第23話 一人の影響がでかいのではないか

文字数 3,221文字

 前項で酒の缶の話をしたが、この季節、ビールや発泡酒、チューハイの空き缶が多くなる。
 暖かくなってきて、外で飲食しても気分がいいのであろう。公園には桜が咲いて、花見気分がてら、散歩しつつ酒を呑み、ポイ捨てするわけだ。
 一度に呑んだのではなく、毎日のようにそこを通りながら飲んだと思われる痕跡は、すぐに分かる。似たような銘柄の缶が落ちていることもあれば、逆に毎日違う缶が落ちていて、毎日一本ずつ、違う酒を楽しんだのだな、と分かる場合もある。
 これを、同一人物の仕業だというのは、推測にすぎない。とはいえ、似たような公園や桜並木が他にもあるのに、どうしてその界隈にだけ、毎日空き缶が落ちているのか。
 色んな人がそこを通って、思わず外で酒を呑みたくなった。そしてなんとなく、全員がポイ捨てした。と考える方が、どう考えても不自然だろう。

 高架道から降りる斜路。
 その運転席側は、必ず土手かデッドスペースになるわけだが、そこに無数のペットボトルや空き缶、レジ袋に入ったゴミが捨てられているのを、見たことがあるだろう。
 不思議なもので、無いところにはほとんど無い。しかし、あるところには恐ろしい数の缶やペットボトルがある。それも、似たような銘柄の場合が多いことに気づく。
 これも、一つの推測にすぎないが、車窓からポイ捨てしている人間は、数は多くないのではないか。
 少なくとも、俺の身の回りには、車窓からポイ捨てするような人間は一人もいない。どこかのコミュニティに集中的にいるとしても、いくらなんでも一人も見かけない、なんてことがあるだろうか?
 それなのに、捨てられているゴミのこの多さ。これはどう説明をつけるのか。そして、ゴミのある場所とない場所のムラは、どうして生じるのか?
 たとえば、毎日通勤でそこを通るヤツが、通るたびにそこでポイ捨てする。習慣だから、似たようなものを飲み食いして、似たようなゴミを捨てる。毎日のことだから、どんどん溜まる。
 一人一本のペットボトルでも、毎日ポイ捨てすれば年間365本。それを五人が捨てれば、1225本だ。あっという間に山になるわけだ。
 用水路のゴミの項でも書いたように、コーヒー缶を毎日毎日、水路に捨てる、マメな人間もいるようだから、この説はまったく的外れでもないと思うのだが。

 また、散歩途中にある、とある住宅の前には、吸い殻が毎日落ちている。
 俺は煙草を吸わないのでよく分からないが、フィルターが同じなので、同じ銘柄なのであろうと思う。十中八九、そこの住人がお出かけ時か帰宅時に車窓からポイしているに違いないのだが、そこの家人は、一向に道を清掃するつもりがないようだ。
 吸い殻なんか、まんべんなくどこにでも落ちているようでいて、実は捨てるヤツの行動範囲に、固まって落ちているのである。
 吸い殻をポイ捨てする人間は、俺の身の回りにもいるが、ポイ捨てパターンはある程度決まっているようなのだ。

 例をもう一つ。
 散歩コースの一つにある、大きめの公園では、晴れた日の翌日には、ほぼ百パーセント菓子とペットボトルのゴミが散乱している。
 菓子や空き缶の種類から見て、近所の子供たちの仕業に違いないとは思うのだが、行動時間が違うので、現場を押さえたことはない。
 複数の子供らが、小遣いでもって近所のコンビニで菓子と飲み物を買い込み、遊びながら飲食したのであろう。どこで並んで座って食べたか、何をやって遊んだかはもちろん、買い物の時の会話までも聞こえてきそうな、そのゴミ。
 何故なら、ペットボトルはすべてコーラ。菓子はコーラグミ。ラムネ菓子までもコーラ味。奴らの世界では、『今、コーラがきてる』わけだ。
 そのしばらく前は、すべてグレープ味の包装や缶が落ちていた。誰しもガキだったことがあるから分かると思うが、子供の行動パターンは、基本的に合議制ではない。一人のリーダーと、それに付き従う連中で構成される。
 面白いのは、リーダーは場面ごとに変わる、ということだ。
 その子の得意分野になると、そいつに皆が従う。たとえば、虫を発見すると、とたんに饒舌になるヤツ。野球が始まると、仕切りだすヤツ。ゲームの話になると、異常なこだわりを見せるヤツ……おそらくこの現象も、菓子を買う時になると主導権を握るヤツがいて、結果、皆、同じようなものを買っているのではないか。と推測できる。
 もちろん、コーラマニアが一人で飲み食いしている可能性もゼロではないが、今朝の収穫物は、コーラのペットボトルだけで六本あった。どう考えても、子供一人で飲むにはちと多すぎる。
 そして、ポイ捨てしているのも、それを率先してやるヤツがいるのであろう。
 つまり、片付けたり、持ち帰ったりするのが、カッコ悪いと思わせるような言動をするヤツだ。子供らだけで、ほぼ毎日公園に来ているということは、児童館には行っていないということで、コンビニで毎日菓子を買っているということは、わりと裕福な家の子だということだ。
 親は仕事に行っているのか、どっかで遊んでいるのか知らないが、ろくに子供の面倒を見ていないことだけは間違いない。
 こいつらが、酒の空き缶をポイ捨てするような、ろくでもない人間に育つのは、もはや時間の問題と思われるが、顔を見たこともない俺は、注意することも出来ないでいる。

 かように、ポイ捨てゴミは、一人の影響が非常に大きいのではなかろうか。
 ポイ捨てするようなヤツは、このエッセイを読まないであろうことは想像がつくが、万が一、これを読んでいるポイ捨て人間がいるなら言っておきたい。
 あんた、一人でかなり社会に迷惑をかけている。たとえば他でどれだけ社会に貢献しても、人を救っても、まったく追いつかない程度には、存在がマイナスだよ、と。

 さて、ポイ捨て人間を減らすにはどうしたらいいか?
 子供たちにポイ捨てしないよう、学校ではおそらくちゃんと常識を教えているだろう。だが、教育したところで、よく聞いてないヤツは必ず一定数いるわけだし、言われたことの逆をやりたがるバカも、必ずいるものだ。
 つまり、ポイ捨て人間は必ず発生する、ということでもある。
 しかも、そういうヤツがたった一人存在するだけで、環境と景観に多大な被害を与える。その上その行動は、周囲に感染することすらあるわけだ。
 だからといって、教育の必要がないと言いたいわけではない。
 それだけでは不十分、ということなのだ。
 人間は、人間をカテゴリ分けして、一括りに評価しようとする癖があるように思う。
 法律にしてもルールにしても、対策にしても、そのカテゴリを対象に制定、施行すれば、効率的に効果的な網をかけることが出来るわけだ。
 しかし、ポイ捨てに関してはこうしたカテゴリ分けをしても、あまり意味がないかも知れない。
 たしかに、吸い殻は煙草を吸うヤツしか捨てない。釣りの仕掛けは釣りをするヤツしか捨てないが、そいつが何をするヤツかではなく、ポイ捨てするヤツかどうか、が重要なのかもしれない。
 つまり、マナーが悪いのは『日本人全体』というわけでもなく、『子供の教育がなってない』わけでもなく、『中年男性のマナーがおかしい』わけでも、『老人の常識がイカれてる』わけでもないのではないか。
 どの年齢層にも僅かに存在する『非常識ポイ捨て人間』。彼等が、問題の根幹なのだ。
 たとえば、教育でポイ捨て人間をゼロにしようとするならば、ポイ捨てした人間を捕まえ、講習を義務化するなど、交通違反と同じような仕組みを作ることになるだろうが、そんなことをしても交通違反が無くならないのと同じことで、ポイ捨ては無くならないだろう。
 それよりも、たぶん、ポイ捨てがカッコ悪い行為だと思わせたり、ポイ捨てすると損をするような仕組みを作ったり、ポイ捨てしづらい環境づくり、商品づくりをするのが方向性としては正しいように思うのだが、どうだろうか。
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