第34話 過去から来た絵師

文字数 3,206文字

 桜が咲き、やっと春が来た事を実感出来る陽気になった。俺はどちらかと言うと寒いのが弱い。暑い方が我慢出来る。ところが、俺が仕事で向かった江戸時代は今と違ってろくな暖房設備が無い。家の中の暖房と言えば火鉢ぐらいで、炬燵があればましな方だった。だから転送先が冬の時期だと本当に辛かった。
 普段は東京の八重洲にある「大東興産」の事務所兼画廊及びショールームに勤務しいている。特命があると次元転送装置を動かして、任務先の時代に向かうのだ。俺と妻のさきが主に派遣されるのが主に日本の江戸時代だ。組織の中でも俺たち夫婦は江戸時代に特に詳しい存在となっていた。結婚してはや三年。そろそろ本気で子供が欲しいのだが、今の所その気配は無い。組織の言うには、俺たち夫婦の子供がやがて世界を救う人間を生むらしいのだが、それは何時の事なのか、今の所判らなかった。
 尤も特命と言っても普段はさほど重要な任務は無い。一年半ほど前の「美人鑑賞図」事件以来さほど大きな事件は無い。俺はこの状態が何時迄も続くと考えていた。

 あの事件の後の事だが、北斎の若い頃の名、勝川春朗は、勝川派を破門となった後、名を「こと」と改めたお栄と一緒になった。
 勝川春章の最後を看取ったことは、春朗と一緒に住みだした。実はこの時、春朗は前妻に亡くられていて、一男二女の子供も居た為にかなり困っていたのだった。だから二人が一緒になったのも必然でもあった。
 ことは多吉朗、お栄(応為)お猶の三人の一男二女を儲けたが、三女のお栄(彼女にとっては長女)が成長すると四女のお猶は目が悪く、体も弱かった為北斎、お栄親子とは別れて暮らした。
 絵の才があったお栄は北斎と一緒に暮らして次第にその才能を開花させて行く事になる。

 その日、事務所に出社すると、上司で所長の五月雨さんが俺を呼んでいると受付の女子が教えてくれた。
「なんだろうね?」
「さあ、でもきっとまた江戸ですよ」
 受付の女子も俺が直ちょく江戸に行くので慣れたものだった。江戸時代にはそれぞれの時代に合わせて現地駐在員が居る。特に親しいのが幕末担当の表向きは南町奉行所の坂崎同心だ。それと寛政の頃の駐在員の山城同心だ。この人も南町奉行所の同心を表向きの生業としている。
 江戸に行くなら、また二人と逢えるかなと思って所長室のドアを開けるとそこには五月雨さんの他に二人の人間が立っていた。
 一人はよく知っている坂崎同心だった。見慣れた同心の格好をしていた。だがその横に立っている女性には見覚えが無かった。しいて言えば誰かに似ている感じはしたが、それが誰なのかは直ぐには思い出せなかった。
「坂崎さん。ご無沙汰しています。お元気でしたか?」
 声を掛けると坂崎さんは笑いながら
「おう! 光彩、お主も元気そうじゃのう。達者だったか」
 そう言って再会を祝福した。
「それで、その方は?」
 歳の頃なら二十代後半だろうか、藤色の一重の着物に紅鬱金(べにうこん)とも言う色の名古屋帯をしていた。
 頭を見ると見たことの無い髪型だったが、後で幕末に流行していた「割り鹿の子」だと知る。当時はかなり流行っていたらしい。
「光彩、聞いて驚くなよ。北斎の娘のお栄だ」
 一瞬、坂崎さんの言葉が理解出来なかった。お栄と言えば、葛飾北斎の娘で、絵の才能を高く認められ、当時から父親の代筆をしたほどだった。自身の名の作画は十点ほどしか残っていないが、それでも浮世絵や西洋画を思わせる画風の絵もあり色々と興味を引かれる人物でもあった。
 残っている自画像では余り美人とは言えないが、俺の前に立っている人物は現代ではかなりの美人に入るだろう。
「初めまして、光彩孝と申します。普段は現代美術を担当していますが、江戸時代にも多少は経験があります」
 俺はそう言って自己紹介した、するとお栄と紹介された女性は
「あたしはお栄と申します。中島八右衛門こと鉄蔵の三女でございます」
 そう言って頭を下げた。
「ま、立ったままではどうしようも無い、座り給え」
 五月雨さんの言葉に促されて革張りのソファーに座る。俺と五月雨さん。坂崎さんとお栄さんという組み合わせて座った。
 俺はこの時若干だが動揺していた。何故ならば、江戸時代の一般の人間を直接この現代に連れて来る事は禁止されているからだ。組織の人間とか、レクチャーを受けた者がたまにやって来る事はあったが、このお栄さんがレクチャーを受けてやって来たとは思えなかった。
「光彩、お栄さんが現代にやって来た理由は、この現代で保管展示されている絵画を見て色々と研修したといと言う事なんだ」
 五月雨さんが銀縁のメガネの縁を右手で触りながらお栄さんが江戸時代からやって来た理由を教えてくれた。
「そうですか、それで私の役目は?」
「君たち夫婦で色々と案内して欲しい」
 やはり思った通りだった。
「でもいきなりお栄さんを現代の街を連れ回すのは良くないと思いますが」
「その点は心配無い。センターで一応レクチャーを受けて貰っている。それにお栄さんの身元引受人は蔦屋重三郎さんだ」
 その名前も聞くのは久しぶりだった。下男の作兵衛さんが亡くなった後に江戸の家を売り払い、センターにやって来て、今ではそこで暮らしている。
 センター暮らしは江戸よりも快適だが、退屈だそうだ。只、健康に関しては江戸とは問題にならないぐらいに発展しているので、その点は安心しているそうだ。
 実はこっそりとこちらにやって来て、海外から来る美術展を見て回っている。それと同じような事をお栄さんにもやらせると言う事なのだと理解した。
「お栄さん。何故、あなたにとって未来の絵を見て回りたいのですか?」
 俺は、それが知りたかった。そんなにも彼女は現代美術に興味があるのだろうか?
 女子社員がお茶を持って来て置いて行った。お栄さんは軽く頭を下げると、茶碗を持って軽く口を着けた。
「江戸で、父から西洋の絵画を見せて貰い、正直、衝撃を受けたんですよ。あの技法を自分の絵に活かしたい。そう考えるようになり、父鉄蔵に言ったんです。もっと見たいと。そうしたら、父鉄蔵は南町の旦那に連絡を取ってくれて……」
 そこから先は言わなくても想像出来た。
「正直驚いたぞ。しばしば北斎殿とは繋をつけておったのじゃが、まさか娘のお栄さんの事だとは正直思わなかった」
 坂崎さんはそう言って簡単な経過を述べた。
 前の事件の後、北斎一家は我々組織の監視下にあったと言っても良い。陰日向になり支援して来たのも事実だった。
「それで今までの事を正直に伝えてたのじゃ」
 坂崎さんが言うとお栄さんも
「その事はお母かさんから何度も聞いたから戸惑いは無かったのです。むしろ益々自分が死んだ先の世の絵を見たいと思ったのも事実なんです」
 その時だった。ドアが開いて、さきが現れた。今日はスーツ姿で着物ではない。
「光彩さきです。夫と一緒にこれからご案内いたします」
 既に任務を聞いていたのだろう。その言葉に迷いはなかった。
「おお、さき。よろしく頼む」
 坂崎さんがそう言ってにこやかな表情をすると、さきは
「坂崎さん。今からお栄さんを連れて行っても構いませんか?」
 そう尋ねた。まさか今からいきなりお栄さんを何処かの美術館に連れて行こうと言うのだろうか。
「大丈夫だ。それは保証する。それにお栄殿には最初にどうしても見たい作品があるのだそうだ」
「それは?」
 さきの言葉にお栄さんは
「おっ母さんの幼い頃やお祖母さんが描かれているという『美人鑑賞図』を見てみたいのです」
 そう言って目を輝かした。無理も無いだろう。きっと彼女は母親から絵の秘密を幾度も聞かされて育ったに違い無いからだ。
「お安い御用さ」
 俺とさきはそう言って笑ったのだった。
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