七話

文字数 4,829文字

肩を揺らされる感覚を覚え、うっすら目を開ける。ステーションの自席にいた。いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。
「先輩。起きました? 自分、帰りますね?」
声の主はライだった。甘い香りのするペーパーカップを片手に、こちらを見下ろしている。
「んー。今何時?」
「十九時三十五分です」
「んあっ!」
人は極度に焦ると語彙力が低下するらしい。
一気に眠気を吹き飛ばし、荷物をまとめてエレベーターへと駆けつける。
「ちょっと先輩! 捜査資料出しっぱなし!」
「すまん頼むー!」
閉じかけの扉の間から、不服の視線が突き刺さる。明日朝のお説教を覚悟しつつ、慌ててスマホを手に取った。
「もしもしタクト? ごめん。今向かってる」
『了解。何時頃着きそう?』
「んー。八時までには着けると思う」
『そう。じゃあこのまま近くで暇つぶししてる。近くまで来たらワン切りして。先に入って席取っておくから』
じゃ、と言い残しあっけなく電話が切れる。イラだった感じはなく、声の調子から察するにタクトは通常モードだった。七時半に時間指定したのはこちらなのに、寝落ちで遅刻するとは不甲斐ない。

借用中の捜査車両に急いで飛び乗り、向かうは近所のファミレス。運よく渋滞にも信号にも捕まることなく、スムーズに到着した。早足で店内に入ると、手を振りこちらに合図するタクトが見えた。

「遅れてごめん」
メニューを開いて差し出すものの、興味なさそうなご様子。暇つぶしの店で食べて来たのだろうか。
「何食べる?」
「俺はもう決まってる」
「マジか。ちょっと待って、俺もすぐ選ぶから」
「焦らずゆっくり選べばいいよ。兄貴の奢りだし」
「なんでそうなる?」
「ご馳走様です」

まあいいけど、と軽くあしらいつつ、適当に今の食欲に合うものを見繕った。
オーダーを済ませ、二人してドリンクバーへ。予想通り、メロンソーダのボタンを押す弟。隣で烏龍茶を注ぎながら、何故だか嬉しくなった。

席に戻り、一気に広がる脱力感。ネクタイのノットに手をかけると、タクトの視線がそれを捉えた。そして一部始終を見守られながら首元を解放。
興味を持った対象は人目を気にせず観察するタクトの癖がここに健在。

ジャケットを脱ぎつつ、今更何に興味を持ったのか聞いてみることに。
「なに?」
「ネクタイって、誰でも男らしく見せられるアイテムなんだなと思って」
「……褒めてる? それとも貶したい?」
「どちらでもない。事実を述べただけ。ほら、ネクタイ緩める姿って、女性からしたらカッコよく見えるらしいじゃん。どうなのかなって。俺は普段ネクタイしないから、緩め方すら知らないけど」
「そうかよ」
「で? どうしたの急に呼び出して?」
「最近、お互い忙しくて会ってなかったろ。たまには一緒に食事もいいかと思ってさ」
「なに言ってんの。単純に会いたいからって理由で呼び出すような柄じゃないよね。自覚ないの?」
彼は鋭くそう言った。
「はいはい、そうですね。適当言ってすいませんね」
俺は努めて冷静に、世間話と同じ口調で聞いてみた。
「最近フレイアとはうまくいってるのか?」
「まあね」
「そうか。よかった」

ここからが正念場。捜査官(ガーディアン)として腕の見せ所。目的を悟られずに、器用に情報を引き出すのだ。頑張れ、俺。

気合は十分、技量不十分。
どう切り込むべきか、上手く思考がまとまらず沈黙が流れた。烏龍茶をすすりながら何となしに天井を仰いでいると、目の前で笑いが弾けた。

「何か変か?」
「兄貴はさ、行き詰まるとそうやって上を向きがちだよね。わかりやす過ぎ」
ツボにはまったらしく、変わらないねと楽しそうにこぼす君。お前のツボの広さも相変わらずだな。

「兄貴、俺言ったよね。兄貴がフレイアに言った事は全部忘れるって。許すって。
「そうだったな」
「だから遠慮とか、そういうお節介いらないから」
「……タクトは優しいな」


あれは五年前。
厳戒態勢が敷かれ人影のいない街中。そこに彷徨う獣人が独り。突如として能力異常をきたし猛毒の鱗粉を振りまく翅を揺らしていた。
その瞳には生気がなかった。
それもそのはず。獣能力のコントロール機能を失っては、本人の意思と関係なく、近づくものは例外なく敵と見なされる。救いの手を差し伸べようとした家族も、友も、名も知らぬ他人も。

殺意も悪意もない殺人者は、蛾の獣人だった。

事件後、用事があって弟のアパートに出向いた時。すぐに帰る予定だった。しかし当時の俺は浅はかで、偏屈だった。何故か去り際の玄関で、フレイアの感情を過度に刺激しないようにと伝えた。軽いアドバイスのつもりだった。誰も傷つける意図はなかった。彼女は人前で翅を広げないし、感情に任せて獣能力を発動させる人でもないと、分かりきっていたのに。

「自分で何言ってるか分かってる? 彼女を、俺のパートナーを信じられないのか。最低だな。どんな犯人だか知らないけど、いいや、知りたくもないけど、そいつとフレイアを同じにするな」
「俺は」
謝罪を口にする暇も与えてはくれなかった。当然だった。
「もう出ていけよ!」
「ちょっと」
「黙れ! お前の顔なんか二度と見たくない!!」
初めて、タクトにお前と呼ばれ、己の犯した過ちの重さに気づいた。

そのまま力ずくで玄関の外に押し出された。あまりの勢いに体が傾きかけた瞬間、誰かが背中を支えてくれた。フレイアだった。たまたまタクトと会う約束をしていた彼女は、俺たち兄弟のやりとりを全て聞いていた。

俺は言葉を失くした。
そんな俺に、彼女は気丈に笑って言った。
「優しいのね」


そこで別れて以降、先日の邂逅まで、彼女を避けていた。合わせる顔がなかった。会う理由がなかった。そして何より怖かった。俺がいくら固辞しようと、過ちごと俺を受け入れようとするんじゃないかって。そんな優しさ、俺に受け取る資格などない。
あの日の過ちは、このままあるべき(もの)として、そこに在り続ければいい。


「兄貴? 食べないの?」
過去に呼び戻されている間に注文した料理がテーブルに並んでいた。タクトはチーズインハンバーグ定食を食べ進めている。俺も慌ててフォークを手に取り、海藻サラダを口にする。
「兄貴さあ。サラダと唐揚げの組み合わせなんて、ボディービルダーにでも転向するつもり?」
「いや。あまり腹減ってないだけ」
「ふうん」
タクトはため息まじりに行った。
「いい? 兄貴は絶対実家を出ちゃダメだからな。こんなんで一人暮らしなんてしようもんなら、すぐ痩せ細るから」
「逆に太ると思うけど?」
唐揚げを頬張りつつ反論してみる。
「いいや、それはないね。仕事に集中すると食事抜く傾向あるし、適当に食べるし。食に関心なさ過ぎなんだよ」
「それは、その、ぐうの音も出ないな」
「自覚あるなら良し」

これぞ兄弟。たわいない話も楽しい。
だが、俺の目的はこれではないはずだ。踏み込む勇気を出そうとすればするほど、俺の心は曇ってゆく。この捜査は、タクトを追い込むことになりかねない。

「兄貴、そんなにフレイアのこと気になるんだ」
「ん?」
隠すつもりのない嘆息が聞こえた。
「何年カイトの弟やってると思ってるのさ」
彼はおしぼりで手を拭い、スマホをいじり始めた。
「前回会ったのは先月の十四日。三週間くらい前だね。医者の付き添いして、そのまま俺ん家でゆっくりしてた。その後もやり取りはしてる。この前の土曜に旅行の予定立ててた。その証拠、要る? それとも、今ここで電話掛けようか?」
こちらに向けられたスマホ画面にはメッセージアプリが起動されているが、覗き見せずに視線を外した。
「いや、いい。ありがとな」
スマホをしまい、食事を再開するタクト。
「最初から素直に言えばいいのに。ややこしい生き方するね」
「そうだな」
「今のは反論するとこだよ」
「そうか。ああ、そうだ。忘れないうちに、トオルからの伝言を伝えておく」
「トオルから? 何て?」
「Cメソッドの研究、頑張れってさ」
「なるほどね。その応援、ありがたく受け取っておく。ちょうど新薬が治験の最終段階に来てるから、近いうちに進展があるはずだよ」

食事を終えた後も、なんだかんだと溜まった四方山話が止まらなくなり、気づけば十時を回っていた。会計を済ませ外に出れば、冷えた夜風が通り過ぎていく。
「タクト。家まで送ろうか」
「うん。あれ? 愛車はどうしたの? 事故った?」
「いや。傷の修理中」

車に乗り込み、一段と交通量の減った車道を進む。カーオーディオを搭載していない捜査車両。車内は沈黙。気まずくはないが、なんとなしに窓を開けてみた。微かに、鈴虫の声が聞こえる。

「兄貴」
「うん」
「フレイアは、何かの事件に巻き込まれてるの?」
「断定はできない」
「そう。どういう状況かは知らないけれど、ひとつ聞いていい?」
「いいけど、答えられる範囲でしか答えないぞ」
「構わないよ。あのさ。もしもフレイアが犯人に加担していたら、迷わず手錠を掛けられる?」
「証拠が有ればな。それが仕事だ。相手が誰であろうと関係ない」
「じゃあ、それが俺でも?」
「はあ? 変なこと言ってるとここで降ろすぞ」
「変じゃないよ。全然変じゃない」
その表情は見えないが、それはまさしく本気の声音。
しばらくの間を置いて、タクトは言葉を続けた。
「兄貴は矛盾してる」
「何処が?」
「フレイアは迷わず逮捕できても、俺相手だと悩むんでしょう。何なら、その様子だと見逃しかねない。なんで? 仕事なんでしょう? もし二人並んで、血の滴るナイフを握りしめて被害者の前に立っていたとしたら。二人とも同等に、犯罪者に見えるだろ?」
「そうだけど」
「けど、じゃないよ。石頭」
刹那、シートベルトを外す音に不安がよぎる。
「待て待て!」
左手で静止させようにも、彼の動きは止まらない。ドアノブに伸びるその手を必死に阻む。
「ここで降りる」
「悪かったよ謝るから降りるな危ない!」
「危なくないよ。止まってるじゃん」
「よく聞けタクト。信号待ちは駐車じゃない。一時停止と言うんだ」
「いちいちうるさいなあ。降りるったら降りる!」
こうなったら梃子でも動かない。不安通り、一瞬の隙を狙い下車していった。
ヘッドライトを背に受けて、ひたすら歩道を突き進む。予想通り、振り向くことはなかった。

だが、彼は気づいているのだろうか。
時速五十キロで走る車という乗り物なら、目的地への先回りが可能なことに。



勢いで降りてしまったけれど、居心地の悪さが拭いきれない。兄はもう、隣に居ないのに。メッセージしようかとも思ったけれど、適当な言葉が浮かばず、スマホの画面を見つめたまま指が動かない。

我ながら、子どもっぽい振る舞いをしたこと、反省してる。
あれは兄貴の優しさが出した答えだ。そんなこと分かりきってる。
でも、納得できなかった。俺は大人だ。弟だけど、大人だ。
兄貴と正面から向き合っているようで、傷つけまいと守られている感触が歯痒かったんだ。

アパートの駐車場には見覚えのある車が駐車していた。だけどまだ、掛ける言葉は見つからない。かと言って、近所のコンビニへ逃げるのも、こちらから謝りに行くも、何か違う気がした。
ふと、カーウィンドウが動く音がした。無音で伸び出た右手は、茶色い小さな紙袋を差し出している。受け取れ、ということだろう。大人しく従うことにする。

俺は自分が自覚している以上に臆病らしい。彼の視線を受け止めずに済むよう、真横ではなく一歩手前で足を止め、腕を伸ばして荷物を受け取った。
紙袋には見覚えのあるロゴ。引き寄せれば立ち上る甘いバターの香り。お礼を代弁する香り。
「マチダ屋のクリームパン。好きだろ?」
こちらの答えは求めていないようだ。バックライトの赤が輝く。ヘッドライトの白がそれに続いた。だけど、勝手に帰さないよ。
「カイト」
こちらを見上げる表情は、相変わらず穏やかで、優しい。
「ありがとう。気をつけて」
「ああ。タクトも、遅くまでありがとうな」

俺は大人だ。大人だけど、カイトの家族だ。
遠く、その姿が見えなくなるまで、兄の背中を見送った。

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