ……あーあ、これじゃあんたの恋愛相談に乗ってたときとまるで逆じゃない。恥ずかしい」
「いいんだよ。私だって、真帆の相談に乗りたいもん。真帆と翼くんは、すっごくお似合いだよ!」
「──ありがとう、みのり」
初めて見る、真帆の照れた笑顔を、みのりはとても大切に思った。
愛や里奈と別れ、みのりは
吹く風が冷たい。さっさと帰って、勉強でもしよう……
そう思っていると、向こうから歩いてきた人とぶつかりそうになった。
「ごめん! 大丈夫!?」
「いえ、こちらこそ……」
声の主を見たみのりは、目を疑った。
まさかこの流れで、彼──七瀬翔太に出くわすなんて。
──そういや、翔太のやつ伊藤さんと別れたらしいぜ。
──早! あんなにラブラブだったのに。でも、それだったらオレにもチャンスあるかな?
──まぁ、そう言ってるやついっぱいいるけどさ。でも彼女、ああ見えて結構気が強いんだって。翔太ともガチで修羅場になったらしいし……
みのりは二学期に入ってから、彼が伊藤ほのかと一緒にいるところを見かけなくなっていた。
少し前に耳にした、別のクラスの男子グループの噂話がよみがえる。
それが真実かはともかく、彼は今この瞬間もひとりでいるようだ。いつも人に囲まれていたのに……とみのりは思った。
「ほんとにごめんね」
「ううん……」
翔太は、なぜかみのりの顔をじっと見つめていた。
「どうかした?」
「早川さん、最近明るくなったよね。今の方がいいよ」
「えっ!?」
予想もしていなかった言葉をかけられ驚きを隠せないみのりに笑いかけ、じゃあまた明日! と爽やかに去っていく翔太。
みのりはかつての想い人の後ろ姿をただ見送っていた。ほんの数ヶ月前のことなのに、なんだか懐かしく感じる。
──あの頃の私だったら、どう思うかな。うれしいかな。
──好きだったな。七瀬くんのことが。
みのりは恋をしていた頃の自分をいたわるように、そっと胸に手を当てた。