第8話 都合のいい人

文字数 1,466文字

優和(ゆな)のスマホが鳴る。


正人「送る相手、間違っている」


優和は表情を変えることなくスマホを閉じた。
ぷくぷく。
鍋に入れた水から泡が出ている。
その泡がだんだん多くなっていく。
ぷくぷくぷくぷく。



私は母親だ。


優和は自分に言い聞かせた。
ぷくぷくぷくぷくぷく。
鍋の火を止めた。


大丈夫。


インスタントコーヒーの粉をコップに入れ、鍋のお湯を入れる。
大きく深呼吸をした。
優和はコップに入ったコーヒーを見た。
コーヒーの表面に優和が映っている。
真っ黒いコーヒーの表面に映る優和は無表情だ。


もう大丈夫だ。



優和はいつも通りの自分をそこに確かめると、ほっと息を撫でおろした。
スマホを開くと、さっき届いた正人のメッセージを消した。
そしていつも通り優和はなるべく都合のいいように考えた。
優和は自分に言い聞かせた。
正人と離婚したのは、義母のせい、そして子どものため。
それはいつも優和が誰かに離婚の理由を話さなければならない場面に出会った時に伝える言葉だった。
それは時に自分に言い聞かせる言葉にもなった。
そう考えることが、自分を守るために必要だったのだ。
不倫でできた子どもを認知してもらえず、その相手が産んだら戻ってきてくれると信じていたことはなかったことになっていた。
子どもが欲しかった正人の気持ちを利用して、言い寄ったことすら、優和にしてはもうどうでもよかった。
生きるために考えることをやめた。
子どもが生まれた瞬間、優和は母親になった。
子どもが何不自由なく、生活していけるならば、手段は選ばなかった。
誰になんと言われてもいい。
どう思われようが関係ない。
そう思っていた。
それなのに。
思い出したように、優和はスマホを開き、自分が送った「会いたい」のメッセージも消した。
優和は正人からの連絡に傷ついている自分に動揺していた。




正人は思っていた通りのいい人だった。
優和にとってこれ以上に都合のいい人はいなかった。
優和との結婚を義母から猛烈に反対されていたが、正人は優和の子どもの新しい父親になることを選んでくれた。
正人との結婚の目的はお金ではなかった。
お金はその不倫相手から手切れ金として十分な額をもらっていた。
確かに、今後子どもにかかる学費を考えたら、いずれはもっとお金が必要だった。
でも今すぐお金に困っているというわけではなかった。
だから優和にとって正人との結婚はお金が目的ではなかった。
優和が正人と結婚したかったのは世間体のせいだと思っていた。
父親がいない子どもだと思われてほしくない。



でも本当はそうではなかった。
優和は心の支えを必要としていた。
母親になって強くなったと思っていたが、子どもが大事な分、それ以上に臆病になっていた。

でも誰でもいいわけではなかった。
優和は、正人と出会った時から正人が心が優しい人だと知っていた。
優和の人を見る目は確かだった。
正人と出会い、自分以外の誰か別の人と、子どもの成長を共有し、喜びたかったことに気づいた。
優和にとって正人は自分が安心できる場所となった。
次第に優和は正人を失うのを恐れるようになった。
優和は、正人を愛していたのだ。


子どもが寝返りを打った。
子どもの方を見る。
優和は人を愛することを恐れていた。
自分の全てを知ってもなお、自分のことを愛してくれる人などいるはずないと知っていたからだった。
これ以上、望んではいけない。
優和は自分を言い聞かせた。
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