22 ルソー『社会契約論』(2)
文字数 2,289文字
牧歌的な自然状態が終わり、身の回りにキケンが及んでくると、人々は一致団結し、共同防衛に当たろうと、イっちゃってるヤツから身を守ろうとするわけだね。
とはいえ、しかし、このときね、Aさんは「カネは出すから、傭兵でも雇ってくれ、自分は戦わない」と言い、Bさんは「カネはないからカラダでご奉仕するわ、戦うわ」と言い、Cさんは「カネも出さないし、戦わないけど、武器は提供してあげる」とか言ってね、みんなバラバラだとどうなるか?
これでは収拾がつかない
その上でね、全権を放棄させておいてから、改めて(みんなで)着地点を求めて裁決するんだが、この裁決の過程でね、立ち上がってくるのが一般意志なんだ。
ちょっとわかりづらいから、まずは東浩紀さんの解釈を参照してみようか
東さんはね、ルソーが一般意志の他に特殊意志や全体意志といった用語を使用し、それらと一般意志とを明確に区分している点に注目する。
その上で、【いわゆる世論は全体意志であり、一般意志ではない】[東:P48]という
まず、特殊意志なんだが、これはね、各人の十人十色な見解のことだ。
しかもね、もっというと、特殊意志は私利私欲に満ちている。
たとえば、さっきの話でいうと、みんなでオラたちの共同体を防衛しなきゃならんのだが、痛いのはヤだからカネだけ出さして、とかいう(自分にとって)都合のよい志向はね、特殊意志なんだよ
東さんの本から引用しよう。
【全体意志は個別意志を集めたものである。この言葉そのものが算術を連想させるが、じつはそれは単なる比喩に止まらない。というのも、ルソーは続いて、一般意志をつぎのように定義するからである。「しかし、これらの[全体意志を構成する]特殊意志から、相殺しあうプラスとマイナスを取り除くと、差異の和が残るが、それが一般意志なのである」。全体意志は特殊意志の単純な和にすぎない。しかし一般意志は、その単純な和から「相殺しあう」ものを除いたうえで残る、「差異の和」として定義される】[東:P49]
う~ん・・・・・・
特殊意志の話はわかりました。めいめい勝手な意見なわけでしょ。
全体意志もわかります。要は、そういう意見の集まり、世論でしょ。
でも、一般意志はちょっと・・・・・・
全体意志とどう違うのか・・・・・・
簡単に言うと、共通善を導く上では、
①各人は、個人的な私利私欲をいったん脇へ置くこと、
②パブリックなマインドでもって、みんな(共同体)にとって善いことを考えること、
③そのような心構えで熟議(ディスカッション)すること、
が要請されるわけだ
ところがルソーの場合、一般意志を導く上でね、そのような熟議民主主義っぽいことは一切持ち込まれないんだ。
べつに私的利害を捨てる必要もない。
パブリックなマインドは要らないし、そういった姿勢で隣の人とディスカッションする必要もない。
というか、そもそも意見交換なんてしなくていい。
議論は、必要ないんだ
一般意志はね、その立ち上がり方がさ、共通善とは著しく異なるんだ。
ていうか、とても奇妙で、ルソーって、もしかしてアンチ民主主義な人? と、思わず誤解したくなるほどね、かなり風変わりなものだ。
だからさ、一般意志は一般意志としてしか語り得ないものなんだよ。
それを共通善だと言い切ってしまうと、ルソーのオリジナリティが欠落する
[引用文献・参考文献]
・ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』作田啓一訳、白水社、2010
・東浩紀『一般意思2.0』講談社文庫、2015