葡萄酒樽

エピソード文字数 552文字

 夏の夕暮れ、お隣のお爺ちゃんの命はもう長くはないらしい……。彼はいつも温厚でやさしい人物だ――わたしは、花壇で水をまいていた。風鈴がちりんちりんと鳴った。ほんのり蚊取り線香の匂いがした。お爺ちゃんは畳の上で白いタオルケットに包まり、ぐっすりと眠っている姿が見えた。お婆ちゃんが団扇を仰ぎながら、しくしく泣いている。気の毒になったわたしは、じょうろの水を花壇にぶちまけた。と、その時である。「ここは、ワシの土地じゃ!」お爺ちゃんはむっくりと起きあがって叫んだ。「このくそったれが!」お爺ちゃんは縁側のガラス戸をがらっと開け寝巻き姿のままわたしに詰め寄り、「ぬおおおおおおおおおっ!」葡萄酒樽を青筋を立てた物凄い形相で頭の上まで持ちあげた。その樽にはずっしりと培養土が詰まっていた。いま考えても重さは八十キロ以上あったに違いない。樽はドスンと音を立てて地面に叩きつけられ、わたしの身体はかすかに宙を舞った。よく見ると、それは、わたしの自宅の境界線からはみ出していたが、わたしは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。 
 つぎの日、お爺ちゃんは亡くなった。葬儀の後、お隣のお婆ちゃんがわたしに深々と謝りにきた。わたしはすぐ許した。

 いまでも、わたしは、その葡萄酒樽を一ミリたりとも動かせないで、いる……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み