第1話

文字数 3,881文字

 もともと、妖怪、魑魅魍魎といった類いは好きである。心霊写真が撮れないかとカメラ片手に心霊スポットを巡って友人に嫌がられたのはいい思い出である。ゲームでも、妖怪や魑魅魍魎が使えるゲームはずっとプレイしている。そんな自分が、京極夏彦氏の小説が嫌いなはずはないわけで、あの分厚さでも一晩でするすると読んでしまう。昔はそれが、魑魅魍魎とおどろおどろしい怪奇現象に引き込まれて読んでいるのだと思っていたが、最近になって、どうも違うなと思い始めた。
 京極堂こと中禅寺秋彦は言う「不思議なことなど、何もないのだよ」
 この、古書肆なのかただの稀覯本の収集家だかわからない(それはそれで羨ましい)痩せぎすの男は、こと自分の興味のあることなら何でも調べるしその座敷に集まる人々と討論をしては知見を深めている。
 古代の人は、いや、古代でなくても人は、わけのわからない対象に出遭ったときにどうするか。何か恐ろしいものに出会った。あれはタタリだ、と言うかもしれないし、何かが化けて出たと怯えるかもしれない。私は多少ではあるがサイエンスを学んだ人間なので「わからないことは、ある。しかしそれに迷信をこじつけて理解した気になるのは間違っている。何か手がかりが見つかるまで『わからない』という分類でおいておこう」と考える。
 意外と、これができる人というのは少ない。科学者でも平気で今わからなければ役に立たない、という問答無用の人もいるし、真剣にこれはオカルトだという人もいれば、神の領域だから踏み込んではいけないのだという人もいる。多分科学者でない人が思っている以上に、科学者というのは、無信仰であっても、神様はいると思っているし、それに理由があるのだろうと思いながらも迷信は信じる人の方が多い印象がある。迷信も信心も悪いことではない。ただそれを、サイエンスやその他、論理的な話と一緒くたにして議論してはいけない。
 京極夏彦氏の小説をいろいろと何度か読むうちに、僭越ながら、彼のロジックは、わかったこととわからないことを、きちんと分けて考えられるサイエンティストのそれに近いのではないかと思えてきた。「不思議なことなどなにもない、ただ今は、手がかりが少なすぎて、わからないだけだ」と。中禅寺秋彦はそう言ってのらりくらりとかわしたり、今はまだその時ではないのだよなどとのたまったりする。彼は、その不思議ではないことを解きほぐす説明をするために、魑魅魍魎を利用する。それはまさに、本人は不本意かもしれないが、式神を使役する陰陽師のごとくである。式神の役割は「わかっている確実な事実を論理的に述べ、白日の下に晒す」つまりはロジックである。
 一見、一面から見れば複雑怪奇で難解な物事も、他の面からみれば非常に単純だということはよくある。その単純で明快な面に気づくまでが大変なのだと思う。それを、京極堂は生業である古本屋を開けているんだか閉めているんだかわからない状態で座敷に座ったまま本を読みながら多種多様な人が勝手に相談に来るのを聞いては総合的に判断できる立場にある。相談する立場からすれば、お知恵を拝借したいというのもあるだろうし、他人に話すと整理ができるという利点があるから、大抵座敷に座って本を読んでいる店主など、良い鴨だと思う。まったくもって本人は不本意だろうけど。
 もちろんその膨大な知識量の蓄積は、他の地方に出張って行くときにも生かされる。
 そして聞いてみれば簡単な仕掛けや絡繰りを、手持ちの妖怪や伝承についての知識を利用しながら解きほぐし、時にはどうしようもない結末を迎えることがあるにせよ、事件を解決に導いて行く。
 もちろん、趣味だとか好きだからとか言う前提はあるだろうが、中禅寺秋彦にとって妖怪や魑魅魍魎、不思議だと言われる民間伝承の類いの役割は、ある種の「装置」ではないかと思う。手がかりを集める。予測を立てる。事件を分解しわかりやすくする。そして事実を明らかにし、解決に導く。事件を分解する、というのは科学で言えば、その一つ一つの事象を明らかにし、別々に見える事象に関わりを見いだし、法則を見つけると言うことだろう。そういう意味で、氏の小説は、妖怪や魑魅魍魎を材料に使いながら、非常に科学的であると思う。
 さらに、氏の小説の一番好きな点であるが、それぞれ魅力的な登場人物に、まるで無関係な出来事が降りかかり、京極堂の主人がなかなか重い腰をあげないうちに、細くてばらばらだったそれぞれの糸がまるで撚られて一本の太い糸になり、事件につながっていく様子はいつも感嘆の声をあげてしまう。読み進めながら、おや、この人はここで出てきたな?と、また最初から読んだり、前のシリーズを読み直したりすることは京極夏彦氏のファンなら大抵は経験があるだろう。
 登場人物は誰も彼もが一癖も二癖もあり、きっと、今の私でも見れば「あっ誰々だ」とわかるであろう外見と性格を備えている。それがうまい具合に、話によって関わり方が大きかったり小さかったりすることはあれど、それぞれがそれぞれの信念の元に勝手気ままに動き、最終的には、ぱちりとジグソーパズルを嵌め込むようにその役割に嵌まって行く。
 私は寡聞にしてあまり詳しくないのだが、京極夏彦氏公認「百鬼夜行」シェアード・ワールドが存在するのもうなずける話ではある。機会があれば是非読んでみたいと思っている。
 そういう意味では、京極堂シリーズにおいては主たる登場人物は、多すぎて、特に誰とは言わないが、勝手気ままに行動をしては京極堂を困らせているように見える。しかし彼らがどう動くかを、中禅寺秋彦があらかじめ予測しているという点で、彼らも人の身でありながら、京極堂の式神にされているのではないのかとさえ思ってしまう。
 そんなことを言ったら、彼は、あの連中をそんなふうに言うなんて、と、葬式を二十ばかり梯子したかのような極めつきの仏頂面で言うのだろうが。
 
 もう一つ、京極夏彦氏の代表作で好きなものに巷間百物語シリーズがある。基本的に一話一話は短めで、手軽に読めること、時代小説の体裁を取っているのがポイントだと思う。最後の最後は本当に泣かされるので、未読の方がいらっしゃったら是非最初から通して読んでほしいと思う。是非是非おすすめのシリーズである。
 百鬼夜行シリーズでは妖怪やその他不思議なことを事件の解決に向ける装置に使っていると考えるが、それはすでに近代に入っていて不思議なことが不思議ではないと人々が知ってしまっているからだろう。だから、不思議なことなど何もないと言うし、神秘であることをわかりやすく事件を説明するための道具、装置、として使う。
 ところが、巷間百物語シリーズではまだ神秘は生きている。どこそこに妖が出ただのという話が未だにリアリティをもっている。そしてそれを登場人物たちは逆手に取る。彼らはやはり、不思議なことなど何もないのだ、と思っているように行動する。すべての不思議にはタネがある。先に知っているか、後から知るか、それでも不思議なことはあるのだと信じるかの違いかもしれない。そして、百鬼夜行シリーズとの最も大きな違いは、妖は人の心に棲むものだ、という考えだと思う。いるかもしれないしいないかもしれない。百鬼夜行シリーズに登場する一味は人の心に棲む妖を利用する。それは、現代ならば深層心理と呼ばれるものかもしれない。
 そして、もしその人の心に棲む妖が恐ろしいものであったなら、恐ろしいことを引き起こしているのなら、それを取り除こうと考えて登場人物たちはあれこれと策を弄す。これもある登場人物に聞かせたら鼻で笑われそうだが、彼らは人の善性を信じて行動しているように見える。そしてある時には束になってもかなわないような巨悪と渡り合うためにひたすらに策を練り、念には念を入れて仕掛けをする。それは理屈をこねるのではなく、むしろ泥臭く手間暇のかかる作業だったりするが、時には何もかもを捨てて逃げ出さざるを得なくなることもある。
 巷間百物語の登場人物たちが行うことは、憑きもの落としと言えるのかはわからない。悪人に悪いものを憑けてしまうこともある。どうしようもない因果に絡めとられて身動きができなくなることもある。現代の人間から見れば、いやそれは、と思うことがあるかもしれないが、それで人の心が、悲しい事態が収まるのならと、不思議を使って化かしてしまう。それで丸く収まるのなら、彼らはきっと、それでいいのだと笑うだろう。
 巷間百物語の主人公は基本的にはほんの少しその一味に利用されるだけで、普段は蚊帳の外にいて、関わった事件ならネタばらしをしてもらえる、程度の存在であり、一味と深く関わることはない。それがまた切なく、時代ものにした妙を感じる。
 そんな彼らの活躍をもっと見てみたいと思うが、もう叶わないのだろうか。遠くから、りん、と鈴の音がしたときに、またページをめくろうと思っている。

 最後に、私は自分が、妖怪や魑魅魍魎やおどろおどろしいなにものかが好きで京極夏彦氏の小説を読んでいるのだと思っていたが、それ以上の入り組んだ人間模様と複雑な心理を膨大な知識で彩ったミステリとして編み上げた作品が好きで氏の小説を読んでいるのだと再認識した。すでに何度も読んでいるのだが、これからまた読みたいなやはり姑獲鳥の夏からかななどと本棚に手が伸びている。
 そろそろ、ダチュラを植える季節だ、などと思いながら。
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