文字数 4,213文字

 新しい年が明けた。
 最初の学習会の日、スミレ小児科を出ると雪が舞っていた。どうりで寒かったはずだ。
 理香は、歩道の際で立ち止まり、目の前の光景を眺めた。
 ふわふわと空から白いものが落ちてくる。ようやく地面に着いたかと思った次の瞬間、雪は、風にあおられてどこか遠いところへ運び去られてしまう。はかなくて、不確かな存在。だから、こんなにきれいなんだろうか、とぼんやり思う。
 理香は、筆記具と紙類が入ったトートバッグの持ち手をぎゅっと握り、区民センターに向かって、通い慣れた道を歩き出した。
 一月は十二月の続きに過ぎないけれど、年が変わると気持ちも改まる気がする。去年のことは、そのままそこに置いていけばいい、そうして、新しい気持ちで一年を始めよう。そう決めていた。
 歩きながら、生徒たちの顔を思い浮かべる。
 沙彩ちゃんを筆頭に、進級や卒業が心配な高校生が何人かいる。退学者は絶対に出したくない。学校を休まないように、学年末考査で少しでも点が取れるように、しっかりフォローしないといけない。
 そして、いよいよ受験シーズンが始まる。高校受験の中学生に加えて、今年は国立大を受験する高校生がいる。教師になりたいのだそうだ。
──教師かあ。
 大学四年の秋、最後の最後になって理香が自分から手放した夢。同じ夢を追いかけようとしているこの子を応援してやりたいと心から思う。それに、合格すれば、あとに続く子たちの目標にもなるはずだ。
 そんなことを考えながら、理香は、区民センターのエントランスに足を踏み入れた。
 一階のカウンターで「今年もよろしくお願いします」と声をかけると、会議室の鍵と一緒に笑顔が返ってきた。
「いよいよ三学期ですね。お手伝いできることがあれば、何でも言ってください」
「ありがとうございます」
 以前は、カウンターの職員も守衛さんも、もっとそっけなかった。でも、この区民センターで活動を続けているうちに、いつの間にか目線が温かいものに変わってきた気がする。
 鍵を受け取って階段に向かって歩き出そうとしたところで、「理香ちゃん」と名前を呼ばれた。振り向くと、ふわふわの髪が目に入った。切ったばかりなのか、いつもよりボリュームが少ない。
 研さんは、カウンターに向かってぺこりと頭を下げ、理香と並んで歩き出した。
「あけましておめでとう」
 いつもの気が抜けたような笑顔に、なぜだか涙が出そうになった。
「ん? どした? なんか寂しそうな顔してないか? 年末年始、また帰らなかったのか?」
 自分のことでもないのに、少し悲しそうな顔をして尋ねてくれる。たぶん、ある程度、理香の家庭の事情を察してくれているのだろうと思う。
 帰省しないのは毎年のことだし、もう慣れている。でも、気遣ってくれる研さんの気持ちが温かい。そして、研さんといるとほっとする。理香は一人っ子だけれど、お兄さんってこんな感じなのかな、と思う時がある。
「──身体、もう大丈夫なんですか?」
「うん、全快。心配かけて、ごめんな」研さんは歩きながら、手にした紙袋を持ち上げてみせた。「差し入れ持ってきた。マドレーヌ、五十個入ってる」
 お詫びも兼ねているのかもしれないけれど、大盤振る舞いだ。
「ありがとうございます」
「沙彩をおびき出すのにも使えるだろ?」と研さんが言い、二人して笑った。確かに「マドレーヌがある」と聞いたら家から走って来そうだ。
 笑いながら、わたしがやるべきことをやろう、と改めて思う。大丈夫、ちゃんと頑張っていける。
 研さんと一緒に、大小二つの会議室の鍵を開け、明かりをつけてまわった。マドレーヌは最初の休憩時間に出すことにして、小会議室の隅に置いておく。
 大会議室の壁際に長机を置いて、自由に使えるように白紙と筆記具をセットする。これで準備完了だ。会場内をざっと確認し、小会議室に戻ったところで、研さんが「あのさ」と言った。
「パンフレット、見たよ。長谷が楽しそうに持ってきた。いい出来だった」
 名前を聞いただけで、どきりとした。
「そうなんですよ」理香は、にこやかに答えた。「すごくきれいに作ってくださって」
 口にしながら、薄っぺらな感想だと自分で思う。本当はもっと心に響くことがたくさんあった。でも、今は思い返さない。
「あいつに頼んで正解だった。長谷も、受けてよかったって言ってたし」
 そう思ってくれているんじゃないかとは思っていたけれど、改めて研さんの口から聞くとほっとした。でも、そこまでだ。それ以上は考えない、何も。せっかく空っぽにした心に余計なものを入れないように、しっかりと蓋を閉じる。
 やがて、三々五々、ボランティアのメンバーが集まってきた。研さんは、その一人ひとりに丁寧に頭を下げ、お詫びの言葉を繰り返した。
 スミレ先生は、研さんの姿を見て少し驚いた顔をした。
「あら、アフロが小さくなってる。本当に切ってきたの」
「はあ? 何言ってんの。センセーが『アフロはイヤ』って言ったくせに」
 どうやら研さんは、スミレ先生の意見を尊重して髪を切ったらしい。
「でも、小さくなってもアフロはアフロだもの。ねえ?」
「アフロじゃないって。エレクトリック・ヘアだって言ってんのに」
 久しぶりに聞く二人の会話に、篠崎先生が苦笑いしているのが見えた。研さんとスミレ先生が完全に歩み寄るには、どうやら、もう少し調整が必要らしい。


 学習会の日は、活動を開始する前に連絡事項の確認を行っている。
 前回からの申し送り事項と入試関連の注意事項の伝達が終わり、大会議室に移動しようかという時に、突然、事務局の携帯電話が鳴り出した。折り畳み式の電話を開くと、沙彩ちゃんの名前が表示されていた。
 欠席の連絡かな? そう思いながら電話を取った途端に、切迫した声が耳に飛び込んできた。
──どうしよう、リカちゃん。お父さんが──。
 金切り声に近い早口で、何を言っているのか、うまく聞き取れない。理香は電話を耳に押し当てた。
「大丈夫、聞いてるよ」理香はあえてゆっくり言った。「落ち着いて話して」
 理香の声に、全員が雑談をやめた。室内が急に静かになる。
──勉強道具を取りに帰ったら、お父さんが──。急に、普通に──普通に話してたのに、いきなり、苦しいって、息が──。
 震える声に注意深く耳を傾け、言葉の断片から電話の向こうの状況を推測する。聞いているうちに理香の手も震えてきた。
「救急車を呼んで。119だよ」
 うん、うん、と沙彩ちゃんが何度も言う。
「すぐかけて。わたしも、すぐ行く。三分で行くから」
 学習会に来ている子たちの家は、大体頭に入っている。沙彩ちゃんの家は区民センターのすぐ裏だ。五百メートルも離れていない。
「かわって」
 横から手が伸びてきて、理香の手から電話を取り上げた。そうだ、スミレ先生がいた。動転して忘れていた。
「スミレだよ。お父さん、息はしてる? ──そう。分かった、すぐ行く。沙彩ちゃんは、すぐ119番して。1、1、9。すぐかけて。いい? 切るよ?」
 携帯電話を理香に返しながら、「家、どこ?」と確認する。
「センターの裏です」
「行くよ」
 あとはお願いします、と言い残し、二人で会議室を飛び出した。走って階段を降りる。
「AED、借ります」
 一階に着くなり、スミレ先生がカウンターの向こうへ叫んだ。近所の開業医のただならぬ様子に「どうぞ」と簡潔な返事が飛んできた。
 AEDを抱え、スミレ先生と一緒に夕方の闇の中を全力で走った。
「その先、右です。曲がってすぐ、コーポの二階──」
 息を切らして鉄階段を駆け上がった。
 鍵はかかっていなかった。ドアを開けると、部屋の奥で必死に数をかぞえながら身体を上下させている沙彩ちゃんの姿が見えた。その姿を見たとたんに、頭の中が真っ白になった。
「来たよ!」
 スミレ先生が叫び、室内に駆け込んだ。
「五、六、七、八──」
『五、六、七、八──』
 お父さんの身体のそばにスマホが転がっていて、スピーカーホンになっている。消防指令センターだろう、誰かが一緒に数えてくれていた。
 沙彩ちゃんの顔はくしゃくしゃだった。スミレ先生は、沙彩ちゃんの頭をぽんとたたいて「完璧。えらかった。交代」と声をかけ、お父さんに屈みこんだ。
「理香ちゃん、AEDのケース、開けて。電源入れて、パッドとコード、引っ張り出して」
 簡潔に指示を出す。スピーカーホン越しに「医師です」と告げ、指令センターとやり取りをしながら、目の前に横たわっている人の呼吸を確かめる。それから、胸に両手をついて、胸骨圧迫を再開した。
 理香は、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、震える手でケースを開けた。コードを引き出し、袋を破ってパッドを取り出す。
 機械の準備ができて音声ガイダンスが始まると、先生は、お父さんのシャツを手早くはだけて、胸とわき腹にパッドを貼り付けた。AEDが計測を始める。
 遠くから、かすかに救急車のサイレンが聞こえてきた。
「理香ちゃん、外に出て、救急車が見えたら誘導して。沙彩ちゃんは、ここにいて」
 理香は「はい」と返事をして、靴をつっかけ、転がるようにドアの外に飛び出した。


 沙彩ちゃんのお父さんは、一命を取り留めた。
 急性心筋梗塞だった。一分どころか一秒を争う中で、スミレ先生がいたことが明暗を分けたのだろうと思う。
 カテーテルを使った手術が無事に終わり、医者は沙彩ちゃんに「一度帰宅したらどうか」と言ってくれたけれど、沙彩ちゃんは、お父さんの近くにいると言ってきかなかった。置いて行かれることが、よほど怖かったのだろう。
 四国に住むおばあちゃんが、翌朝の始発の飛行機で駆けつけてくれることになった。それまで理香は、沙彩ちゃんと一緒に病院の家族待合室で過ごした。医学の知識も何もない。沙彩ちゃんにどう声をかけていいのかも分からない。でも、高校生の女の子を一人残して帰る気にはとてもなれなかった。
 深夜、病院の毛布を借りて、ベンチに横になって眠る沙彩ちゃんの顔が、小さな子どもみたいに見えた。
沙彩ちゃんのそばに座って、寒くないように時々毛布をかけ直す。そんなことしかできない自分が少しだけ悲しかった。
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