第1話
文字数 2,000文字
僕たちは一緒に過ごしていても、あまり言葉を交わすことがない。それを訝しむ他人 もいるけれど、僕たちには特段困ることはない。心地良いから、そうしているだけ。
目が覚めて、1DKの1とDを繋ぐ引き戸を開けた。土曜の朝、というかほぼ昼。黄色が濃くなった陽 が、斜めに部屋を暖めている。広くもないその空間に、ちょっと強引に捻じ込んだダイニングテーブル。寛いで座していてもどこかすっと芯が通った華奢な背中、輪郭を象 るように柔らかく自然に肩の少し上で切り揃えられた髪。
起き上がった僕がテーブルに近づくと、彼女は読みかけの文庫本から顔を上げ、小さな笑みを寄越した。鍵刺激のように僕の心も綻んで、それから僕はもうとっくに空 になっている彼女のマグカップを手に台所へ向かった。湯を沸かし、インスタントコーヒーの粉を控えめに、八分目まで熱湯、冷めない程度に紙パックの牛乳。ついでに自分の分のコーヒーも。
お代わりカフェオレをテーブルに置くと、彼女はありがとうの代わりに僕のトレーナーの裾をちょんと摘 む。そのまま脇腹あたりにこつんと頭を寄せて、僕はその繊細で茶色に透ける柔らかな髪をくしゃくしゃと撫で回す。どういたしまして。寝癖なんかより、美容院でパーマの直後に初めて乾かす前くらいぐしゃぐしゃになった頭で、彼女は文庫本に目を戻す。それを少し堪能したあと、僕は彼女の髪を丁寧に元通りにする。土曜の朝(というか昼)、僕たちのいつもの風景。
でも実は、今日はいつもと少しだけ違う。彼女の斜め隣、定位置に座ることもしないで、僕は立ったまま自分のコーヒーを一口啜った。
昨日、彼女はここに来ないと思っていた。出張で、帰りは最終の新幹線になりそうだなんて言っていたから。だから僕はすることもなくさっさと寝てしまった訳だけど。途中で布団に何か温かな生き物が潜り込んだ感じがした。あれは夢じゃなかった。
ぷつ、す、と、部屋には彼女が文庫本の頁を捲る音だけがする。そのテンポは心なしかいつもより速い。かと思えば急に意識が戻ってきたように、ぱらぱらと何頁か前に捲り直している。無自覚なのだろうが、口元には僅かに力が入り、細い睫毛は時折所在なさげに揺れる。普段より〇・二度ほど、周りの空気の温度が高い気がする。
愛おしい、と思う。静かで多くは語らない彼女のことを、彼女曰 く、男たちはつまらないと言うらしい。何を考えているか分からないと。馬鹿だなあ、と僕は思う。けれど、そのまま永遠に気づかないでくれとも思う。独り占めさせてくれてありがとう、と言うべきかもしれない。言葉なんかなくたって、彼女はこんなにも饒舌だ。
ダイニングテーブルには、いつもと違うものが一つだけ載っている。マグカップとか、読みかけの文庫本とか、ちょっとしたお菓子とか、普段は彼女と過ごすためのもの以外何も置いていないのだから嫌でも目に入る。昨晩、今夜は会えないのだと思っていたら、うっかり置きっぱなしにしてしまった。
小じんまりと、けれども少し厚くて存在感のある紙袋。正直僕はそういうものに疎いのだけど、見る人が見れば中身はすぐに見当が付いてしまう、とあるアクセサリー店のロゴ。自分で買っておいてなんだけど、きりっと正装したようなその佇まいは、ささやかな空間にダイニングテーブルを捻じ込んでいる僕の部屋にはまあまあ不釣り合いだ。
それでも、その存在が彼女の身体に日常とは異なる言葉を発させているのだとしたら。厚かましくも僕の胸は高鳴ってしまう。笑ってくれていい。男とは馬鹿な生き物だ。伝えたときの、彼女の言葉を早く聴きたい。待ち遠しいような、それでいてやはり怖さもあるような、とことこと、この鼓動をずっと感じていたい気もする。
心を決め、僕は右手のコーヒーをテーブルの上に置いた。立ったまま、座って読書を続けるふうを装っている彼女を見る。果穂 、改めて名前を呼ぶ。彼女は少し身構えた様子で、でもそれを悟られまいという風情でこちらを見上げた。小さく息を吸う。
言葉少なな僕たちだって。たまには、はっきり声に出さなきゃならないときだってある。
「 」
彼女の頬が仄かに色づき、瞳の丸が少し大きくなった。照れ隠しのように、僕のトレーナーの裾を強く引っ張って引き寄せて、腹にごつんと頭をぶつける。僕はそれをわしゃわしゃと撫でくり回す。
ふっと肩の力が抜けると共に、安堵がどっと押し寄せてくる。とことこと鳴る胸の響きは治まらない。恐怖も混ざった先の鼓動を心地良いみたいに語っておきながら、やっぱり緊張していたんだなあと改めて気づく。でも、止まらない胸の震えはただただ快い。彼女は一向に僕の腹から顔を上げない。頭はぐしゃぐしゃになる一方。窓から差し込む光が、斜めに僕の背中とダイニングを暖める。
え? 「」内の僕の言葉? なんて言ったかって?
……ふふ。おしえてあげない。
目が覚めて、1DKの1とDを繋ぐ引き戸を開けた。土曜の朝、というかほぼ昼。黄色が濃くなった
起き上がった僕がテーブルに近づくと、彼女は読みかけの文庫本から顔を上げ、小さな笑みを寄越した。鍵刺激のように僕の心も綻んで、それから僕はもうとっくに
お代わりカフェオレをテーブルに置くと、彼女はありがとうの代わりに僕のトレーナーの裾をちょんと
でも実は、今日はいつもと少しだけ違う。彼女の斜め隣、定位置に座ることもしないで、僕は立ったまま自分のコーヒーを一口啜った。
昨日、彼女はここに来ないと思っていた。出張で、帰りは最終の新幹線になりそうだなんて言っていたから。だから僕はすることもなくさっさと寝てしまった訳だけど。途中で布団に何か温かな生き物が潜り込んだ感じがした。あれは夢じゃなかった。
ぷつ、す、と、部屋には彼女が文庫本の頁を捲る音だけがする。そのテンポは心なしかいつもより速い。かと思えば急に意識が戻ってきたように、ぱらぱらと何頁か前に捲り直している。無自覚なのだろうが、口元には僅かに力が入り、細い睫毛は時折所在なさげに揺れる。普段より〇・二度ほど、周りの空気の温度が高い気がする。
愛おしい、と思う。静かで多くは語らない彼女のことを、彼女
ダイニングテーブルには、いつもと違うものが一つだけ載っている。マグカップとか、読みかけの文庫本とか、ちょっとしたお菓子とか、普段は彼女と過ごすためのもの以外何も置いていないのだから嫌でも目に入る。昨晩、今夜は会えないのだと思っていたら、うっかり置きっぱなしにしてしまった。
小じんまりと、けれども少し厚くて存在感のある紙袋。正直僕はそういうものに疎いのだけど、見る人が見れば中身はすぐに見当が付いてしまう、とあるアクセサリー店のロゴ。自分で買っておいてなんだけど、きりっと正装したようなその佇まいは、ささやかな空間にダイニングテーブルを捻じ込んでいる僕の部屋にはまあまあ不釣り合いだ。
それでも、その存在が彼女の身体に日常とは異なる言葉を発させているのだとしたら。厚かましくも僕の胸は高鳴ってしまう。笑ってくれていい。男とは馬鹿な生き物だ。伝えたときの、彼女の言葉を早く聴きたい。待ち遠しいような、それでいてやはり怖さもあるような、とことこと、この鼓動をずっと感じていたい気もする。
心を決め、僕は右手のコーヒーをテーブルの上に置いた。立ったまま、座って読書を続けるふうを装っている彼女を見る。
言葉少なな僕たちだって。たまには、はっきり声に出さなきゃならないときだってある。
「 」
彼女の頬が仄かに色づき、瞳の丸が少し大きくなった。照れ隠しのように、僕のトレーナーの裾を強く引っ張って引き寄せて、腹にごつんと頭をぶつける。僕はそれをわしゃわしゃと撫でくり回す。
ふっと肩の力が抜けると共に、安堵がどっと押し寄せてくる。とことこと鳴る胸の響きは治まらない。恐怖も混ざった先の鼓動を心地良いみたいに語っておきながら、やっぱり緊張していたんだなあと改めて気づく。でも、止まらない胸の震えはただただ快い。彼女は一向に僕の腹から顔を上げない。頭はぐしゃぐしゃになる一方。窓から差し込む光が、斜めに僕の背中とダイニングを暖める。
え? 「」内の僕の言葉? なんて言ったかって?
……ふふ。おしえてあげない。