東へ

文字数 6,360文字

 岩根神社の大岩の裏手、自身を「吾(あ)」と呼ぶ姫の告白――。
「吾は東へ向かわねばならぬのじゃ。行きとう無い。行きとう無いに決まっておる。吾は捨て子じゃ。忌子じゃ。幼い吾を波子の浦で拾ってくれた爺婆に世話になり、齢十三で東から、狼煙の上がる神の知らせは、出雲の国から赦しと贖罪。吾は行かねばならぬ。十羅を切り捨て、ムクリ、コクリをあの世に送り返さんと吾はいざ行かねばならぬ。ああ、追ってくれるな爺婆や。吾はいと心苦しや。箱舟の柏の葉を後生大事に思えばこその我儘と、追ってくれるな爺と婆。吾は隠れるしかないではないか、大岩の裏手には蜘蛛が巣食う。見つけてくれるな、決して見つけてくれるな、諦めてくれ。吾は神の子、行かねばならぬ。おお、あそこに聞こうるは鬼の声。あそこに見えるは爺と婆。追ってきたのじゃ、探しに来たのじゃ。岩の陰には光は射さぬ。ああ、隠れとう無い、隠れとう無い。今すぐ姿を現して、また箸を取り換えてはくれぬか。爺、世話になった。婆、仕合せを常に思う。ああ、見失う。吾は東へ、どこまで行くのじゃ爺と婆、吾は此処じゃ。ならぬ、ならぬが会いたい、ああ、忌々しい血と骨よ。爺と婆では辿り着かぬが東は遠い。山手に行くな、吾はここじゃ。吾は此処なのじゃ。ああ、愛しき爺と婆、さらばじゃ。また逢う日まで吾を思うて下され――。」
 
 遠くから地響きのように低く呻る波の音が聞こえてくると、すぐそこまで海が押し寄せている錯覚にとらわれて、幼い頃の癖であった寝小便はこの喧しい呻りのせいではなかったのかと思う程、久しい田舎の夜中は穏やかで騒々しく、また怖かった。
 都会での不規則な生活で寝つけなかった私は、布団の中で潮風の運ぶ海の残響を耳にしながら目を閉じていた。特に酔っていては、尚更自然が囃し立てるように虫と蛙が儀式を始める。きっと闇の儀式で、周りに悪霊を引き寄せているに違いない。風の音はその声だ。その中で、私は先ほどの酒の場での話を反芻し、反省していた。怖い話なんかしなけりゃよかったと。
「まだ夢を追ってるお前は大したもんだ」とAが大人ぶった反面、その裏にある嫉妬とそれを受け入れられない幼稚な口調が鼻につく。
「ほんとに仕事めんどくせーよ、この前さ、上司にまじで意味分かんない事で怒られてさ」とBが責任の重さを軽々しくアルバイト感覚で受け入れているのが癪に障る。
 私は大学を卒業してフリーターになり、親に迷惑かけながら田舎から離れた土地で時間を空費していた。お天道様は許しても、世間の目はあまり良く見てはくれなかった。
「なあ、ところで」と私は話を遮る。私にとっていくら旧友でも社会人としての話はあまりに不毛であった。確かにBはかなり禿げかけている。
「なんか怖い話でもしよや」
 ああ、これがいけなかった。
「昔さ、畳ヶ浦に肝試しに行ったときにさ……」
「中学校の体育館で急に倒れた女のこと覚えているか?」
「夜中に高校のプールに忍び込んだ時さ、実は……」
 怖くて嫌なはずなのに、人は不思議と惹かれてしまう。矛盾はいつも生きる実感を与えてくれるからかも知れない。
「お前はなんかないんか」
 酒がまわると口もよくまわる。
「怖くはないけど、昔ホタル見たで」
「は?」Aが鼻を広げて顔を上げた。
「ちょうど江の川祭りの日でさ、親と温泉に行くって、川沿いを車で上っててん。そしたらちょうどチカチカと何かが光っててさ。ちょうど今ぐらいの時期だったな。蛍にしてはかなり遅いだろ? 車降りてよく見たら、やっぱり蛍でさ。弱々しく、ふわふわと。暫く眺めてたら徐々に近づいてきて、――俺の指先にとまったんだ。今にも砂に還りそうなほど軽く、優しく止まったんよ」たしか中学生の頃だった。
「お婆ちゃんがついちょるから、頑張ってみんちゃい」人一倍臆病だった幼い私に対する祖母の口癖だった。
「んで?」Bが顎をしゃくった。
「ああ、それだけ。でも、その後に思い出したんだけど、ちょうどその日はお祖母ちゃんの月命日でさ」それだけを口にした。
 私は出雲に住む祖母を好いていた。祖母も私を好いていたと思う。
「ふーん。てかさ、今思い出したんだけど、お前小学校の祭の時のこと覚えてるか?」
「……第一次ロケット花火世界大戦?」私は頭の中で小四の時に起きたロケット花火事件の事を思い出し、一人で笑っていた。(余りにくだらない事件の為、詳細は割愛)
「違わーや、ほれ、小学六年のときだったかな、祭りの日に皆でかくれんぼしたの覚えてないか? あん時、お前が最後まで見つからんくて大変じゃったんだからな。見つかった後も女の子と一緒におったとか訳の分からんことを言うし」
 Aは大分酔ってきたのか、段々と訛ってきていた。
「覚えとらんのか? まあええがのう。それにしても俺たちも気が付けば二十五歳だ。あん時はアホみたいによく遊んだもんだ。懐かしいの」
「気がつけば卒業、就職、結婚、そして家族が増える。時間はあっちゅうまだな」
 AとBがしみじみと感傷に浸りだして、私はそろそろ帰宅の時間かなと考えながら、ぼんやりと祭りの事を考えていた。
「よし、ほいだら明日江の川祭りでも行かんか? どうせみんなお盆で暇じゃろ?」
 そこから先の事はあまり覚えていないし、思い出したくもない。嫌だね、全く酔っ払いはと、どこぞの落語に出てきそうな口調でぼやいて、私は未だに布団の中で夜の恐怖を払拭しようと、また昔の事を考えだした。
「覚えとらんのか?」
 違う、覚えているよ。ただ私は大人になってしまったのだ。
 秋月は美しくもあり、寂しくもあり。祭囃子は神楽の調子。笛鳴る鬼出る御神楽の、太鼓の響きが土地の習わし。
 江津市嘉久志町の岩根神社では秋祭の恒例で夜通し神楽を上演し、狭い地域ではあるがそれなりの活気を見せていた。
 私は祖母が入院したのと知らせを心の裏に押し込めて祭りに望んだ。それが最後の祭りだと、幼心で大人になっていく自分への不安と焦燥の裏返しか、小学六年の肌寒い夜だった。
 神楽の笛の音、それを取り巻く大人の匂いと闇に浮かぶ出店の妖気な灯り、芳しい焦げたソースの香りと赤く濁ったちゃちな玩具屋。お小遣いの五百円を手の中に、普段なら外に出られない夜の中、友達と野外を徘徊する背徳感と浮遊感で私は夢の中にいる気分だった。
 そんな中、誰かが言った。かくれんぼしよや。
 神社を中心に光はくすむ。赤から黄色、緑、青に紺、そして黒。球状にかつ闇は永遠に広がって、子供心を尚更くすぐった。
 私は鬼の数える声を後ろに、友達と結託して大人の垣根を我が物顔で掻き分けると、ふいに何を思ったのか、私は神社の石段を一人で駆け下りていった。鳥居を潜り抜けたその先に、住宅街にも関わらず、妙にこじんまりとした岩があった。こじんまりとは言うもののその存在感は巨大な熊を彷彿とさせた。岩の前には説明文らしき立て看板と、周りにはしめ縄が巻かれてあった。インスピレーション。私は顔に張られた蜘蛛の巣を払いのけると、一人で岩の裏に身を隠した。
 お前、そんなところに隠れるなんてずっこいわ、と友達に笑われる空想にふけっていた時、ふいに夜空を見上げると、星がチカチカと、気持ちが悪くなる程降ってきた。神楽の音が急に止んだのを今でも覚えている。
「ねえ、私もここに隠れていいかな」
「しい、いいけど静かに隠れてな。ばれるじゃんか」
 果たして気がつけば見知らぬ少女と二人で大岩に隠れていたのだった。
「ねえ、ところで君、さっきまで一緒にいたっけ? 同じ小学校?」
「私は田(た)心(ごり)っていうの。学校は行っていないの。ねえ、私も仲間に入れて?」
 私はまあ別にいいけど、と素っ気なく言うと、彼女の姿をもう一度、目を合わさないように眺めてみた。ミドリの香りが春を連想させ、胸の鼓動が高鳴った。
 今思えば、どうして不思議に思わなかったのか、同い年ぐらいだろうか、顔はまだ幼いが目鼻立ちはすっきりと整っており、正直な感想は美しい、だ。形容するなら大和撫子、小町、名花、どれもがぴったりと来る和の美少女。黒髪は腰まで長く、途中で一つに結わえてあった。少し不思議だったのが祖母のお古を着て来たのだろうか、時代を感じる浴衣の上に、背中には玩具屋で買ったのだろう、弓矢を背負っていた。足は細く太ももが少しチラつく。草履は頑丈そうな目の前のしめ縄みたいな作りだ。
 彼女がちらとこっちを見るもんだから、私は照れ臭くなり、顔をそむけて、
「かくれんぼなんて、所詮子供のあそびだな」とか言ってみたりした。私の精一杯の背伸びだった。そういえば名前を言うのも忘れていた。
「一体、何から隠れているの?」
 彼女が言った。
「何って、鬼からだよ。君もそうでしょ?」
 私は言った。胸の鼓動が止まらない。
「君じゃなくて田心よ。私は隠れたくて隠れている訳じゃないの。……仕方ないの」
 目が合った。
「ん? あ……、かくれんぼ、嫌い?」
 私はアホだった。愚かで、幼すぎた。彼女の目の奥にあった悲しみを分からなかったのだ。
「嫌いよ。隠れたくないもの。でも鬼のせいだわ」
「鬼に見つかったら捕まっちゃうもんね」
「違うわ、私は鬼を探しているの。隠れているのは、爺婆からよ」
 彼女は家出しているのかな? と思ったが、彼女は続けて言った。
「ねえ、鬼ってなんだと思う? 本当に鬼っているの?」
「だって、じゃんけんで決めたんじゃん」
「違うよ。本当の鬼は、……心の中にいるんだよ」
 祭りの笛の音が遠くから聞こえた。
「お願いがあるの」
 彼女は柏の葉を一枚取り出して、
「この葉を船に見立てて、江の川から流してくれない?」
 私はきょとんとしながら、受け取った。
「ありがとう。実は私、もうずーっと隠れているの。これでやっと、家に帰れる。あなたはいつまで隠れるの? 大切な人が、東で待ってるでしょ。私には分かるの。私も同じだから……」
 私には意味が分からなかったが、なぜか心の奥がチクリとした。
 東?
「あなたには気づいてほしいの。私と同じように悲しまないでほしいから」
 ああ、そうだ。私はあの時、彼女の話を聞いて、悲しくなったのを思い出した。夜空には星がさんさんと輝いていて、あまりにも綺麗なもんだから、本当に大切なことが何かを思い出したんだ。でも、あまりにも美しすぎて、私はただ上を見上げることしか出来なかったんだ。
 汗がじわりと頬をつたう。柏の葉をポケットにしまおうとした時、五百円玉が金属音を立て地面に落ちた。その瞬間、彼女が砕け散った様な気がして、私はパッと顔を上げた。
 しかし彼女はただそこにいて、ただ笑っていたんだ。
 太鼓の音が調子づく。
 友達の声が近づいてきた。
「……ねえ、また会える? 君はどこから来たの?」
 不思議なことに周りの音が近づくにつれ、彼女が薄くなっていく気がした。
「吾は田心。忘れないで」
 闇がくすむ。
 気がつくと、目の前にはAが顔を真っ赤にして立っていた。私は岩に腰掛けており、Aを見上げていた。
「お前、こんなとこにいたんか。早く目を覚ませよ。みんな心配してるぞ」
 どうやら私は眠っていたようだった。アレ、なんだ、さっきのは夢だったんかな、と思いながら、私は何もなかったかのようにAの後ろについて歩き出した。ふと後ろを振り返ると、声が聞こえたような気がした。
「            」
 なんて言ったのかは、聞き取れなかったが、確かに聞いたと思う。ふいに涙が溢れ出して、恥ずかしながら私は声をあげて泣いてしまった。
 次の日の朝、あれは夢かと思っていたら、枕元に一枚の柏の葉があった。――夢じゃなかったんだ。
 その翌年、祖母が亡くなった。私は祖母を好いていたにも関わらず、死に目には会わなかった。適当な用事をでっち上げ、私は会いに行かなかったのだ。また今度遊びに行くからと、約束したのにも関わらず、大人ぶって、自分に嘘ついて。――それは祭りが終わって、私が少し大人になったと勘違いしていた、空が真っ青な日だった。
 遠くから地響きのように低く呻る波の音が聞こえてくると、すぐそこまで海が押し寄せている錯覚にとらわれて、気がつくと風の音は止み、昔の事を思い出しながら、私はいつから嘘つきになったのかと自分を悔やみ、布団の中で泣いていた。時計を見たら、丑の刻のちょうど真ん中だった。
 ――ごめんよ、お祖母ちゃん。出来るものならまた会いたい。
 明日は祭りだ。今夜の夢にせめてもの期待をかけて、私は瞳をくしゃっとつぶり、そのまま静かに眠りについた。
 海の音が止んだ。
「思い出した?」
「うん」
「あの時の約束、覚えてる?」
「うん」
 これは私の夢の中。期待に応えてくれたのか、懐かしい声が響く。
「ねえ、あの時、最後になんて言ったの?」
「『波子の浦 赤ら柏は時あれど
 祖父母を思ふ 時はさねなし』
 って言ったのよ」
「ありがとう、田心。まだ、間に合うかな?」
「大丈夫よ。あなたは生きているんだから」
 目が覚めたら、すでにお昼を回っていた。
 私は身支度をそそくさと終わらすと、車に乗って、Aに電話を掛けた。
「もしもし、俺、うん、ごめんけど、今日祭り行くの辞めとくわ。ちょっと用事出来てん」
 岩根神社は、昔に比べ寂れていた。私は記憶を辿りながら真っ直ぐ岩に向かった。子供の頃、熊に感じた岩は大した程大きくなく、裏手には蜘蛛の巣がこれでもかと張り巡っていた。不思議な事に、巣の下には青々とした柏の葉が一枚置いてあった。――夢じゃなかったんだ。私は巣を掻き分け、柏を手に取った。
 東へ。江の川が見えてくる。私は川を通り越し、そのまま少し南東へ向かい、山を走った。車を少年自然の家に止め、歩くこと三十分。目印の看板が獣道の向こうに見え、私は草を掻き分けやっと辿りついた。
 そこには井戸があった。看板にはこう記載されてあった。
“ばあさん井戸
 むかしむかし、石見のはし浦(今の江津市波子(ごうつしはし)町)に小舟が流れ着   きました。中には6、7才の女の子が乗っていました。子どものいないおじいさんとおばあさんは娘になってくれるようにたのみました。娘はうなずき、それから二人は家に連れて帰り大事に育てました。
 娘が13才になった年の冬、「出雲の国に帰らせてください」と二人にとつぜん伝えました。夜中におじいさんが目をさますと、もうすでに娘は家を出たあとでした。おじいさんとおばあさんは驚いて、必死で娘のあとを追いました。しかし、力つきて二人はなくなりました。それがこの場所です。じいさん井戸はこの先の左手にあります”
 ――ありがとう、お祖母ちゃん。もう、大丈夫だから、安心してね。

 遠くから地響きのように聞こえていた低く呻る波の音が、まるで引き潮のように遠ざかり、押し寄せていた海は水平線の彼方で空と溶け合い、私は澄み渡る輝きの中に浮遊している錯覚にとらわれて、久しい田舎の白昼に穏やかな笑みが自然にこぼれた。
 私は柏の葉を船の形に折ると、そっと井戸に投げ入れた。
「遅くなってごめん。でも、これでやっと会える」
 その瞬間、何かがふわりと視界に入ってきた。
 あっ! 蛍だ!
 蛍はゆっくり私の周りを回ると、柏の船にすっと止まった。
 私はここ何年も祖母の墓参りに行っていなかった。生きることから逃げていたのか、合わせる顔がなかったのか、でも、本当は分かっているんだ。なぜ田心が私に姿を見せたのか、本当の鬼はどこにいるのか、本当に美しいものはなんなのか。
 ――田心は「思」うことを教えてくれた。
 私は井戸に合掌して、ひとつ大きくうなづくと、その場を後にした。
 焦らなくていい、私は生きているんだから。次の休みに、祖母の墓に行くとしよう。
 そう、東へ。
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