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 三月の初旬は、ひどくあわただしく過ぎた。入試の合格発表が次々に行われ、生徒たちからの連絡に一喜一憂する毎日が続いた。最終的には、どうにか全員の行き先が決まり、心からほっとした。
 この一年間、生徒たち全員の進級と進学がかなうように、ボランティア全員で頑張ってきた。AFFの活動の中で初めて、国立大学への合格者も出て、手を取り合って喜んだ。あとは、留年を出さずに済むかどうか。それだけが心配で仕方がなかった。
 その日、朝からそわそわしながらパソコンに向かっていた理香のもとに、待ちわびていた電話がかかってきたのは、午後三時過ぎだった。
──リカちゃん先生!
 応答のボタンを押すなり飛び込んできた声の明るさで、結果が分かった。
──面談、終わった。あたし、進級できる。三年生になれるよ!
 その連絡を待っていた。
「おめでと──」
 言いながら、声がかすれた。
 天真爛漫さはそのままに、けれど少し前までとは別人みたいに、沙彩ちゃんは将来を見つめ、努力していた。四国から来てくれているおばあちゃんと交代で、お父さんが入院している病院に通い、学習会にも欠かさず出席していた。
 学年末考査の成績は上位とまでは言えなかったけれど、これまで当たり前みたいに取っていた赤点は一つもなかった。それに、平均点を超えた科目もいくつかあった。
「絶対に三年間で卒業する」
 篠崎先生と話したあと、沙彩ちゃんが何度も口にしていた決意。家のことがあって精神的にも大変だっただろうに、本当によくやったと思う。嬉しくて涙が出てきた。
──リカちゃんってば、本人じゃなくって、先生が泣くってありえないよ、フツー。
 そう言った本人の声も、不自然にかすれている。電話越しに、小さく鼻をすする音が聞こえたかと思うと、ふいに沙彩ちゃんがしゃくり上げた。
──あのね──、あのね、リカちゃん、ありがとう。
 切れ切れの声が、耳に届く。
「頑張ったのは、沙彩ちゃんだよ」
──そうじゃないよ。あの時、止めてくれてありがとう。あと、見捨てないで、ずっと心配してくれて──ありがとう。リカちゃんがいてくれてよかった。あたし、頑張るから。ちゃんと頑張って卒業するから──。
「うん、うん」
 そう繰り返すのがやっとの理香に向かって、少し照れくさくなったのか、沙彩ちゃんは「マジだよ」とわざとらしくふざけた口調で言い、もう一度、鼻をすすった。


 あの人に伝えたら、きっと喜んでくれるだろう。
 そんなことをぼんやり考えながら、帰りの電車に乗った。ドアの脇に立って、夕暮れの街を眺める。
 理香の口から直接伝えることができればよかったけれど、もう、それも無理な話だ。いつか何かの折に、研さんから伝えてもらうのがいいかもしれない。
 揺れに身を任せているうちに、長谷さんの会社の最寄り駅が近づいてきた。列車は、速度を落としながらホームに滑りこんでいく。
 この駅に着くと、どうしても、ホームに長谷さんの姿を捜してしまう。もう二度と顔を合わせるつもりはない。だから、万一本当に彼が乗り込んできたらと思うと気が気ではないけれど、それでも、見つからないように遠くから姿を眺めることができたらと、未練がましいことを考えてしまう。
 進行方向に向かって右側のドアが開き、次々に人が乗り込んでくる。その中に見覚えのある顔を見つけて、理香は目を見開いた。細身のスーツに黒の書類ケース。今日のポケットチーフは、前に見たローズ色ではなく藤色だ。
 目が合うと、小川さんは「あれっ」という顔をして、理香の方に近づいてきた。
「山村さんじゃないですか。今、帰りですか?」
「はい、今日は学習会がないので」
「あ、そう言えばそうですよね」理香の隣でつり革につかまり、小川さんは人懐こい顔で笑った。「ちょうどよかった。ご連絡しようと思ってたんですよ。うちの母、ちゃんと役に立ってます? ご迷惑をかけてませんか?」
「もちろんです。──というか、本当に助かっています。紹介してくださって、ありがとうございました」
 小川さんのお母さんが来てくれるようになって、一か月と少しが経っていた。元中学校の先生で頼りになるのはもちろん、「退職してからヒマなのよ」と言いながら毎回必ず参加してくれている。それに、親子以上に年が離れた大学生たちとも積極的にコミュニケーションを取ってくれていて、すでになくてはならないメンバーになっていた。
「何かやらかしたりしたら、すぐ僕に電話してくださいね」ふざけた口調に、思わず笑ってしまった。小川さんは、思い出したように続けた。「あ、そうだ。今、長谷さんのところに行ってきたんです」
 久しぶりに、人の口から彼の名前を聞いた。どんな顔をしたらいいのか、分からなくて戸惑う。長谷さんとの関係を疑われることだけはあってはならない。内心で怯えつつ、「そうなんですね」と返事をした。
「小川さん、今、長谷さんと一緒にお仕事をされているんですか?」
 無難だと思える範囲で、長谷さんの近況につながりそうなことを尋ねてみた。本人からの電話もメールも無視しているくせに、どうしているのか、様子が知りたかった。
「オファーしている仕事はあるんですが、返事待ちです。引く手あまたの人だから、受けてもらうの大変なんですよ、マジで。ああ見えて、興味が持てない仕事は容赦なく断るし」小川さんは、わざとらしくため息をついてみせた。「まあ、うちは長谷さんが独立された時も一切もめてないし、ずっといい関係で付き合ってもらえてて、助かってますけどね」
 国内最大手の広告代理店の人にそこまで言わせてしまう長谷さんは、本当にすごい人なのだろう。そんな人と理香が関わる機会があったこと自体、きっと奇跡みたいな、ありえないことだったんだろうと改めて思った。
 理香は、一番聞きたかったことを用心深く口にした。
「長谷さん、どうされてました?」
「そうですね──」
 それまでテンポよく会話をしていたのに、わずかな間があった。変なことを聞いてしまったかと焦る理香に気づく様子もなく、小川さんはぽつりと言った。
「仕事、少しセーブしてるみたいです。まあ、三月ですから。この時期は、仕方がないですよね」
 同意を求められたものの、意味が分からなくて戸惑う。
「あの、三月って──?」
 理香が話の内容を理解できていないことに気づいたらしく、小川さんは「あれ?」という顔をした。
「山村さんって──」
「はい?」
「あー、長谷さんとは、その、特に親しいというか、ええと、その、特別な間柄なんですよね──?」
 一瞬にして、血の気が引いた。列車が、がたんと揺れて、あわてて手すりにつかまる。理香は冷静さを装いつつ、相手の言葉を否定した。
「仕事でお世話になっただけです」
 言いながら、懸命に思考をめぐらせる。
 理香がこれまでに小川さんと顔を合わせたのは、フォーラムの時だけだ。そしてあの時点では、長谷さんとは本当に何もなかった。なのに一体どうしてそんな疑いを持たれてしまったのか。何か不自然な態度を取ってしまったんだろうかと考えるけれど、思い当たることはない。
「うわ、すみません」
 小川さんは即座に謝った。形よく整えられた眉の端が、心持ち下がっている。
「長谷さんが個人的に女性と親しげに話している姿なんて、初めてだったので。山村さんのこと、下の名前で呼んで嬉しそうに紹介するから、てっきりそうなんだと思ってて。失礼しました」
 意外だった。
 人当たりのいい方だから、理香に限らず、いつも誰に対しても、ああいう態度なのだろうと思っていた。いけないことだと分かっていながら、それでも小さな喜びが胸の奥から沸き上がってくる。同時に、一体どこまでの人たちが自分たちの関係を疑っているのか、考えただけで怖くなった。
 小川さんは、飲み会の約束があるとかで、次の駅で降りて行った。
 一人になって、また、長谷さんのことをぼんやり考える。聞き損ねてしまった「三月」の意味が、どうしてだか気になって仕方がなかった。
 小川さんが実際に何を言いたかったのかは分からない。でも、「三月」という言葉から、長谷さんの自宅の壁にとめられていたカレンダーを思い出した。きれいな字で書きこまれた家族の予定が浮かんで、苦しくてたまらなくなる。
──考えちゃダメ。
 理香は頭を無理やり空っぽにして、暗い窓の向こうを見つめた。けれど、心は、再び一月の終わりの夜へと戻っていく。
 一緒に過ごした最初で最後の夜。
 あの夜、同じこの路線で、長谷さんは理香の隣、手を伸ばせばすぐに触れられる場所に立っていた。力なく頼りなげな様子が心配だった。一人にしちゃいけないと思った。だから、あの時、理香は、長谷さんを追って電車を降りた。
<次は──、お出口は右側です>
 ふいに、車内アナウンスがあの夜と同じ駅の名前を告げ、理香を記憶の世界から呼び戻した。
──降りてみようか。
 思いついたのは突然だった。そして、一度思いついてしまったら、その考えから離れられなくなった。目的なんて何もない。ただ、長谷さんが住む街を歩いて、長谷さんの気配を感じたかった。
 長谷さんはまだオフィスにいる。少なくとも小川さんが出てきた時には、まだオフィスにいた。だから、ホームや改札口でばったり会ってしまう心配もない。
 列車が停車し、自動ドアが開いた。理香はホームへと足を踏み出し、そのまま人の流れにのって歩いて行った。
 階段を下りながら、あの夜のあの人の姿を心に浮かべる。
 フードがついたジャケットがよく似合っていた背中。振り向いて理香を見つけた時の驚いた顔──。今はもう遠くなってしまったけれど、何もかも、記憶の中に確かに残っている。どんなに忘れようと思っても、きっと忘れることなんてできはしない。
 改札を抜けて、北口から駅の外に出た。あの日と同じ道をゆっくりと歩いていく。そうするうちに、見覚えのある交差点に行き当たった。理香は、横断歩道の手前で立ち止まり、通りの向こうを眺めた。


 賑やかなファッションビルの横に、学習塾が入ったビルが立っている。今日はまだ授業があっているらしく、あの日おろされていたシャッターは開いていて、窓の内側には蛍光灯の白くて長細い光が並んでいる。
 この通りを渡った先で、長谷さんと初めて手をつないだ。温かな指の感触が恋しくてたまらない。
──ここまでだ。
 理香は、自分に言い聞かせた。
──この先には行っちゃダメ。
 ここが境界だ。この先には、長谷さんが家族と暮らす家がある。理香なんかが入り込んでいい場所じゃない。さっさと駅に戻るべきだと思うのに、どうしても離れがたくて、この場から立ち去ることができない。
──ちょっとだけだから。
 いつの間にか心の中で懸命に言い訳をしていた。この先には行かない。でも、もう少しだけこの場所にとどまっていたい。この街を眺めていたい──。
 とはいえ、あてもなく歩き回って、長谷さんに遭遇してしまうことだけは避けたかった。居場所を探して目をさまよわせていると、すぐそばのコーヒーショップが目に留まった。大きく取られたガラス窓。その内側に小さなテーブルと椅子が並んでいる。
 理香は、ふらふらと吸い込まれるように、自動ドアの内側に足を踏み入れた。飲み物は何でもよかった。入り口近くのカウンターで、メニューの一番上にあったドリップコーヒーをオーダーし、紙のカップを受け取る。それから店内を見回した。
 店は、通りに沿って細長い造りになっていた。壁に沿って置かれた椅子に腰かけ、カップを両手で包み込むように持って、冷えた手を温める。そのまま、しばらく椅子の背にもたれて、ガラスの向こうの通りを眺めた。目の前の信号が青になり、やがて赤になり、そのたびにたくさんの人と車が交差点を行き交う。
──奥さんって、どんな人なのかな。
 気がついたら、筆跡しか知らない相手のことを考えていた。今、目の前を歩いているあの人かもしれない、とばかげたことを思う。
 女性らしい文字と、ちりばめられた家族の予定。きっと愛情深い人だろう。そして、あの長谷さんが結婚しようとまで思った相手なら、優しい人に違いない。やっかみでも何でもなく、素直にそう思った。
 冷めかけたコーヒーに口をつけると、柔らかな香りがした。一口、二口と飲むうちに、気持ちが落ち着いてくる。
──大丈夫だ。わたしは、大丈夫。
 自分を勇気づける。バッグからスマホを取り出して時刻を確認すると、八時半を回っていた。
──飲んだら、帰ろう。
 理香は、テーブルの上にスマホを置き、再びカップを手に取った。
 その時、ガラスの向こうに長谷さんの後ろ姿を見つけた。黒っぽいコートを着て、左手にバッグを提げている。すっと伸びた、きれいな背中。顔は見えないけれど間違いない。
 長谷さんは、横断歩道の手前の歩道に佇み、信号が変わるのを待っていた。ガラス越しではあるけれど、五、六メートルしか離れていない。交差点を車が次々に通り過ぎていく。長谷さんが足下に目を落とした時、横顔が見えた。きれいに整った優しげな顔立ちが、夜のせいか疲れて寂しそうに見えた。
 心が震えた。
──どうしよう。
 コーヒーのカップを握りしめたまま、おろおろと考える。もし今、長谷さんが振り向いたら。きっと、理香の姿を見つけて驚いた顔をするだろう。そして──それから? それから、どうするだろうか。
 ひと月以上も、一方的に彼を無視し続けてきた。それがどれだけ失礼なことか、ちゃんと分かっている。
 怒るような人じゃない。けれど、さすがに気持ちは冷めただろう。どんなつもりだったのか、今さらなぜここにいるのかと、理香を問い詰めるだろうか。それとも、理香の顔なんて見なかったふりをして、歩き去ってしまうかもしれない。
 ひたすら逃げ続けてきたくせに、長谷さんの冷たい目を想像するだけで、怖くなる。それに──。
──わたしは? わたしは、どうすればいいの?
 理香は自問した。
 会うべきじゃない。言葉を交わすべきじゃない。それが、唯一の答えだと信じてきた。でも、こうして長谷さんを目の前にすると、間違ったことをしているんじゃないかという気がしてくる。
 二人があの夜に取った行動は、正しいことじゃなかった。でも、逃げ続けるだけでよかったのか。たとえ流されたのだとしても、長谷さんはちゃんと気持ちを伝えてくれた。なのに、さよならすら言っていない。それで本当によかったんだろうか。
──きっと、これが最後の機会だ。
 もっともらしい言い訳を並べているだけで、単に会いたいだけなのかもしれないとも思う。それでも、今こうして長谷さんが目の前にいることに意味を見出そうとしてしまうのは、愚かなことだろうか。
 バッグを手に立ち上がろうとした正にその時、歩行者用の信号が青に変わった。
 長谷さんが、横断歩道へと足を踏み出した。ゆっくりした足取りで境界線の向こうへと渡っていく。理香が立ち入ってはいけない場所へ──。
──どうしよう。
 ためらっているうちに、信号が点滅をはじめた。長谷さんは横断歩道を渡り切ったところで立ち止まり、左手のビルを見上げた。
 歩行者用の信号が再び赤になり、待っていた車が一斉に動き出す。その向こうで、長谷さんがファッションビルに歩み寄り、ウィンドウの脇、白っぽい壁に背中を預けるのが見えた。
──待ち合わせ?
 店から出る勇気が持てないまま、理香は、ガラス越しにその姿を見ていた。
 長谷さんが目を上げる。視線の先に学習塾の入り口があった。高校入試の合格率をうたった看板と模試のポスター。そのことに気づいた時、なぜ彼がそこにいるのか、一瞬で理解した。
 “娘さんの塾の迎え”。
 打ち上げの夜に聞いた言葉がよみがえる。分かっていることなのに、こうして目の前に突き付けられると、改めて現実を思い知らされた気がした。
 だめだ、涙が出そうだ。
 さっきまでの勇気は、もうどこにもなかった。理香は、塾のそばで待つ長谷さんを見つめた。せめて、姿を目に焼きつけておこう、と思う。
 目の前の信号が、赤から青、青から赤へと何度も変わる。そのうちに人通りが少しずつ減っていき、やがてファッションビルの明かりが消えた。
 九時半になったころ、塾のドアが開いて講師が姿を見せた。続いて、制服の子どもたちが次々に出てくる。今日の授業が終わったらしい。
 いつの間にか、長谷さん以外にも、子どもを迎えに来た保護者らしい人が集まってきていた。講師に頭を下げ、親子で肩を並べて帰っていく。以前勤めていた学習塾でも、毎晩のように見ていた光景だ。
 長谷さんは、その様子をただ見ていた。子どもの姿をさがす様子も、近づいていく様子もない。
 理香は、塾の入り口と長谷さんを交互に見つめた。娘さんだと聞いているけれど、長谷さんに似ているのなら、きっときれいな子に違いない。見たくないけれど、見てみたい。矛盾した気持ちをどうすることもできないまま、ただ見つめ続ける。女の子が出てくるたびに、この子だろうか、と考える。けれど、長谷さんのもとに駆け寄る子はいない。
 やがて生徒の姿は減っていき、最後の一人を見送ったらしい講師が、入り口のドアを閉めた。ロビーの明かりが消されて、さっきまでのにぎやかさが嘘みたいに、歩道が寂しくなった。長谷さんは、変わらない姿勢でファッションビルの壁にもたれている。
──すれ違っちゃったのかな?
 うす暗い街の一角で、長谷さんがコートのポケットからスマホを取り出した。画面の上に指を滑らせる。メールを打っているように見えた。奥さんに娘さんの帰宅を確認しているのかもしれない。でも、それにしては──長い。
 理香は、長谷さんの姿を見つめ続けた。時間が過ぎていく。外は冷えているだろう。
──寒くないかな。手、冷たくないかな。
 温めてあげたいと思うけれど、それは理香の役目じゃない。
 十分以上も経ったころ、長谷さんはようやくスマホの画面から目を上げた。突然、理香のスマホがテーブルの上でふるえた。理香は、びっくりして小さく点滅するランプを見つめた。
──どうして──?
 あわててガラスの外に目を戻すと、長谷さんが身体を起こし、コートのポケットにスマホをしまうのが見えた。ゆっくりとした歩調で、自宅へと続く道を歩いて行く。遠ざかっていく背中が、やがて暗い夜道に溶けて見えなくなった。
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