第29話 除草剤はやめてくれ
文字数 3,869文字
毎日、マスクを拾い、ペットボトルを拾い、空き缶を拾い、吸い殻を拾い、プラ包装を拾い、イヌの糞を拾い、しているが、一向にゼロになる気配はない。
まあ、毎日毎日捨てる奴らがいるのだから、当然といえば当然なのだが、拾う人もご近所では確実に増えているようで、収穫物は減少の一途をたどっている。
以前は、自宅前から百メートルも歩けば、ペットボトルや空き缶の三つや四つ、簡単に拾えたのだが、最近では一キロくらい歩かないとそれだけの数は拾えない。
ただ、そこまで歩くと、さすがにたくさん拾えるペットボトルポイントや、空き缶ポイントがあって、おかげさまで毎日、ゴミ袋はいっぱいにして帰宅している次第だ。
吸い殻も、まったく無い区間が妙に増えてきたように思っていたのだが、先日、自宅前を掃く人を見かけ、なるほどそういうことかと分かった。
どうやら、自宅周辺数百メートル四方に、『無ゴミエリア』が生じた模様である。
これはいったいどうしたことかと不思議に思っていたのだが、先日、妻と買い物に出ていたら、スーパーで会ったご近所の奥様が、「いつもご主人、偉いわねえ」などと言い出し、あ、結構バレていたのだと赤面した。
俺としては、できるだけコソコソと、誰もいない早朝に、犬の散歩がてらやっていたはずなのだが、ご近所への無言の圧力になっていたのだとすれば、申し訳ないことをした。
べつに協力してほしいわけでも、褒めてほしいわけでもないのだ。
ただ、自分の住む地元の価値を、わずかでも高めておきたいだけだ。そのために、自分の出来ることを、出来る範囲でやっているわけである。
ポイ捨てするようなヤツの中には「べつに拾ってくれなんて頼んでねえし」なんてヤツもいるだろう。だが、地元にゴミをポイ捨てされる、ということは、その地区の価値をゴミによって貶められたということだ。
考えても見てほしい。
ゴミがそこかしこに散乱している町と、そういったものが一切見当たらない町。全く同じ町並みであったなら、どちらが荒んで見えるだろうか?
そして、どちらに住んでみたいと思うだろうか?
犬糞の項でも書いたが、フランスのパリも酷かった。セーヌ川の中州の遊歩道は、犬の糞だらけだったし、道路脇にはポイ捨てゴミが、日本の国道脇の比ではないくらい堆積していて、目を覆うばかりの惨状だった。
そんな有様でも、世界から認められているおしゃれな街だからいい、というなら、べつに構わないので好きにしたらいい。
俺の街じゃねえしな。
だが、もしポイ捨てゴミに気づいたら、少しくらいは、自分の住む場所の価値を高める努力をしても、良いのではないか。
ていうか、ポイ捨てするヤツらに怒りは湧かないのか?
地元にポイ捨てされる、ということは、極端な言い方をすれば「殴りかかられた」に等しい、と俺は思っている。
「別に頼んでねえし」じゃねえ。殴られたんだから治療はするだろ常考。
捨てた奴らのためじゃねえんだよ。
それに、ゴミだらけの町よりも、ゴミが少ない町の方が、少しポイ捨てしづらくなるかもしれん。つまり、わずかながら防衛にもなるわけだ。
俺の自宅まわりみたいに、周囲を気にする人がボチボチと増えてくれば、なおさら綺麗にもなろうというもの。
ただ、意識の高まりはありがたいのだが、結構な数のご近所さんが、掃き掃除だけでなく、除草剤も撒くので、ちょっと困っている。
この除草剤は、ゴミ拾い以前から続けられている習慣である。最初は行政がやっているのかと思っていたが、散歩中に撒いているご近所さんに行き合って、自主的にやっているのだと知った。
どうも、ほんのわずかでも草が生えていると「荒れている」「みっともない」「汚い」と感じる人々が、一定数いるようで、とにかく根こそぎ植物を消し去り、地面が見えていないと気が済まないようなのだ。
かく言う俺の妻もそういうタイプの人間で、とにかく草がわずかでも生えていると抜く。
妻も俺と同じく除草剤が嫌いなので、人力に頼って除草しているわけだ。
主婦で子育てもひと段落したせいで、時間もあるため、梅雨時から秋にかけては、毎週のように家の周囲を除草している。
だが、俺は正直、草がいくら生えていてもさほど気にならない。そりゃあ、背丈以上の草が密生していたら、さすがに邪魔だとは思うが、その辺にちょぼちょぼ生えていても、別にいいじゃないかと思ってしまう。
いやむしろ、除草剤で茶色く枯れた草の方が、よほどみっともないと感じてしまうのだ。
我が家の抜いた草は、毎月ゴミ袋一杯分くらい溜まるから、畑の方へ持って行って積み、カブトムシやハナムグリの幼虫を発生させているわけだが、たしかに除草剤を使えばこの手間はなくなる。仕方がないと言えば仕方がないのだろうか。
それにしても、だ。街路樹の根元まで、除草剤を撒かなくても良いのではないか?
樹木にも除草剤は効くのだ。そりゃあ、すぐに枯れたりはしないが、じわーっと弱ってくる。除草剤を撒いていても、樹勢の衰えない場合もあるにはあるが、これは単に状況の違いである。
よく売られているグリホサート系の除草剤は、地面に落ちるとすぐ無害化するというのを売りにしている。つまり、植物体にかからないと効かないのだ。これを予防的に何も生えていない地面に撒く人もいるが、ほぼ無意味である。
だが、狭い桝に植えられた街路樹の根元を除草しようとすると、どうしても幹や根元にかかる。植物体にかかれば成分は根へ運ばれ、害を及ぼすのは当たり前だ。
またグリホサート系でない除草剤の中には、半年も一年も効くとかいう超強力なものもあるし、根から吸収させるタイプもあるから、こういうのは直接樹木にかからずとも枯らす可能性はある。
大木であればすぐ枯れるとこまではいかないが、影響が無いわけではない。もちろん、若木だとダメージはよりでかいようだし、街路樹の種類によるのか、撒く頻度や、濃度、除草剤の種類によるのかわからないが、年々葉が減り、次第に枯れていっている通りもあれば、あまり影響が無いように見える通りもある。
除草剤を撒いているところを観察していると、根元に誰かが植えたマツバギクやシランを避けて丁寧に撒いている人もいれば、そんなことはお構いなしに街路樹の幹から整備された歩道までまんべんなく除草剤を撒いている人もいる。
徹底的に撒いているのは、路面のヒビやブロックの隙間から生えてくる小さな草すら許さないという気持ちの表れであろう。だが、前述した通り、グリホサート系であれば予防効果は無いので無意味だし、予防効果があるような除草剤なら、蓄積する毒なのでなおさらやめてほしい。
こうした除草剤を撒いているのは、お年を召した男性が大半だ。既にリタイアされているであろうご年齢の方が多く、体力はもうないのだが、どうしても草が気になるのだろう。
良かれと思ってやっている、その気持ちはよく分かる。
だが、肝心の街路樹を枯らしていては仕方がないし、蓄積するようなタイプを歩道に撒かれるのも、正直言って迷惑。
それに、実際のところ根こそぎ草を無くすのも、よろしくない。
何故なら、街路樹や植え込みも、生き物にとっては大事な生息場所になっているからだ。
植え込みであっても、土の中には土壌動物がいるし、樹上には様々な昆虫も住んでいる。
彼らにとって、草が生えているかどうかは、大きな問題だ。
もちろん、人間が不快に思うような生物もいるし、外来生物もいる。アオマツムシという外来昆虫は、街路樹の梢を渡って国内での分布域を広げたのは有名な話だ。
国道沿いの植え込みなどに生えてくる草本類の、九割以上は外来種であるらしい。だが、裏を返せばほんの数%かも知れないが、在来植物も生えているわけだ。樹上を移動し、利用している生物も、何も外来昆虫だけではない。
生き物の移動力には種類によって違いがあり、一休みする場所があるかないかで、行ける範囲も違う。
街路樹や植え込みそのものは、絶滅危惧種が生息しているわけでもない人工の空間だが、そこを伝って移動する生き物にとっては、重要な休憩場所となり得る。
この考え方を、飛び石ビオトープ、あるいはビオコリドー(生態的回廊)という。
飛び石ビオトープは、点々と存在し、ビオコリドーは回廊のようにつながっているものを指す。こうした空間が無いと、生物は行き来が出来なくなり、狭い生息場所に押し込められてしまうこととなる。そうなると、どうしても押し込められた狭い範囲での近親交配が進む。
そうすると、遺伝的に良くない性質が現れ始め、その狭い範囲で個体群が絶滅することもあり得る。また、生息空間が狭ければ、環境が急変したり、乱獲されたりしても、あっさり絶滅してしまう場合もある。
街路樹は日光が強く、乾燥も激しく、人間にも見つかりやすく、競争相手も多い、相当過酷な環境ではあるが、何もいないわけではないし、生態系的に重要でないわけでもないのだ。
よって、出来れば自分の土地でない場所にまで、除草剤を撒くのはやめていただきたい。
草が生えているのがイヤなら、手で抜けばいいと思うのだ。
だが、その労力が使えず、どうしても撒きたい、と言うならば、せめて生えてから枯らすタイプの環境影響の少ない除草剤を、最低限レベルで使用してほしい。
そうした行動が、地域の生態系をわずかでも保つ役割をし、街路樹の美観を保ち、ひいては地域の人々の生活向上に資するのであるから。
まあ、毎日毎日捨てる奴らがいるのだから、当然といえば当然なのだが、拾う人もご近所では確実に増えているようで、収穫物は減少の一途をたどっている。
以前は、自宅前から百メートルも歩けば、ペットボトルや空き缶の三つや四つ、簡単に拾えたのだが、最近では一キロくらい歩かないとそれだけの数は拾えない。
ただ、そこまで歩くと、さすがにたくさん拾えるペットボトルポイントや、空き缶ポイントがあって、おかげさまで毎日、ゴミ袋はいっぱいにして帰宅している次第だ。
吸い殻も、まったく無い区間が妙に増えてきたように思っていたのだが、先日、自宅前を掃く人を見かけ、なるほどそういうことかと分かった。
どうやら、自宅周辺数百メートル四方に、『無ゴミエリア』が生じた模様である。
これはいったいどうしたことかと不思議に思っていたのだが、先日、妻と買い物に出ていたら、スーパーで会ったご近所の奥様が、「いつもご主人、偉いわねえ」などと言い出し、あ、結構バレていたのだと赤面した。
俺としては、できるだけコソコソと、誰もいない早朝に、犬の散歩がてらやっていたはずなのだが、ご近所への無言の圧力になっていたのだとすれば、申し訳ないことをした。
べつに協力してほしいわけでも、褒めてほしいわけでもないのだ。
ただ、自分の住む地元の価値を、わずかでも高めておきたいだけだ。そのために、自分の出来ることを、出来る範囲でやっているわけである。
ポイ捨てするようなヤツの中には「べつに拾ってくれなんて頼んでねえし」なんてヤツもいるだろう。だが、地元にゴミをポイ捨てされる、ということは、その地区の価値をゴミによって貶められたということだ。
考えても見てほしい。
ゴミがそこかしこに散乱している町と、そういったものが一切見当たらない町。全く同じ町並みであったなら、どちらが荒んで見えるだろうか?
そして、どちらに住んでみたいと思うだろうか?
犬糞の項でも書いたが、フランスのパリも酷かった。セーヌ川の中州の遊歩道は、犬の糞だらけだったし、道路脇にはポイ捨てゴミが、日本の国道脇の比ではないくらい堆積していて、目を覆うばかりの惨状だった。
そんな有様でも、世界から認められているおしゃれな街だからいい、というなら、べつに構わないので好きにしたらいい。
俺の街じゃねえしな。
だが、もしポイ捨てゴミに気づいたら、少しくらいは、自分の住む場所の価値を高める努力をしても、良いのではないか。
ていうか、ポイ捨てするヤツらに怒りは湧かないのか?
地元にポイ捨てされる、ということは、極端な言い方をすれば「殴りかかられた」に等しい、と俺は思っている。
「別に頼んでねえし」じゃねえ。殴られたんだから治療はするだろ常考。
捨てた奴らのためじゃねえんだよ。
それに、ゴミだらけの町よりも、ゴミが少ない町の方が、少しポイ捨てしづらくなるかもしれん。つまり、わずかながら防衛にもなるわけだ。
俺の自宅まわりみたいに、周囲を気にする人がボチボチと増えてくれば、なおさら綺麗にもなろうというもの。
ただ、意識の高まりはありがたいのだが、結構な数のご近所さんが、掃き掃除だけでなく、除草剤も撒くので、ちょっと困っている。
この除草剤は、ゴミ拾い以前から続けられている習慣である。最初は行政がやっているのかと思っていたが、散歩中に撒いているご近所さんに行き合って、自主的にやっているのだと知った。
どうも、ほんのわずかでも草が生えていると「荒れている」「みっともない」「汚い」と感じる人々が、一定数いるようで、とにかく根こそぎ植物を消し去り、地面が見えていないと気が済まないようなのだ。
かく言う俺の妻もそういうタイプの人間で、とにかく草がわずかでも生えていると抜く。
妻も俺と同じく除草剤が嫌いなので、人力に頼って除草しているわけだ。
主婦で子育てもひと段落したせいで、時間もあるため、梅雨時から秋にかけては、毎週のように家の周囲を除草している。
だが、俺は正直、草がいくら生えていてもさほど気にならない。そりゃあ、背丈以上の草が密生していたら、さすがに邪魔だとは思うが、その辺にちょぼちょぼ生えていても、別にいいじゃないかと思ってしまう。
いやむしろ、除草剤で茶色く枯れた草の方が、よほどみっともないと感じてしまうのだ。
我が家の抜いた草は、毎月ゴミ袋一杯分くらい溜まるから、畑の方へ持って行って積み、カブトムシやハナムグリの幼虫を発生させているわけだが、たしかに除草剤を使えばこの手間はなくなる。仕方がないと言えば仕方がないのだろうか。
それにしても、だ。街路樹の根元まで、除草剤を撒かなくても良いのではないか?
樹木にも除草剤は効くのだ。そりゃあ、すぐに枯れたりはしないが、じわーっと弱ってくる。除草剤を撒いていても、樹勢の衰えない場合もあるにはあるが、これは単に状況の違いである。
よく売られているグリホサート系の除草剤は、地面に落ちるとすぐ無害化するというのを売りにしている。つまり、植物体にかからないと効かないのだ。これを予防的に何も生えていない地面に撒く人もいるが、ほぼ無意味である。
だが、狭い桝に植えられた街路樹の根元を除草しようとすると、どうしても幹や根元にかかる。植物体にかかれば成分は根へ運ばれ、害を及ぼすのは当たり前だ。
またグリホサート系でない除草剤の中には、半年も一年も効くとかいう超強力なものもあるし、根から吸収させるタイプもあるから、こういうのは直接樹木にかからずとも枯らす可能性はある。
大木であればすぐ枯れるとこまではいかないが、影響が無いわけではない。もちろん、若木だとダメージはよりでかいようだし、街路樹の種類によるのか、撒く頻度や、濃度、除草剤の種類によるのかわからないが、年々葉が減り、次第に枯れていっている通りもあれば、あまり影響が無いように見える通りもある。
除草剤を撒いているところを観察していると、根元に誰かが植えたマツバギクやシランを避けて丁寧に撒いている人もいれば、そんなことはお構いなしに街路樹の幹から整備された歩道までまんべんなく除草剤を撒いている人もいる。
徹底的に撒いているのは、路面のヒビやブロックの隙間から生えてくる小さな草すら許さないという気持ちの表れであろう。だが、前述した通り、グリホサート系であれば予防効果は無いので無意味だし、予防効果があるような除草剤なら、蓄積する毒なのでなおさらやめてほしい。
こうした除草剤を撒いているのは、お年を召した男性が大半だ。既にリタイアされているであろうご年齢の方が多く、体力はもうないのだが、どうしても草が気になるのだろう。
良かれと思ってやっている、その気持ちはよく分かる。
だが、肝心の街路樹を枯らしていては仕方がないし、蓄積するようなタイプを歩道に撒かれるのも、正直言って迷惑。
それに、実際のところ根こそぎ草を無くすのも、よろしくない。
何故なら、街路樹や植え込みも、生き物にとっては大事な生息場所になっているからだ。
植え込みであっても、土の中には土壌動物がいるし、樹上には様々な昆虫も住んでいる。
彼らにとって、草が生えているかどうかは、大きな問題だ。
もちろん、人間が不快に思うような生物もいるし、外来生物もいる。アオマツムシという外来昆虫は、街路樹の梢を渡って国内での分布域を広げたのは有名な話だ。
国道沿いの植え込みなどに生えてくる草本類の、九割以上は外来種であるらしい。だが、裏を返せばほんの数%かも知れないが、在来植物も生えているわけだ。樹上を移動し、利用している生物も、何も外来昆虫だけではない。
生き物の移動力には種類によって違いがあり、一休みする場所があるかないかで、行ける範囲も違う。
街路樹や植え込みそのものは、絶滅危惧種が生息しているわけでもない人工の空間だが、そこを伝って移動する生き物にとっては、重要な休憩場所となり得る。
この考え方を、飛び石ビオトープ、あるいはビオコリドー(生態的回廊)という。
飛び石ビオトープは、点々と存在し、ビオコリドーは回廊のようにつながっているものを指す。こうした空間が無いと、生物は行き来が出来なくなり、狭い生息場所に押し込められてしまうこととなる。そうなると、どうしても押し込められた狭い範囲での近親交配が進む。
そうすると、遺伝的に良くない性質が現れ始め、その狭い範囲で個体群が絶滅することもあり得る。また、生息空間が狭ければ、環境が急変したり、乱獲されたりしても、あっさり絶滅してしまう場合もある。
街路樹は日光が強く、乾燥も激しく、人間にも見つかりやすく、競争相手も多い、相当過酷な環境ではあるが、何もいないわけではないし、生態系的に重要でないわけでもないのだ。
よって、出来れば自分の土地でない場所にまで、除草剤を撒くのはやめていただきたい。
草が生えているのがイヤなら、手で抜けばいいと思うのだ。
だが、その労力が使えず、どうしても撒きたい、と言うならば、せめて生えてから枯らすタイプの環境影響の少ない除草剤を、最低限レベルで使用してほしい。
そうした行動が、地域の生態系をわずかでも保つ役割をし、街路樹の美観を保ち、ひいては地域の人々の生活向上に資するのであるから。