第6話
文字数 1,366文字
統合失調症急性期を経験して、近畿大学医学部の二階の窓から飛び降りたあとも、3年ほどしつこく通い続けた。
治療は医学部の附属病院で、人見教授によるものだったが、たぶん合わなかったのだろう、中断してしまった。
リスパダールを処方してもらっていて、ぼくはこの薬を飲んだ状態でお酒を飲むと失神してしまうのだが、当時悪友がいて、そいつに誘われてミナミでナンパをした。二人連れのなかなかキレイな女の人達で、近畿大学医学部の学生証を見せたら一緒に晩ごはんを食べてくれたのだが、ぼくはその席で、よせばよいのにお酒を飲んで、見事失神し、小便までもらしてしまったのだ。
程なくしてぼくはリスパダールを飲まなくなった。飲まなくなった理由としては、当時は自分では『リスクを取る』のだと勇ましい気持ちでいたのだが、あとから考えると、このおしっこ事件が響いていたのに違いあるまい。
リスパダールを飲まなくなってしばらくしてから、人見先生の診察にも行かなくなった。そして三十八歳の時に根室の地で江村病院に入院するまで、ほぼ精神科の治療とは無縁で過ごしたのだ。
大学を辞めてから半年、犬の散歩だけをしていた。その間にブクブクと太ってしまった。そしてその年の瀬、郵便局の早朝のアルバイトを始めた。それがぼくが社会に出た始めての機会である。
働いてみると、仕事は、学校で大人しく勉強しているのよりはずっと退屈でないと知り、上司を怒鳴りつけるなどのトラブルも起こしつつ、3年近くはゆうメイトで働かせてもらった。年上の先輩たちも可愛がってくれた。そのあと、ゆうメイトを辞め、失業保険の給付付きの学校で、ヘルパーの資格を取った。
そして障害者の生活介護の仕事を始めたのだ。三十四歳くらいの事か。この仕事は二年半続いた。ぼくにしては長い方だった。園長が頭の良い、ユニークな女性で、ぼくのことを目にかけてくれたから、続いたのだと想う。
当時の事を思い出すと、色々楽しかった。特に職場の女の人達との交流があったのが良かったと思う。彼女は出来なかったけれど、一緒にカラオケに行ったり、友だちみたいな関係になった女の子もいた。
その仕事を辞めてから、一回根室に行き、根室で結婚、ほどなく妻に暴力をふるい始めて、あっという間に結婚生活は破綻した。その後、根室で生活保護を受ける。この時同時に、精神科の江村病院を受診、そこからまた医療につながり、医療と二人三脚でのリカバリーが始まったのだ。
根室の冬は、マイナス二十度になる日もある。それだけの環境で、まともに仕事も出来ず、精神的にもさまよっていた時期に、医療と福祉につながれたのは幸運だったというしかない。江村病院では、二人目の妻とも出会えた。
今、巡り巡って再び生活介護の仕事をしている。(一応、今で、一年半続いた)。心の中を深く占めるのは猫の事である。猫という生き物を観る時、ぼくには他人事のように思えなくなる。
四十四号線を、根室に向かって逆向きに歩いていた野良猫がいた。あれが、あれこそが猫なのだと思う。ぼくは猫から、仕事のコツも教わっている。猫を愛するように利用者さんを愛せば良いのだ、と。
今年、介護福祉士の試験を受けてきた。結果通知は3月24日に発送とのこと。
合格通知を得られる事を芯から望みつつ、座して、デハナク、どうにかこうにか働きつつ、待つ。
治療は医学部の附属病院で、人見教授によるものだったが、たぶん合わなかったのだろう、中断してしまった。
リスパダールを処方してもらっていて、ぼくはこの薬を飲んだ状態でお酒を飲むと失神してしまうのだが、当時悪友がいて、そいつに誘われてミナミでナンパをした。二人連れのなかなかキレイな女の人達で、近畿大学医学部の学生証を見せたら一緒に晩ごはんを食べてくれたのだが、ぼくはその席で、よせばよいのにお酒を飲んで、見事失神し、小便までもらしてしまったのだ。
程なくしてぼくはリスパダールを飲まなくなった。飲まなくなった理由としては、当時は自分では『リスクを取る』のだと勇ましい気持ちでいたのだが、あとから考えると、このおしっこ事件が響いていたのに違いあるまい。
リスパダールを飲まなくなってしばらくしてから、人見先生の診察にも行かなくなった。そして三十八歳の時に根室の地で江村病院に入院するまで、ほぼ精神科の治療とは無縁で過ごしたのだ。
大学を辞めてから半年、犬の散歩だけをしていた。その間にブクブクと太ってしまった。そしてその年の瀬、郵便局の早朝のアルバイトを始めた。それがぼくが社会に出た始めての機会である。
働いてみると、仕事は、学校で大人しく勉強しているのよりはずっと退屈でないと知り、上司を怒鳴りつけるなどのトラブルも起こしつつ、3年近くはゆうメイトで働かせてもらった。年上の先輩たちも可愛がってくれた。そのあと、ゆうメイトを辞め、失業保険の給付付きの学校で、ヘルパーの資格を取った。
そして障害者の生活介護の仕事を始めたのだ。三十四歳くらいの事か。この仕事は二年半続いた。ぼくにしては長い方だった。園長が頭の良い、ユニークな女性で、ぼくのことを目にかけてくれたから、続いたのだと想う。
当時の事を思い出すと、色々楽しかった。特に職場の女の人達との交流があったのが良かったと思う。彼女は出来なかったけれど、一緒にカラオケに行ったり、友だちみたいな関係になった女の子もいた。
その仕事を辞めてから、一回根室に行き、根室で結婚、ほどなく妻に暴力をふるい始めて、あっという間に結婚生活は破綻した。その後、根室で生活保護を受ける。この時同時に、精神科の江村病院を受診、そこからまた医療につながり、医療と二人三脚でのリカバリーが始まったのだ。
根室の冬は、マイナス二十度になる日もある。それだけの環境で、まともに仕事も出来ず、精神的にもさまよっていた時期に、医療と福祉につながれたのは幸運だったというしかない。江村病院では、二人目の妻とも出会えた。
今、巡り巡って再び生活介護の仕事をしている。(一応、今で、一年半続いた)。心の中を深く占めるのは猫の事である。猫という生き物を観る時、ぼくには他人事のように思えなくなる。
四十四号線を、根室に向かって逆向きに歩いていた野良猫がいた。あれが、あれこそが猫なのだと思う。ぼくは猫から、仕事のコツも教わっている。猫を愛するように利用者さんを愛せば良いのだ、と。
今年、介護福祉士の試験を受けてきた。結果通知は3月24日に発送とのこと。
合格通知を得られる事を芯から望みつつ、座して、デハナク、どうにかこうにか働きつつ、待つ。