第14話 絶望の坂道

文字数 2,128文字

「この坂を走って上がろうと思うだけでも、私はすごいと思うな。もう、尊敬しちゃうレベルで」
 それは風花の本心だった。今の自分には、こうやって歩いて登るだけでも息が上がりそうになる。
「まあ、毎日のトレーニングだから、むしろしんどくないとね」
 彼が笑っている。走ることがきっと好きなんだろうな。
「私もかるたをやるなら、トレーニングした方がいいって、かるた部の先輩から言われてて」
 風花がそう言うと、孝太が一瞬何か言いたげな顔をしたが、すぐに思い直したように、
「まあ、受験もあったから運動不足も仕方ないかな。でも、走れとは言わないけど、毎日この坂を、体の鍛える場所を意識しながら上がるだけでも、間違いなくいいトレーニングにはなるから、少しずつ始めてみたらいいよ」
と言った。
「うん」
 そう返事をして、もう一度風花は坂の上を見上げてみた。去年の夏の私なら、孝太君のように走って上がれたんだろうか。

 孝太とは、横道に入るところで別れた。「じゃ、また明日」と彼は言った。
 ミオには送らなくていいと言ったが、坂を登るのに併せるように夕暮れも進み、徐々に辺りは暗くなっていた。孝太がいてくれて心強かったというのが今となっては正直な気持ちだった。
 もともと商店街とは違い、派手な照明などがある道ではなく、しかも、まだ尾道のここに住み始めて間もない。そこに何があり、どういう人が住んでいるのか全く知らず、1人で帰るのは全然不安はないと言ったら嘘になる。

 ——じゃ、慣れるため毎日送ってもらえば?

 冗談めかして言ったミオの言葉をふと思い出した。

 ——だめだめ。そんなことできるわけないじゃん

 必死に気持ちを打ち消していた。

  ⌘

「ねえ、おばあちゃん。私って尾道に来たことがあった?」
 夕食時、風花は大河内写真館にあった例の写真のことを思い出した。
「ああ、赤ちゃんの頃にね。覚えてないでしょう? なんで?」
 そうか。やっぱり一度は来ていたんだ。
「今日ね、昨日来たミオちゃんちに寄ってきたの」
「ああ、そう。おうちはどこなの?」
「商店街の呉服屋さんだった」
 祖母の顔がパッと変わった。
「もしかして、小柴さんとこ?」
「おばあちゃん、知ってるの?」
「もちろんよ。お正月とかに、正装でかるたをするときの袴とか、あそこが扱ってるんだよ。なんだ、ミオちゃんってあそこの子だったんだ」
「うん。それに、昨日一緒にきた男の子もさ、隣の写真館の子でね」
「へえ、彼も小さい頃に見ただけだわ。すっかり大きくなったねえ」
 思い出すように、しみじみと祖母が言った。
「でね。孝太君ちの写真館にさ、お母さんの写真があって」
「もしかして、風花を抱いてた写真?」
 知ってた。
「やっぱりあれは私なんだ。私、尾道には来たことがないって思ってた。全然記憶がなかったから。でも、なんでお母さんの写真があるの?」
 ははは、と祖母が笑った。
「だって、大河内さん……えっと、孝太君だっけ? 彼のお父さんとあんたのお母さん、仲良かったからね。お店の写真は、幸があんたを産んで、初めて尾道に帰って来たときに彼が撮った写真だからじゃないの?」
 (さち)とは風花の母親のことであり、それは寝耳に水ともいえる衝撃の情報だった。
「えっ、あっ、もしかしてその、つ、付き合ってたとか」
 舌を噛んでしまいそうなくらい動揺している。
「実はそうなのよ……、って、嘘よ。さっ、片付けよっと」
 冗談めかして言った祖母は、そそくさと立ち上がった。
 あの言い方、なんかモヤモヤする。怪しい——
 微妙に誤魔化されたような気がしたが、それ以上聞けない。今夜、眠れなかったらおばあちゃんのせいだからね。そう心の中で訴えた風花だった。

 食事の後、勉強をするからと部屋にいく。リュックからかるたの本を取り出して、中堂先輩からもらった決まり字の紙を広げ、宿題より先に決まり字の記憶に取りかかったのだが、さっきの中途半端な匂わせ発言が気になって、気になって。
 そしていつの間にか机に伏せて眠ってしまっていて、気がついた時にはもう夜遅く、暗記も全く捗らなかった。

 ⌘

 目覚ましがなって、睡眠十分でバシッと目が覚めた。時間は午前5時30分。外は少しずつ明るくなり始めていた。
 トレーナーの上下を整理タンスの引き出しから取り出し、着替えてそっと玄関から外へ出て、十分にストレッチをしてから坂道へ向かって軽く走り出した。
 千光寺から文学のこみちまで走ってみようかとも思ったが、途中から山道になるので少し怖い。諦めて、いったん坂をゆっくりと下りることにした。
 線路のところまで下りて、上を見上げて大きく息を吸った。
 ——よしっ
 気合いを入れて、坂道を上に向かって駆け出した。ほんの数歩走り出しただけで、これから足にかかる負荷が想像できるほど絶望的な坂道。
 気合に反比例するように、段々と足取りが重くなる。孝太が、走っていても、歩いてるように見えるかもって言った。私なら、今、間違いなくそうだろう。

 その時だった。風花の背中から、突然足音が軽やかに追いついてきてきたかと思うと一気に風花を追い越し、数歩先でその場で足踏みをしながら振り向いた。
「やっぱりちょっと鈍ってるね」
 孝太はそう言って笑った。


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