第3話 雨

文字数 1,693文字

「ずいぶんヤキが回ったものですね。出所するのを楽しみに待っていたのに、がっかりですよ」
 黒のミリタリー ジャケットに身を包んだ侵入者は、ぴたりと銃口を男の鼻先に突きつけて言った。
 若い声だった。少年のように澄んだ(ひとみ)を、長い睫毛が美しく縁取っていた。しなやかな細い足が、ガラスの破片を踏みしめる。
「この女はロボットじゃないですか。なぜ(かば)うような動きをしたんです? そんなバカげたことをしなければ、こんな不利な状況にはならなかったはずですよ」
「右も左も知らなかった子供がこんな口を叩くようになったんだ。オレにヤキが回っても不思議じゃなかろう」
 男は(てのひら)を前に向け、顔の高さに上げた。右手の人差し指に銃のトリガーガードの輪を掛けていた。
「あなたの負けです。無駄なあがきはやめて、一緒に来て下さい。ボクにとって、あなたは(マスター)です。師を撃ちたくはありません」
「相変わらず甘いやつだ」
 次の瞬間、痛めているはずの男の足が鞭のようにしなって、相手の首にめりこんでいた。
「くっ……」
 侵入者はたまらず片膝を突く。
 男の手の中で、くるっと銃が回り、銃口が下を向いた。
 サイレンサーだったが、それでも空気の切り裂かれる鋭い音が響いた。

 砕け散ったガラスの上に横たわる男の死体を、アンは静かに眺めていた。
 若い侵入者は自分の銃をしまうと、男の手から銃をもぎ離し、マガジンを引き抜いた。
「弾が、一発も残っていない」
 長い睫毛が微かに震えた。
 次の瞬間、その身体は何かを振り切るように窓の方へ跳躍した。
「お待ち下さい」
 アンがそちらへ顔を向けた。「わたしの顔認証システムによれば、伽耶の記憶の中の響という少年とあなたの相似度は93%。経過時間と記憶によるデフォルメの誤差を考慮に入れれば、ほとんど100%に近い(あたい)だと言えます」
 相手は窓枠の上に乗った姿勢で、動きを止めた。
 やがて、背中越しに呟くような声が洩れてきた。
「思い出したよ。確か二年前、そんな名前の女の子を買った。あれは目標(ターゲット)が同じ売春宿にいたから、カモフラージュのために買ったんだ。髪を撫でてやっているうちに寝入ってしまったっけ。そう、あの日もこんな雨が……」
「伽耶は、あなたといつか再会したいという希望を胸に毎日を生きているのです。響、眠り姫は今隣の部屋にいます」
「人間は――」
 若い侵入者は初めてまっすぐアンを見つめた。「眠っている時と待っている間が一番幸せなんだよ。伽耶もボクも、そしてあの紫苑って女も、きっと……」
「紫苑をご存知なのですか」
「会ったことはないがね。この男が、最終的に組織を裏切って逃走したのは紫苑のためだってことは知っている。足を洗って、自分を待ってくれている女と穏やかに暮らしたいなんて、殺し屋がそんなフヌけた夢を見るようになっちゃおしまいさ」
 床に横たわった男の身体の周りに、ゆっくりと血が広がり始めていた。
「先ほどの戦闘の時より、あなたの心拍数は増加しています。ドーパミンも分泌され、伽耶があなたを思い出す時の数値と似ています。もうひとつ、生命エネルギーの波長から判断されるあなたの性別(セックス)は……」
「まったく、おしゃべりなロボットだ」
 窓枠につかまっていない方の手が、しきりに首をもみほぐしている。ほっそりしたうなじが露わになった。さっき受けた一撃が痛むのだろうが、そのしぐさは何かを(いと)おしむようにも見えた。
 その時、窓から強い風が吹きこんだ。
 長い髪が(ほど)け、ばっと音を立てて後ろに流れた。

 アンは、センサーをゆっくりと伽耶の寝室に向ける。
 あんなことがあったのに、薬が効いているのか伽耶の寝息は(おおむ)ね安定している。悪い夢も見ていないようだ。
 アンは再び窓の方へ向き直る。
 ようやく明けかけた夜を埋めるように、雨が降り続いていた。
 ――なぜ人間は泣くのだろう。
 最後にアンのカメラアイに映った響の顔は、死んだ男の記憶にあった紫苑と同じ表情をしていた。もしかして雨が降ることと関係があるのだろうか。しかし、いくら分析を加えても、アンの人工知能は雨と人間の涙の間に合理的な因果関係を認めることができなかった。
 アンは、僅かに首を傾げた。
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