遠い記憶
文字数 5,249文字
空の旅を楽しんだみのりは、名残惜しく感じながらも、変身を解いたロダンと自宅に戻っていた。
ふわふわした感覚が、まだ身体中を支配している。
みのりはベッドの上で、うっとりと余韻に浸っていた。
──空飛ぶって、最高だな……
「みのりー! 電話よ」
その余韻も、階下からの母の声でぶち壊しになる。
「尾道のおじいちゃんから。みのりと話したいって」
「えっ⁉︎」
億劫そうに降りていったみのりだが、電話の主を知るや、笑顔になった。
あわてて受話器を取る。
「もしもし! おじいちゃん⁉︎」
受話器からは、大好きな祖父の声が聞こえてきた。
「──みのり? 久しぶりじゃのお。元気にしとったか?」
「うん! 元気だよ。おじいちゃんも元気? うん。私ね、この前学校で──」
リビングでみのりの母に爪を切ってもらっていたロダンは、何やらとても嬉しそうに近況を話しているみのりの声に、耳をそばだてた。
──おじいちゃん……昼間話してたみのりのじいさんか。魔法がどうとか言ってたが。
「ありがとう! 今年の夏休みも遊びに行くから。身体には気をつけてね。──おやすみ、おじいちゃん」
電話を切ったみのりに、ロダンの爪を切り終わった母が声をかける。
「みのりは本当におじいちゃんが好きね」
どうやらみのりは、小さい頃から相当なおじいちゃん子だったらしい。
楽しそうに思い出話をしているみのりたちを横目に、ロダンはふと思い当たった。
──魔法アカデミー時代、エリザベートに授業で教わったことだ。
「強い魔力を帯びた土地では、魔法の発動が格段に楽になります。この学内にも、いくつかそういった場所を設けてあるので、苦手な魔法はそこで練習するのがいいかもしれませんね」
昼間使ってみせた、鳥に変化する魔法。
みのりには格好つけてみたが、自分でない何者かになり続けることは、実際のところ相当難易度の高い魔法だ。
しかも本来の自身の姿よりずっと大きいみのりを乗せて飛ぶとなると、いくら優秀でも所詮は学生上がりのロダンには、どうしても魔力の消費が大きく危険だった。
あえて使ったのは──他でもない。
みのりを喜ばせたい、そう思ったからだ。
──何なんだ、この気持ち。
──変だ。でも、でも……嫌じゃない。
──どうして……
ロダンをまっすぐ見つめ、
あのときの彼女の顔を思い出すと、不可解な気分になる。
本当に誰かのために魔法を使いたいと思ったことなんて、生まれて初めてだった。
そして、魔法を心から「楽しい」と思ったことも……
ロダンには、もうひとつ引っかかることがあった。
あのとき拍子抜けするくらいスムーズに魔法が発動し、魔力を大量に消費した実感もなかったことだ。
カペラ王国の擬似空間を作ったときは本当に疲れて、昼まで寝てしまったほどだったのに──
ひとつの仮説が思い浮かぶ。
あの丘に、本当に魔法がかけられていたとしたら……?
──みのりのじいさんとやら……一度見てみてもいいかもな。
夏休みまで、あと一月だった。
* * *
「おじいちゃーん。まだー?」
息を切らすみのりを見て、おじいちゃんは大笑いした。
「ははは、若いんじゃけぇしっかりせえ。じいちゃんのがまだ元気で!」
天気のいい、初夏のある日。
みのりはおじいちゃんとふたり、坂道を上っていた。
これから素敵なところに連れていってくれるのだという。
みのりは、優しくてかっこいいおじいちゃんが大好きだった。
学校でつらいことがあっても、お母さんに怒られても、おじいちゃんはいつもみのりの味方でいてくれた。
そんなおじいちゃんが、突然遠くの尾道に引っ越すことになってしまう。
「やだ! わたしもおじいちゃんといっしょに行く!」
「みのり、いい加減にしなさい! おじいちゃんが困るでしょ!」
おじいちゃんとの別れを嫌がって大泣きするみのりに、怒るお母さん。
そんなみのりに、おじいちゃんは笑って言った。
「みのり、明日はじいちゃんと弁当作って、ピクニックに行こう。みのりはあの卵焼き、作ってくれんか?」
「うん……」
「みのりの卵焼きは、世界一うまいけえのお」
若い頃料理屋さんで働いていたおじいちゃん。
そんなおじいちゃんが、いつかみのりが初めて作った卵焼きを喜んで食べてくれたのが、とてもうれしかった。
おじいちゃんが持っているバスケットの中には、ふたりで作ったお弁当。
何度こうやって、おじいちゃんとお弁当を持って出かけたんだろう。
それももうすぐ、できなくなってしまうのかな……
また泣きそうになっているみのりに気づいたおじいちゃんが、足を止めてみのりの手を取った。
「泣くなや、みのり。何ももう会えんようになるわけじゃない。尾道なんか、車で一時間もあれば来れるじゃろ」
「おじいちゃん……」
「ほら、もう着くで」
森のように木々が生い茂るトンネルを抜けると、一気に視界が開けた。
「うわあ」
息を飲むみのり。そこは海の見渡せる丘だった。
海上に並び立つ赤と白の灯台。
その間を、フェリーが悠々と走っている。水平線の彼方には、たくさんの島が見えた。
「ほんとに、すてきなところ」
「ええ眺めじゃ。広島港もよう見えるわ」
おじいちゃんは海を見つめて、寂しげな顔をした。
が、一瞬あとには、いつもの明るい顔に戻っていた。
「さあ、みのり。腹減ったじゃろ。一緒に作った弁当、食おう。絶対うまいけぇ」
みのりとおじいちゃんは、木でできた休憩用ベンチに座り、テーブルの上にランチボックスを広げた。
鮭と昆布が入ったおにぎり、唐揚げ、ポテトサラダ……そしてみのりが作った、ちょっと焦げた卵焼き。
「いただきます」
ふたりで手を合わせる。
おにぎりを頬張ったみのりは、満面の笑みを浮かべた。
「おいしい!」
やっぱりおじいちゃんの作るごはんは、最高においしい。
みのりは唐揚げも、ポテトサラダも、夢中になって食べた。
「みのりの作った卵焼きも、うまいのぉ」
おじいちゃんも、ニコニコしながらお弁当を食べている。
「そうかなあ……こげちゃったよ」
「十分じゃ。じいちゃんには、最高のごちそうよ」
たくさん歩いてふたりともお腹が空いていたから、お弁当の中身はあっという間に空になってしまった。
ごちそうさま、を言って片付けたあと、おじいちゃんは遠くの海に目をやりながら、ぽつりと口にした。
「ここは、じいちゃんの思い出の場所。いつか、みのりにも見せてやりたかったんじゃ。この丘から見る景色を」
おじいちゃんはこっちを向くと、かがんで目線をみのりに合わせた。
「ええかみのり、これは、じいちゃんとみのりだけの秘密じゃ。誰にも言ったらいけんで。この丘は、魔法の丘なんじゃ」
「魔法の丘……?」
みのりは首を傾げる。
「そう、魔法の丘よ。これから大きくなって、もしつらいことや苦しいことがあったら、ここに来るとええ。きっと、みのりの力になってくれるけえの」
「おじいちゃん……」
その言葉に、おじいちゃんが遠くに行ってしまうのだという事実を改めて実感させられる。
また涙が出そうになったが、みのりは懸命にこらえた。
「うん。約束する。誰にもいわないよ。だから毎年夏休みには、会いにいってもいいでしょ?」
「もちろん。待っとるよ。……それから、これを」
おじいちゃんはみのりの手を取って、小さな箱を持たせる。
開けてみんさい、と促され中を見たみのりは、目をみはった。
「これ、おばあちゃんの……」
中に入っていたのは、古びているが綺麗なペンダントだった。
縁が黄金色で、何だか不思議な模様が刻まれている。
みのりが生まれる前に亡くなった、おばあちゃんの形見のペンダントと聞かされていたものだ。
おじいちゃんの家に遊びに行くたびに、みのりはこのペンダントをほしがっては、お母さんに怒られていた。
「みのりがほしいんなら、持っといたらええ。きっと、ばあちゃんも喜ぶわ。みのりは、ばあちゃんにそっくりじゃけえの」
「ありがとう。大切にするね。大好きだよ、おじいちゃん……」
ペンダントを握りしめたみのりは、やっぱりこらえきれずに泣いてしまい、思わずおじいちゃんにしがみついた。
おじいちゃんが黙って頭をなでてくれる。
優しい海風が、ふたりのそばを吹き抜けていった。
* * *
──ごめん、おじいちゃん。私、誰にも言わないって約束したのに、ロダンに言っちゃった。
開け放した窓から、むっとするような夏の空気が入ってくる。
スマホの通知音で目を覚ましたみのりが最初にしたのは、祖父への
うたた寝している間に、祖父がまだ広島にいた頃の──初めて、あの丘に連れていってもらったときの夢を見ていたようだ。
あれは、みのりがいくつの頃だっただろう。
あれから何年も経ったが、高校生になった今も、みのりがおじいちゃん子なのは変わらないままだった。
寝起きのぼんやりした頭で、スマホの新着メッセージを開いてみる。
──明日学校に行ったら、やっと夏休みだね! みのりちゃんは、なんか予定ある? 暇だったら一緒にどこか遊びにいこうね。
はじける笑顔と、夏休みへの期待が伝わってくる文面。
メッセージの送り主は、最近知り合ったA組の女子生徒だった。
よく話す相手といえば真帆や翼くらいしかいなかったみのりに、久しぶりにできた新しい友達だ。
仲良くなったのは、あのクラスマッチから。みのりの活躍を見て、彼女が声をかけてきたことがきっかけだ。
みのりと同じように運動が苦手で、人見知りな彼女は、真帆とはまた違った意味で気持ちを共有できる相手だった。
あれから──小さいけれど、良い変化が続いている。
刺々しかったマナミたちとも、徐々にではあるが話せるようになったし、学校に行くのが少し楽しくなった。
夏休みに入ってしまうのが、惜しいくらいだ。
──みのりが頑張ってるから、俺も頑張ってみるよ。
真帆に想いを伝えることに躊躇していた翼も、みのりの姿に背中を押されたといって、前に進む決意を固めたようだ。それがみのりはとても嬉しかった。
そして何よりも……
「なあみのり、今日の晩飯、焼肉なんだってよ。母さんたちが話してるの聞いたぜ。オレも食えるんだよな」
開いたドアから、ロダンが姿を見せた。
とても期待しているらしく、その瞳は水色に輝いている。喜びの色だ。
確かに階下から肉の焼けるいい匂いが漂ってきて、みのりはとたんに空腹を感じた。
「ロダンも食べていいけど、玉ねぎだけはダメだよ、今日は。本物の猫には危険な食べ物なんだから。あと美味しくても、目の色変えないでね。みんなびっくりしちゃう」
彼が猫ではない生物なのはわかっているが、一応注意してみる。
人間の食べ物に味をしめたロダンは最近いろんなものに興味を示し始め、みのりの母を困らせていた。
「ちぇっ、玉ねぎうまいのに。だいたいオレは猫じゃねーんだし、何でも食えるんだよ」
ロダンは耳を伏せて、残念がった。
「ダメ! そもそも自分から猫になりきったんだから、ちゃんと設定を守ってよね」
あの空の旅以降、ロダンとみのりの関係は目に見えて変化した。
今まではどこか硬い態度で心を開いてくれなかった彼は、自身の弱さを打ち明けてから吹っ切れたのか、よくしゃべり笑うようになった。
もう、必要以上に可愛い飼い猫を演じることもしなくなり、素のままで振舞っているようだ。
みのりもつい気を抜いてしまい、家族に怪しまれたことも一度や二度ではない。
ふたりで何か新しいことをするたび、知らない景色や美味しいものに目を輝かせるロダンが可愛くて、みのりも幸せに思うのだった。
──エーテルハートが手に入ったら……
──ロダンともお別れになっちゃうのかな。
──もっと一緒にいたいのに。
──もっといろんなものを見せてあげたいのに……
ふとそう思うことがあったが、ロダンはここ最近エーテルハートのことを口にする回数が減っている気がするし、いつしかみのりも彼がここに来た理由を忘れつつあった。
「みのりー、肉焼けてるぞ。寝てたら食っちまうからなー」
「早く来いよ、みのり。うまいぞー」
階下から兄や父の声がする。
「焼肉!」
舌なめずりして飛び出していくロダンを苦笑しながら見ていたみのりは、ふとさっきの夢を思い出して、はっとした。
ドレッサーの上のアクセサリーケースを開けてみる。中には、金色のペンダントがあった。
あの丘の上で祖父に渡された、亡くなった祖母が大切にしていたものだ。
ふと、ある可能性に思い当たる。
──まさかね。エーテルハートは宝石だってロダンは言ってたもん。それに、こんな近くにあるのにロダンが気づかないなんて。
一瞬考え込んだみのりだったが、このペンダントはどう見ても宝石には見えない。
浮かんだその可能性を頭を振って打ち消し、みんなの待つダイニングに降りていった。