第19話 「しのぶもじ摺り」

文字数 710文字

 教室で、古典の授業が行われている。翔は、黒板に和歌を書いている鮎川の背中をにらみつける。
 藍があんなことになっているというのに、鮎川は、普段と変わることなく勤務している。藍の妊娠のことは、まだ知らせていないはずだが、それにしても、藍が何日も学校を休んでいるというのに、何も感じないのだろうか。
 
 万葉集の研究など、ただの隠れ蓑だったのだ。鮎川が研究をしていることに違いはないらしいが、藍は、研究の手伝いなどしていなかった。
 実際には、大学棟の研究室などではなく、近くにある鮎川の部屋で、二人は淫らな行為にふけっていたのだ。そう、藍の口から聞かされた。
 そのことを考えると、苦しくて、胸が引きちぎれそうになる。翔は、深く傷ついていた。
 
 
 和歌を書き終えた鮎川が、こちらに向き直って言った。
「この、『しのぶもじ摺り』の『しのぶ』というのは、シノブグサという植物のことだけれど、それに掛けられた、もう一つの意味がわかるかな」
 教室を見回す鮎川と、翔の目が合った。翔は、敵意を込めて鮎川を見返す。
 だが、視線の意味に気づかないのか、鮎川は、呑気な声で言った。
「増永、わかるか?」
 翔は、がたんと椅子を鳴らして立ち上がり、なおも鮎川をにらみつける。
 
 いつまでも何も答えない翔を、鮎川は不思議そうに見返す。
「増永?」
 教室の中に、おかしな空気が流れる。そのとき、横から藤崎が袖を引いた。
「……わかりません」
 我に返った翔が、そう言って椅子に座ると、鮎川は、わずかな時間、翔を見つめた後、再び教室を見回しながら言った。
「ほかに、誰かわかる人」

 机の上で握った拳が、ぶるぶると震える。藤崎が、心配そうに言った。
「おい、大丈夫か?」
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