第2話 フェンリル 前編

文字数 2,218文字

ニュースに流れるのは、真実のほんの一部だけだ。誰も知らない部分が、一番重要なのに。


「八竹雅斗」は大人になってからの俺の名前。子どもの頃は木部悠矢(きべゆうや)という名前だった。忘れもしない12歳の春。まだ木部悠矢だった俺は、4つ年の離れた弟の雅矢(まさや)と病気がちの母と3人で暮らしていた。8畳一間のボロアパートが俺たちの家。学校へ通いながら空いた時間にバイトをして、大変だったけれど、優しい家族の支えもあり幸せな時間だった。

だけど。幸せは一瞬で崩れ落ちた。そしてそれはある日突然やってきた。

とある夕方。バイトから帰ると、いつも出迎えてくれる雅矢の声がしなかった。母は病状が悪化して入院中のため、部屋は静けさに満ちていた。
雅矢は寝ているのだろうと思い、電気を点けず薄暗い部屋の中を見回すと、弟は細い体を抱えて畳の上でうずくまっていた。俺はとっさに電気を点けて弟に駆け寄った。

「大丈夫か、雅矢?」
そばに屈んで様子を伺うと、雅矢はゆっくりと顔を上げた。
「お前っ……その目……」
弟の瞳は真っ赤に染まっている。それは、獣能力を極限まで発揮した者しか見せない姿だった。
「何があった? 大丈夫か?」
努めて冷静に状況を判断しようにも、当時の俺は幼すぎて、慌てふためきながら弟の額に手をあてることしかできなかった。そして尋常じゃなく熱くなった額に驚き、弟の全身が熱を帯びていることに気づいた。
「どこか痛いのか?」
「ううん、ちょっと気持ち悪いだけ。休めば治るよ」
風邪薬を飲ませたくても、部屋には母の飲み薬以外に用意がない。
「雅矢、何があったか教えてくれ。いつの間に獣能力なんか身につけたんだ?」

今朝学校に行くときは元気にしていたのに。獣能力を身につける経済的余裕など、ないはずなのに。弟は苦しそうに息をして、それでもけなげに笑おうと努力しながら説明を始めた。
「オオカミの能力をもらったの。あのね、お母さんの病気を治してあげたいんだ。それと、お兄ちゃんにもラクしてほしい。だからね、お金が必要だと思ったんだ。ほら、そこに」
力なく指さすちゃぶ台の上には、少し膨らんだ茶封筒が置かれている。中には札束が入っていたが、母の手術をするには少な過ぎる額だった。そして俺は察した。これが噂で聞いた、獣能力の裏開発なのだと。

未開発の、つまり能力値や副作用が明確になっていない獣能力を被験者に宿し、新たな獣能力の開発を強引に促進することを目的とした、闇にまみれた組織がある。
大学病院や研究者が正規に行う獣能力開発では、このように被験者の命を危険に晒す臨床実験は決して行われない。組織はそこに付け入り、合法的かつ守られ安全な環境では開発の叶わぬ能力をいち早く発見し確立させ、秘密裏に大学病院等の表の世界へ引き渡す。そして見返りとして莫大な対価を要求するのだ。
おそらくこの茶封筒に入ったお金は、組織の実験台となった雅矢が手にした報酬だろう。危険な裏開発は普通の人には縁遠い世界。だが俺たちのように困窮した者には、いとも簡単に門戸を開く。 

「また来週行ったら、同じくらいくれるって」
「そんなとこ行くな! お金なら俺がなんとかするから、とにかくお前はここで休んでろ。いいな?!」
「そっか。わかったよ、お兄ちゃん」
そう言い終えた途端、雅矢は電池が切れたように眠りについた。


雅矢、ごめん。お前に対して怒ったわけじゃない。お前の苦しみをすぐに消してやれない、俺自身に対してだ。変な心配をさせてしまった自分が許せない。風邪薬すら与えてやれない俺が心底情けなくて、悔しさで潰れそうだ。


翌朝。俺は早く起きて、布団に横たわる雅矢の横でその寝顔をずっと眺めていた。昨日寝落ちてから、雅矢は目を覚ましていない。このまま永遠に起きないのではないかと、頭から不安を消し去れない。学校のクラスメイトにも獣能力を持った子はいるがあまり接点がなく、獣能力がどういうものなのか、実はよくわからない。このまま何事もなく終わればいいのに。実験が失敗して、獣能力が抜けてしまえばいいのに。

「んん……」

雅矢が目を擦り起きようとしている。俺は声をかけずに、ただ様子をうかがった。横たわったまま開かれた瞳は、いまだに赤い。起きたてにしては珍しく完全に覚醒した様子で虚空を見つめている。そしてこちらに気づき、視線だけをよこすが、そこには「雅矢じゃない誰か」を感じさせる覇気がある。

「ここ、どこ?」
発せられた言葉には抑揚がなく、それも弟らしくない。
「なに言ってるんだ、家だよ」
「いえって、なに?」
「え……?」

雅矢はこちらの答えを待たず、ロボットのように上半身を一気に起こして立ち上がった。機械的に部屋を見回し、小さなタンスの上に置かれた写真立てを見たかと思うと、急にそれを叩き壊した。
「何するんだよ!」
俺は壊れた写真立ての中から家族写真を引き抜きズボンのポケットに押し込む。そしてこちらを無表情で見つめる弟に向き合った。いつもと違う様子に怯え、その体に触れることはできなかった。ああ、なんて不甲斐ない。

「どうしたんだ、どこか痛いのか? まだ気持ち悪いのか?」
雅矢はこちらを見上げて首をかしげる。
「いたい? きもち、わるい?」
「おい雅矢!」
名前を呼んだ瞬間、雅矢の瞳に光が戻った。
「なあに? お兄ちゃん」

そこにいるのは、いつもの雅矢だった。さっきまでのことは、全部俺の夢だったのかもしれない。きっとそうに違いないんだ。
「朝ごはん、食べようか」
「うん」




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