第3話

文字数 12,994文字




(やだもう、どうしよう!)
 週末。晴海は焦っていた。
 駅でエスカレーターに乗ろうとしたら整備点検中で、エレベーターにしようとしたらおじいちゃんとベビーカーと盲導犬に阻まれてしまって乗れなくて、仕方なく階段を使った。汗いっぱいかいてお化粧が崩れるのはいやだったんだけれど最終手段。一生懸命登ったのに、目の前で乗るはずだった電車に行かれてしまい、最初から階段を使えばよかった。と後悔が空回りするほど焦っていた。
 タオルチーフを額にあてると大量の汗とファンデーションがついてきた。
(お化粧くずれてる、こんなんじゃお母さんの前にでれないわ)
 母親が指定したファミレス。晴海はこともあろうか遅刻決定だった。
 理由は洋服選びにもあった。
 スカートの色は前の晩に決めたはずだったのに、朝になって気分が変わってしまったのだ。
(昨日は元気な印象の黄色って気分だったのに、朝になったら可愛らしいピンクがいいんじゃないかって思うなんて)
 なんで土壇場になってピンクが気になりだしたんだろう。
 その答えはメールの着信音が教えてくれた。あわてて家を出たのでマナーモードにするのを忘れてしまったんだ。
「ごめんなさい」
 乗ったばかりの電車で周囲の目が痛い。
 メールを確認すると、いっぱいの絵文字とピンクハートマークのデコメールで「はるたんファイト!」と書かれていた。
(ピンク。みるちゃんの色だわ)
 ピンク色の文字が「はるたんがうれしいとみるくもうれしくなるんだよ」といまにも踊り出しそうに言っている。
 ピンクを身につけると、みるくに力をもらったような気持ちになれる。それで自然とピンクが目をひいたんだ。
 晴海は速攻でキャンディーやチョコの絵が入った。ありがとうのデコメレスをした。
(きっと、すべてがいい方向にむかうわ)

 お店の前で晴海は両手を合わせてお祈りのポーズ。
(10年振りのお母さん)
 10歳のときの再会は、やよいのせいでまったくいい思い出がなかった。それだけに期待でほんとうに胸がふくらんできそう。
(やっとふたりきりで会ってくれる)
 しかも、晴海の誕生日のタイミングで会いたいと言ってくれた。それだけで涙がこぼれそうだった。
(いけない、これからでしょ)
 晴海は心の中で舌を出す。あたしは物心ついたときから女の子だったんだよってことを話さなくてはならないのだ。
 ファミレスに飛び込むと店員さんが晴海を見て「眼球が飛び出た」というほどのリアクションで驚いてみせたが、なんとか「いらっしゃいませ」という高音を絞り出す。
「お一人様ですか」と聞いてくるので首を振って「待ち合わせているから捜します」と店内に入っていく。大丈夫。何年経ってもお母さんを見間違えるわけがない。
 お母さんはタバコを吸う人だった。だから喫煙コーナーだと思う。キョロキョロ。見回すとそれらしき背中が見えた。髪に白いものが混じってきているけれど、太くて固いクセッ毛は晴海とおんなじだ。
(お母さん)
 晴海の足は速まった。
 膝丈のスカートを揺らし息を切らしまわりこんで、正面に座ったときには涙がにじんでしまい「お母さん」とうまく言えたか覚えていないほどだ。
「会えて嬉しい」
 あたし女の子だったの、と先に言わなきゃと思っていたのに、いざお母さんを真っ正面にしたら頭が真っ白になってしまい、お母さんへの愛を涙と一緒に放出することしかできなくなっていた。

 15年前に父と晴海を捨てて、背が高くてお金も髪の毛もあるスーパーの店長と一緒になった。
 晴海が女の子であることを隠していたから? それで出て行ったの? だったらがまんして男の子でいるから帰ってきて。子供の頃はそう思っていた。
 お母さんが出て行って5年後、会ってくれるというお母さんに晴海は命を削る思いで男言葉を使い続けた。
 なのに、ことごとく邪魔をしたのがやよい。5年前に生まれた異父妹。最初から最後までお母さんにしがみついて「ママ。ママ」と甘え声をだして晴海を威嚇した。レストランでお母さんがトイレにたったとき、5歳児のやよいは突然感情のない、しらけた顔をして晴海に言い放った。
「ママはやよいのだから。今回は可哀相だから会ってあげてって言ったけど。もうありえないから」
 晴海には幼い妹の言うことが家に帰るまで理解できなかった。
 お母さんがトイレから戻ると「この人やよいが話しても無視するの、やよいのこときらいなんだわ」とお母さんの腕に絡みついて泣くふりをした。お母さんもやよいの言うことしか信じなくて「お兄ちゃんなんだから、やさしくしてあげて」とたしなめられた。
 5歳児がそんなことを言うためについてきたの。
 その後、ハンバーグとチョコレートパフェを頬張るやよいはずっとお母さんに幼稚園での出来事を話しまくり、晴海に言葉を挟むヒマを与えなかった。やっと会えたお母さん。話したいことはいっぱいあった。お母さんも気にはしてくれて、ときたまなにか聞いてくれるのだけれどその質問をすべて「やよいの場合はね」と自分に置き換えて横取りしてしまう。お母さんはその図々しさを叱ろうとはしなかった。
 女の子に対する嫌悪が芽生えた瞬間だった。

 でも今はそんなことどうでもいい。お母さんは晴海だけのお母さんなんだ。
「お母さん、あたし晴海よ。会いたかった」
 ふたりきりで話す日。どんなに待ちこがれたことか。顔を見るのは10年振りだけど、話をするのは15年振りも同然。
「お母さん」
 晴海は歓喜のあまり声がでなくなっていた。
 しわも増えた。すこしやつれたみたい。でもお母さんはちっとも変わっていない。いまもきれいなままのお母さん。晴海の大好きないちごゼリーの香りがする。

 一方……
 外田という姓になったハツ江は考えごとをすることにも疲れていた。
 息子とは15年ぶりになるのだろうか。あのときあの子はいくつだったかしら。終始もじもじしていて。はっきりしないところなんてあの人にそっくり。髪質だけは自分に似ていたから禿げないかもしれないわと思ったくらい。ちいさなやよいに押されっぱなしで、女の子みたいにめそめそしてたわね。そういうところも父親に似たのよね。あのままじゃ女の子にもてやしない。
 でも、産んでおいてよかった。
「お母さん」
 甲高くてうわずった声が耳に入った。
 うつろな目を声のほうにむけた。そして少し首をかしげた。
「あたし晴海よ。会いたかった」
 瞳に映る女装は誰だろう。なんであたしは晴海ですなどと虚言を吐くのだろう。
「どちらさまです」
 返答に力が入らない。厚化粧の小太りな女装がまるで自分のことを知り合いのような笑顔で声をかけている。
「お母さん、どうしたの顔色悪いよ。どこか具合悪いの?」
 自分の体調不良を気遣ってくれる。目の前の人物はただの女装じゃないのだろうか。
「あなたは」
 誰?
 たとえば。たとえばの話。この奇妙な人物の髪をてっぺんから薄くして。少し空気を抜いて小さくしたら……。まるで昔の夫。あの人との間に女の子が生まれていたらきっとこんな感じになって……。
「ひいいっ!」


「ひいいっ!」
 お母さんは突然席を立った。顔がみるみる白くなっていく。
「お母さん、どうしたの」
 びっくりした晴海が母の腕をつかもうとした。しかし母はその手をはたき落とした。
「近寄らないで!」
「お母さん」
「しらない、あなたなんか知らない」
「あたしよ、晴海よ」
「触らないで!」
 首を激しく横に振り、狂女のようにお母さんは晴海を置いて店から飛び出してしまった。まるでホラー映画の一場面。
 様子を眺めていた他の客と店員は皆笑いをこらえているか、耐えきれずに爆笑している輩もいた。
「なんで……」
 呆然とする晴海のもとには、お母さんが飲んだコーヒーのレシートだけが残されていた。


 どうやって家に帰ったのか覚えていない。
 自室に直行してピンクのシーツと毛布をひいたベッドに倒れ込んでマスカラが流れ落ちるほどに泣きはらした。
 涙の海のなかで眠ってしまったみたいだった。
「やっぱりそうなったか」
 父が部屋に入ってくる。いつもなら「乙女の部屋に入るときはノックはして」と怒るのだけれどそんな気力もなかった。
 父は化粧が崩れ落ち、出目金のようなった我が子の顔を見て悲鳴をあげて逃げたくなったが、今日の予定を知っていただけに。
「母さんになに言われた」
 とストレートに尋ねた。
「そんな格好で行ったら驚くに決まってるだろ。だからちゃんとした姿で行けと言ったんだ」
 いまの晴海を知らないお母さんに会うのだ。一生のうちもう何度も会うなんてことはないだろう。だったらそのときだけでもちゃんとした格好で会ったほうがいい。母さんを悲しませたくないだろ。と父は言った。
「ちゃんとした格好で行ったわ!」
 晴海は涙で潰れた声をしぼりだした。これから先何度も会えないお母さん。だからこそ今の晴海を。ありのままを見て欲しかった。
「なにか話せたのか」
 父は傷口に塩を塗る。
「……」
 いっぱい話したいことあったのに。晴海の想いはズタズタに引き裂かれた。
「いまなら間に合うぞ」
 父は期待させるようなことを言った。晴海は涙と鼻水をきれいに四つ折りにしたテッシュでふきとって父を見る。
「今なら驚ろかそうとした。イタズラだと誤魔化せばまた会ってくれる」
 父は真顔だった。
「私もそう言ってくれるのを期待している。いい加減目を覚ましてくれ、でないと私は」
 父はプツッと言葉を打ち切った。でないと私は、なんだというのか。
「お父さん、あたし嘘は大嫌いなの。小さい頃から嘘だけはつくなって教えてくれたのお父さんでしょ」
 父は目をそらした。
「お父さん、あたしが女の子じゃいけない理由があるの?」
「あるに決まってるだろ」
 誕生日にシェーバーをくれたくらいあるみたいだ。父は歯茎から血が出そうな形相。
「世間体なのね。あたしより世間体が大切なのね」
 父の額に青筋が浮かんだ。握り拳からも血がでそうだ。いつかその拳をひろげたいと晴海は心の底から思っている。
「あたし、もう一度お母さんと会う。それでわかってもらう」
 連絡先をおしえてと頼んだら、父は不思議なほどあっさり教えてくれた。
「わかってくれないと思うがな」
 と付け加えて。

 翌日。
「あたし、もう一度がんばってみることにしたの」
 目の腫れがひかなくて外にでたくなかったけれど、どうしてもこの話をみるくと早紀に聞いてもらいたかった。このふたりだけには心配をかけたくなかったから。
「はるたん」
 すべての話を聞いてみるくは白いハンカチで目頭をおさえた。
 みるくは今日もお昼前に大学の前に現れた。真っ白なドレスをまとって晴海を寂しそうに待っていたけれど、晴海を見るとぱあっと笑顔になった。
「お袋さんの反応は、仕方ないんじゃないか」
 早紀が冷静な判断でものを言う。現実に引き戻された。
「びっくりしただけよね。お母さんなにもしらなかったんだもの」
 それくらいの判断はできる。予備知識のないお母さんがいきなり女の子になった晴海をみて自然に受け入れてくれる可能性は低いだろう。
「しかし、ひでえな晴海の親父さん」
 早紀は舌打ちの数が増えた。
 本気で怒っているのが伝わって、みるくが萎縮してしまう。
「世間体とてめえの子供どっちが大切なんだよ」
「それでも、あたしのお父さんはお父さんしかいないから」
 晴海は父に対する気持ちもあきらめたくはなかった。
「言われるたびにショックだけど、でもそのたびに頑張ろうって思えるようになってきたの。それはお母さんに対してもおんなじ」
 それを聞いてみるくの顔が笑顔を作る。
「そんなはるたん、みるく好きだよ」
 つややかなグロスの唇がそっと囁いた。
「ありがとうみるちゃん。すごく勇気もらった」
 ほんわかした空気に挟まれて早紀は唇をとがらせるものの、
「おれだって応援してるつもりだぜ。ただ現実はドラマのようにはいかない。おれだって母さん説得してここまでこぎつけるのに10年以上かかってんだから」
 学食でのランチは3人の人生勉強の時間だ。言いたいことを言い合って、ぶつかり合い、自分を確認したい。そういう思いが3人の輪のなかに存在している。
「晴海はまだまだだよ」
「そうね、あたし女の子宣言してからまだ2年目だものね」
 早紀の言うことは説得力があるから晴海は素直な溜息をついた。
 早紀は小学生のときから本当の性を隠さず女の子に愛を告白しまくり、バカにする男どもを返り討ちにし、中学時代は制服廃止運動をおこし失敗に終わったが名は残し、サッカーチームに入って男性以上の動きを見せるなどして自分が男であることのアピールを積み重ねてきた。もちろん母親との葛藤もあった。
 三池早紀男道。人生はまだ半分もいっていないがすでに文庫本なら5~6冊は書けるほどの伝説がある。
「晴海さ、そんな反応されてもう一度母親に会おうっていうのは簡単じゃないと思うぜ」
「わかってる。でもやらなきゃ前に進めない」
 晴海は頷いた。テーブルに乗った手に、みるくがそっと手を重ねてくれる。
「だいじょうぶだよ、はるたん」
 早紀は重なる晴海とみるくの手を目を細めて見つめる。
「おれだってこれでも応援してるんだぜ。それとおなじくらい心配もしてるってこと」
 早紀は不服そう。
「わかってる」
 晴海がうなずいたとき携帯が鳴った。着信音は昨夜登録したばかりのアベマリアのオルゴールバージョン。
「え、うそ、なんで」
 表示された番号はこちらからかけようと思っていたお母さん。晴海の電話番号は父が教えたのだろうか。
「はるたん、早くでなよ」
 みるくがせかし、早紀もうなずく。晴海はあわてて着電に応じた。
「もしもし」
 緊張のあまりのどが押し潰されそうだ。
『晴海』
 晴海はうなずいた。一生懸命、お母さんに届くように。
 しばらく相手も声をださなかった。洟をすする音が聞こえてくる。
(お母さん、お母さん)
 晴海はなんども心のなかでくりかえした。
『もういちど、会ってほしいの』
 お母さんは押し出すように言い始めた。
「ほんとうに」
 晴海は歓喜の声をあげてしまう。
『平日の昼間だけどいいかしら』
「もちろんよ」
 お母さんのためなら授業なんて1日くらいどうってことない。
『明日、新宿の……』
 新宿にある広い公園を指定してきた。晴海にとっては場所なんかどこでもいい。
「うん、うん」
 心臓が高鳴り頬が赤くなる。電話は場所と時間だけの取り決めで1分もしないで切れた。
「みるく、早紀、お母さんが会ってくれるって」
 携帯を握りしめてさっきまでの気落ちはどこへやらの喜び。希望の光がさしたのだ。
「はるたん、神様はちゃんとわかってるんだよ」
 みるくが手を叩いて喜ぶ。
「よかった、けどさ」
 しかし早紀は不満げに口を挟む。
「なによ、早紀も素直によろこびなよ」
 みるくの反論を片手で制して晴海に聞く。
「晴海のお母さんの声。もれてたから聞こえちまったけどさ。昨日のことひとことも謝らなかったな」
 自分のことのように早紀の目は吊り上がっていた。みるくも「あっ」と口を押さえた。
「それって失礼だし図々しくね?」
 早紀は冷静に常識を示した。はしゃいでくれたみるくが喜びをひっこめてしまったくらいに。
「親ならなおさらじゃねえの、そんなに会いたいならなんで昨日逃げ出したこと謝らねえんだよ」
 きっとそれは正しい。会いたいと言ってきたのも相手側なのだ。でも、晴海はそんなことは遠くへ置いておきたい。大切なのはいまお母さんが会いたいと言っていること。いっぱいお話をすること。
「きっと、お母さんは気が動転していたのよ」
 晴海はおおきな声をだした。
「仕方ないわ。あたしが女の子だってしらなかったんですもの」
「さっきからそればっかだぞ」
「それしか理由がないよ。こんどは大丈夫よ。きっとはるたんお母さんといっぱいお話できるよ」
 みるくが覆い被さるように突っ込んだ。
「そりゃ、おれだってそうなれば嬉しいけどさ」
「ありがとうふたりとも。あたし頑張るから」
 晴海はストローをつまんでオレンジジュースをすすったが、ほとんど残っておらず氷水の味しかしなかった。



 新宿の高層ビルに囲まれた公園。そのなかにある神社の鳥居前で今回は遅刻せずにお母さんの到着を待っていた。人出は少なく都会なのにとても静かだ。
 この前のことは忘れて、の仕切り直し。人間を恐れない鳩が微笑ましく思えるほど晴海はお母さんに話したいことがいっぱいあって。ただ立って待っているのがじれったくなってきて、お参りをしようと思いたった。
 500円玉を賽銭箱に入れて手を叩き「お願いします」と頭をさげた。待ち合わせが教会の前だったら祭壇の前で両手を合わせてひざまずいていただろう。いまの晴海には祈れるものは神でも仏でもなんでもよかった。
 8度目くらいの礼をしようとしたとき、人の気配を感じた。
 心臓がドラのように振動して膀胱にまで達しトイレに行きたくなってしまう。こんなところでもらしたらお嫁に行けなくなってしまうから、きつく内股になる。
 晴海は振り返る。愛しい人の姿を焼き付けるために。
「おかあ……」
 だけど、お母さんは一人ではなかった。
「なんで」
 鼓動が消え去り、脳貧血を起こしそうになった。
 お母さんは背後に控える人物に支えられて立っていた。
「どうして」
 疑問しか口からでてこない。お母さんはこの前より青白い顔で、立っているのがやっとという様子。この前より晴海を見る目がおびえていた。
「お母さん」
 ふたりきりで、公園を散歩しながらいろんな話をする。お花を見ながら笑い合い、ジュースを買ってベンチに座って飲む。そんな晴海の計画を打ち破ったのは、お母さんを背後で支える背の高い男。
「外田です。はじめまして」
 頭をさげる再婚相手。晴海は「あんたがなんの用なのよ」と言ってやろうと、思い切り息を肺に吸い込んだ。そのとき、お母さんが外田の腕をふりほどいて両膝と両手を地につけた。
「お母さん?」
「ハツ江!」
 晴海の疑問符と外田の感嘆符が交差した。土下座するお母さんは夕立の降り始めのような涙をボトボト落とす。
「お母さん、なに、どうしたの」
 晴海は外田より先にお母さんの両肩を支えた。泣きじゃくり首を振るお母さんがなにかを言っている。
「え、なに、なんなのお母さん」
「……を……たすけ……」
「お母さん?」
「……たすけて」
 お母さんは晴海の手を握りしめてきた。晴海はなにをどうしたらいいのかわからない。
「お母さん、なに、よく聞こえないわ」
「あなたしか、いないの」
 お母さんにこんな力があったなんて、と思うほど握りしめられている。お母さんの手が震えている。
「なんのことなのお母さん」
「やよいを、たすけて」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃなお母さん。
「やよいをたすけて」
「え?」
 ぼうっとしていたせいか、お母さんがなにを言っているのかわからない。
「ハツ江、それじゃわかってもらえないだろう」
 取り乱す妻を背後から外田が羽交い締めにして立ち上がらせた。せっかく触れ合っていた手なのに、マジックテープのようにはがされていく。
「お母さん」
 なにするのよ、と外田に怒鳴りつけてやりたかった。地面に四つんばいになっているのは晴海だけになって、自分で立ち上がらなくてはならない。
(お母さんと同じ目線だったのに)
 そこには晴海とお母さんしかいなかったのに。
 仕方なく立ち上がり、スカートについた砂を払う。それを確認してお母さんの肩を我がもののように抱きしめる外田が静かに言った。
「晴海君」
 尾てい骨に響く渋い声。お母さんを奪い取った男でなければ好きになってしまうタイプ。
「娘……いや君の妹のやよいが病気なんだ。助けるには骨髄移植しかない」
 外田の言葉にお母さんが激しく嗚咽した。
「ぼくらの型は合わなかった。親近者で可能性がある人はもう君しかいないんだ」
 外田はお母さんを立たせたままいきなり地べたにはいつくばった。これを人は土下座という。
「頼みます、どうかやよいを助けてください」
 それに習ってお母さんもふたたび土下座した。
「おねがい、やよいは、高校生になったばかりなのよ」
 投げ入れた500円玉はどこへ行くんだろう。神様が拾って願いを叶えてくれるのかな。
 晴海の記憶の引き出しから生意気な5歳児が飛び出してきた。
『ママはやよいのママなの。よその子は会いに来ないで』
 アッカンベーをした目の裏の毛細血管まで覚えている。
(あの子のせいで、あたしお母さんとおしゃべりできなかった。あの子ができたからお母さんはあたしとお父さんを捨てた)
 晴海は娘のために地面に額をつける夫婦を漠然と見つめる。
「お母さん、そんなことしないで」
 棒読みだった。お参りに来た人たちの視線があちこちから突き刺さる。
「みんな見てるわ」
 それにこたえたのは外田のほうで、またお母さんの腕をとって立ち上がらせた。
「すまない、みっともないマネをした」
 夫婦は立ったまま頭をさげる。
「やよいはいま無菌室に入っている。一刻もはやい移植が必要なんだ。ところで君、なんか薬を飲んでいたり持病はないだろうね」
 外田は晴海の全身をなめ回すように見る。もう事柄が決定しているかのような喋り方をする。
「それはただの趣味だよね、ちゃんとすれば普通なんだよね」
 晴海には外田がなにを言っているのかまったくわからないから、お母さんだけを見つめることに集中することにした。晴海の大好きなお母さんはハンドバッグから取り出したハンカチで目を押さえていて、なかなか晴海のことを見てくれない。
(お母さん、ねえお母さんってば)
 心のなかで一生懸命語りかけた。あたしはここよ、ここにいるのよ。
「それとも、私に対する嫌がらせなのかい。それなら謝ろう。君の大切なお母さんを奪い取ってしまったのだから」
 お母さんはハンカチをバッグにしまった。
(お母さんあたしを見て)
 しかし今度はポケットテッシュを取り出し洟をかみはじめてしまう。
「しかし、それも15年前のことだ。今君は二十歳、大学生だったよね。立派な大人だ。私の言うことわかるよね。君と私は血のつながりはない。しかし、やよいは違うだろ。一度しか会ったことはないと聞いているが、それでも妹のことは覚えているだろ」
 アッカンベーだ!
「ハツ江もなにか言いなさい」
(お母さん、あたしお母さんの声が聞きたい)
 お母さんは洟をかんだテッシュをバッグにしまい、やっと晴海をみてくれた。自然に頬が緩んでしまう。
「あなたを捨てた、私へのあてつけなの?」
 異様な空気を醸し出す3人に聞き耳をたてている人たちが一斉に視線をそらして、興味だけの目線を投げつけ、腹を押さえたり肩を上下させたりして笑っている。
「え?」
 晴海はわからない。お母さんの言うことも周囲の人たちが笑うのも。世界は鳥居を中心にぐるぐる回っていて、地面はぐにゃぐにゃ歪んでいる。
(みるちゃん、早紀、あたしいまどこにいるの)
 思い浮かぶのは友だちの顔。
「そんなに恨まれてたのね。気付かなくてごめんなさい。だから、いくらでも謝るから、お願い、やよいをたすけて」
 晴海は顔面の温度が急速に冷えていくのを感じていた。
「やよいって誰?」
 晴海は操り人形のように外田夫妻に背をむけた。
 この時点で頭のなかはからっぽになっていて、どうやって家路についたのか覚えていない。


 お母さんとの待ち合わせが午後だったから、最寄り駅に着いたときには日はとっぷり暮れていた。
 どこかでお茶でもしたのだったっけ。そういえば「アイスキャラメルオーレのLください」と言ったような気もする。緑色のストローを噛みながら甘くてほろ苦い液体を吸い込んだ、ような気がする。どこのお店だったかは覚えていない。
(あたしお母さんとなんのお話をしたんだっけ)
 飼い犬ポチの、人に甘える声が聞こえてきて、家が目前であることに気付いた。
(ポチのお散歩に行かなきゃ)
 きゅーんきゅーんと鼻を鳴らすのは催促のときの声だ。
(ポチったらはしたないわね、家からかなり離れているのに甘え声が聞こえちゃうなんて)
 この距離から晴海の気配に気付くなんて。子犬の頃ならよくあったが、老犬にしてはあまりによすぎる反応ではないか。
(お父さんが帰っているのかしら)
 いや、今日は飲み会があると言っていた。
 門扉が開けっ放しになって風に揺られてきしんだ音をだしている。
(おかしいわ。あたしもお父さんも几帳面なのに)
 門扉を閉めずに家を出るなんてことは決してない。
 そして裏庭にいるポチの甘え声はエスカレートしていく。
 晴海の足が止まった。ポチのフニャフニャ声だけがすっかり暗くなった空に吸い込まれて。
(だれか、いる)
 額の汗がマスカラにしがみついてるけれど、ぬぐうにはバッグからタオルチーフを出さなくてはならない。
(だれ)
 敷地内に入り込んで、ポチの相手をするような知り合いなんていただろうか。父の両親はとうに亡くなっているし親戚もいない、身寄りは晴海しかいない。
(まさかお母さんが先回りしてあたしに会いに……ううん、それはありえないわ……)
 そうとなると、晴海の頭脳で導き出される結論は。
(どろぼう)
 もしどろぼうと鉢合わせしたらどうなってしまうかわからない。金目のものが目的なのか、それとも暴行だったら。
 のど仏が鳴るほど息をのんでしまう。
 相手が凶器をもっていたら。
(なんでこんな日にどろぼうが入るのよ)
 こういう事態を泣きっ面に蜂っていうんだ。弱っているところにつけ込まれて、さらに身も心も挫こうとする見えない闇の力。闇はいろんな手を使って晴海が女の子であることを阻もうとする。晴海の存在を否定しようとする。
(負けちゃだめ!)
 激しく首を振り、信じなきゃ、となんども心のなかでつぶやいた。
 近所の奥様も同級生も下級生も先輩も先生もお父さんもいつか晴海の性をわかってくれると信じて突き進む。信じればきっと願いは叶う。
 お母さんも信じてた……。なのにお母さんがあんなことを言うなんて思ってもいなかった。
 再び首を振った。
(それこそ、のまれてはいけない闇じゃないの!)
 ポチのよがり声をBGMに、ポジティブを全面に押し出すために、大きく吸い込んで必殺技を繰り出す闘士のように熱い息を吐き出す。カッと見開かれる目に弱虫で泣きべそかきの晴海の姿はなかった。
(あたしの家はあたしが守らなきゃ)
 勝手に人様の家に入り込んで盗みをはたらくどろぼうは許せない。しかも晴海は胸のモヤモヤをミサイルのように全身から放出したがっている。ポジティブ晴海に敵などいないのだ。
(ギッタンギッタンにしてやるわ)
 そっと門扉をくぐって裏庭にまわる。ハンドバッグを置いて代わりに目についたほうきを持つ。武器としては心許ないけれどないよりはましだ。
 そっと裏庭をのぞき見た。
 ポチおばあちゃんの甘え声はクライマックスに達していた。
(どんな撫でられかたをしたらそんな声がでるのよ)
 番犬なのに情けない以前に、ポチが『女』になっていると思うだけでほうきを握る手に力がはいってしまう。
(どろぼう、覚悟!)
 躍り出る晴海の目に入った光景。
(えっ?)
 ひっくりかえってお腹をみせるポチを撫でまわしている後ろ姿。すらっとした若い男の背中。
「そんなにうれしいか」
 声からしても男というより少年のようだ。着ているものもデニムに黒いシャツ。
 どこかで、会った、気がする。
(胸きゅん)
 後ろ姿だけなのに、手からほうきを落としていた。甘え声をだすポチは彼の首に手をまわしているかのよう。
(あたし、彼を知っている?)
 不確定な疑問。デジャヴっていうものを初めて経験している。
 背も高そう。こっちをむいて欲しい。
 体の中心部から熱いものがこみあげる予感がムンムン伝わる。
『もっと撫でて』
 よがり声をだすポチがしゃくにさわる。
 晴海の気配を感じた少年がゆっくり立ち上がった。高校時代好きだったバスケ部の高橋君を思い出す。笑うと歯が光る人だった。ドリブルしながら走る高橋君からほとばしる汗はラメがはいっていて柑橘系のコロンの香りがした。
 晴海は思い出に身をよじった。高校卒業のとき告白しようとかけよろうとしたら、近くの女子校生が駆け寄ってきて高橋君を奪い取っていった。桜散る恋だった。高橋君はいまごろどうしてるのか。
 しかしすぐさま頭を振って高橋君を追い出した。
(ううん、ちがう、ここにいる彼はそんな現実的な人じゃない)
 見上げた夜空に浮かぶのはまあるいお月様。
 月明かり。黒髪の長身。
 神社の鈴を力任せに振ったことを思い出してしまう。
(鈴で追い払うのは煩悩……の筈よ)
 なのに、思い出してしまういけない夢の世界。
 甘く、切なく、痛い。
 胸のドアを叩くのは誰。
「君はだれ」
「え?」
 ぼうっとしていたら逆に問われてしまった。
 月明かりに照らされた少年は切れ長の目で晴海を見下ろしている。ピアスと胸元の細いシルバーネックレスがキラキラしていた。
(王子、様)
 月明かりの王子様。あやうく口にだしそうになって赤面してしまうが暗いからわからないだろう。
 晴海は気をひきしめて、
「あたしは、この家の者よ」
 疑いと警戒を強めなくてはならないのに、違う種類の熱がこもってしまっている。胸の鼓動が外にもれるくらい高鳴って、我が家を守らなきゃという義務と甘い夢の続きが心のなかでせめぎあっている。
「あなた、どろぼうね、なにが目的なの」
 息遣いの種類が判別できなくて、それが気になってまったく力がはいらない。
「あんたの言ってること。意味わからないんですが」
(うすいクチビル。もっと喋って。はっ、ダメよ、ダメダメ、この子はどろぼうなのよ。月明かりの王子様なんかじゃない……)
 晴海は首を振って頭のなかに巣くう闇を追い出した。
「警察を呼ぶわよ」
「あんたほんとうにこの家の人?」
 なにを聞くの失礼な。と本来なら思うのだけれど、涼しい瞳にめっぽう弱い晴海。
「はやくお逃げなさい」
 晴海は両手で握りしめたほうきで門扉を指さした。
「逃げる?」
 少年は顔にクエスチョンマークを描いているようだ。
「見逃してあげるから、いまでていけば警察呼ばないから」
「呼ぶんじゃなかったの」
「いいからっ!」
 相手が冷静になればなるほど晴海は人としての常識を見失っていく。彼がジリッと近づこうとすると砂浜に押し倒されてしまうんじゃないかという妄想で股間が熱くなる。
(いや、こんなの恥ずかしい)
「いいから、早く逃げなさい。あたしはなにも見なかったから。そういうことにしてあげるから」
 ポチだけが両者を見て嬉しそうにシッポをふりまくる。
「わかりました。僕もけっこう混乱してるし」
 少年はポチの首筋をひとなでして「じゃ」と言った。すれ違うとき、彼とすこしだけ肩がふれた。晴海は気絶しそうなくらいのめまいに襲われる。
 彼は月夜に吸い込まれていくように消え去った。
 ポチは笑顔で彼を見送った。「また来てね」とでも言っているかのように。
 魔法のように消え去っていった王子様のスニーカー跡が庭に残っている。
 晴海はそっと頬に手をあてた。おたふく風邪級の熱をもっていた。
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