第7話 スッキリした

文字数 2,630文字

 パニックになっていた頭の中は、なんだか胸のつかえがとれたようにスッキリしていた。

 そもそも、なんで悩んだのか、今となっては、不思議だわ!

 確かに近藤先生は、男性達から私が憧れられているという意味のことを言い、どさくさに紛れて自分も好きだと告白した。でも、すぐその後にファンみたいなものだと発言内容を軽く修正している。巧妙なのだ。そして、話ができて好運だったとかも言った。今までも打ち合わせで話したことあるじゃないの。それを今更、わざわざ言うなんて。

 私も自分では美人の内に入るとは思っているけど、女優みたいに憧れられるほどの美人だとは思っていない。それくらいの常識は持っている。でも、自分は美人だと信じることが大切なのは、女性ならばわかって貰えると思う。大抵の女性は、美人とまではいかなくても、自分のことをそこそこ美人だと思っている。だから化粧をするのだ。

 毎日お化粧するとき鏡へ向かって少しでも綺麗になろうとしているのが、女性なのだ。場合によっては、鏡に向かってにっこりと微笑んでみたり、少し横を向いてチェックしてみたり、お出かけの服を着て出かける前に姿見へ向かってポーズを決めてみたりする。

 女性にとって、鏡というのは重要アイテムなのだ。どんな形でにっこり笑ったら可愛いか? どうすれば綺麗に見えるか? みんな研究する。そして、記念写真の撮影とかになると、その研究し尽くした取って置きの可愛い笑顔を作って、少し横に向いたりして得意な決めのポーズを作るのだ。写真は永久に残るのだから、綺麗な自分を残しておきたい。私は運転免許証を持っていないけど、免許の更新前に美容室へ行ってきて、お出掛け用のいい服を着て、それから記念写真じゃなくて免許証用の写真を撮りに写真屋さんへ行く女性は多い。

 だから、女性は写真だけでなく、会合とか人前に出かけるときは念入りにお洒落をして香水をシュッシュッとして、お気に入りの靴を着用していくのだ。女性たちばかりが集まる会合――例えば、小学校などの母の会など――に行けば、何とも言えないほどの女の匂いにむせ返るのは男性だけじゃなくて、女性自身でさえもむせ返るのだ。自分がそこそこだと――美人でないとしても――信じているから、そうなる。つまり、他人から――特に異性から――綺麗に見て欲しいと思っている。

 その点、若い学生たちは、そんな匂いのきつい香水なんて少数派だ。確かに、若さだけで、美しさを誇ることができるのだから。香水よりも、朝一番で髪を洗ってシャンプーの清潔な匂いを漂わせ、はち切れんばかりの美脚を無造作に披露して運動靴で闊歩する。背中には大きなリュックみたいなものを背負う。それは流行を取り入れたお洒落アイテムなのだ。まあ、ほとんどの場合、その中身は大したものじゃなくて化粧品に毛の生えた程度のものしか入ってないことが多い。本は重たいからリュックには入れずに手で抱える。スマートフォンも手に持つ重要アイテムだ。

 尤も、私の年令になると流石にそんな恰好はできないから、オーソドックスなスタイルにならざるを得ない。私は携帯とかスマートフォンなんて持っていない。そんなものは、無くてもちっとも困らない。自宅には電話機があるのだし、職場に来れば電話もファックスもある。欲しくないけど、パソコンもある。パソコンは仕事上使わざるを得ないから、ちゃんと使っている。

 外観の話に戻るが、自分が男性から憧れの目で見られていると言われると、嘘か本当かはわからなくとも本音では嬉しいと思ってしまうのも女性。男性だって、自分を褒められたら嬉しいのは同じだと思うけど、女性は、特にそう思うのだ。だから、あの金曜日の夕方に近藤先生がそう言ってくれたこと自体は、正直ちょっと嬉しかった。もちろん、あの時はパニックだったからそんなことは思わなかったけど、今になって思い出すと、正直に言うと嬉しいことは否定できない。複雑な心境なのよね。

「女の人は大変じゃなぁ。化粧だけじゃなくて、服装とかシャンプーの匂いとか、上から下までお洒落をしないといけない。場合によっては、下着も含まれるのか?」
「そりゃ、トータルコーディネイトよ。大変と言えば大変だけど、楽しんでいるのもあるからね。時間のないときとかは困るけど、大昔から女性はお洒落に時間とお金を掛けているのよ」
「男は、基本的には清潔にしてさえいれば大丈夫じゃろ?」
「男だって、センスの悪い外観はモテないわよ」
「顔じゃなくて、センスね?」
「いやいや、今や男性も顔は大事ですよ。お化粧する男性が最近は増えているらしいわよ」
「美男美女はええなぁ。僕らは、その他大勢だから気楽なもんじゃ」

 少し脱線したけど、暫く天野さんとそんな雑談をしながら、私の作った軽い食事を食べて、天野さんは「ご馳走さま」と言ってあっさり帰っていった。

 ま、普通あっさりが当たり前なのだけどね。え? 何か期待してた? あるはずないでしょ!

 それにしても、天野さんと二人だけで、こんなに長い時間話をしたのは初めてなのよねぇ。
 それも、私の部屋で! え? 男を自宅に連れ込んで、ご飯食べさせた?

 姉だって、夜遅くに自宅へ来た天野さんをリビングに入れて、お茶やお菓子を出したりしてたらしいもん。あの人は人畜無害のおじさんなのよ。妻子持ちだし。まあ、姉は、仕事で帰宅時間が遅いから仕方ないみたいだけどね。

 何の思惑も持ってなかったし、成り行きでそうなっただけだし、現に何もなかったもの。大丈夫よね? 天野さんに誤解されてないよね?

 でも、成り行きでって、恋にはよくある話よね。

 帰る前に、ぎゅっと抱き締められて、耳元で「君も食べていい?」なんて言われたら、どうしただろうか? アタシ。

 いやいや! ナイナイ! 妻子持ちじゃん!
 え? 妻子持ちでなかったら、いいのか?
 そんなことないわ! 私だって選ぶ権利があるのよ!

 う~ん、想像だにしていなかったことを、考えてしまう私は、あの魔の金曜日以降、頭の中がおかしくなっているのだ。
 止まれ! 妄想! バシッ!

 でも、天野さんは、たったあれだけの情報で瞬時に色々と分析して、理由を付けて詳しく説明して……自信たっぷりだった。

 気楽な面白い人だと思ってたけど、ちょっと見直して、少し尊敬しているかも。

 これから当分、この問題が解決して落ち着くまでは、姉の先輩を私の顧問扱いに格上げしておこう。私の手駒よね、うふふ。

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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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