第87話 慣熟訓練

文字数 1,935文字

広々した芝生の庭にフレンチウィンドウのように張り出した小部屋でのテーブルで、世津奈が便箋に向かっている。右手の中指・薬指・小指の3本でボールペンを持って、美しい字を書きつけている。

ここは、「京橋テクノサービス」医療センターと提携しているリハビリ施設だ。

アオイが軽く足を引きずりながら近づいてきて、便箋をのぞき込む。

すご~い。ペン習字のお手本みたいな字を書けるようになったじゃん。
ありがとうご。自分の指が揃っていたころは、中指・薬指・小指の3本でペンを持って字を書くなんて、想像もしなかった。でも、こうして人工指に変わったら出来ちゃうのね。
慧子が、そこにやってくる。
世津奈さん、それは違うわ。元の指でも訓練すれば出来たはず。でも、最初に親指・人差し指・中指でペンを持つことを教わるから、他の指を使うことを思いつかなかっただけ。別に人口指だから出来るというわけではないわ。
あたしの両脚は、まだシックリこないな。

アオイの両脚はAI搭載の自律型ロボット義足だから、あなたの神経系とシンクロさせるのに時間がかかるのよ。

あたし、なんで、こんな面倒くさいのを選んじゃったんだっけ?
覚えてないの? もう二度と両脚を失いたくないと言って、それを選んだのよ。
これだと、何が違うんだっけ?
あら、いやだ。本当に忘れてしまったのね。その義足は、銃弾とか刃物とか、脚を破壊できるエネルギーを持った物体が脚の表面から5センチ以内に接近すると衝撃波を出して破壊するのよ。
あっ、そうだった。思いだしたぞ。
この間の戦闘では、あなたの放電が一瞬遅れてイヌ型ロボットの銃弾を浴びてしまった。あなたの左大腿部に続けざまに3発の銃弾が飛び込み、大腿骨を粉砕した。3発のうちの1発は左脚を貫通して右大腿部部に飛び込んで動脈を切ってしまった。そういうことは、このロボット義足では起こらない。
私がアオイさんの放電を遅らせてしまったせいです。本当にごめんなさい。
それ、世津奈さんが謝ることじゃないから。CIAが悪いんだ。
その通りです。世津奈さんが気にすることはありません。
それから、アオイ、ちょっと耳に痛いことを言ってもいい?
なんだ? あんまり痛いことだったら、聞き流すぞ。
あなた、腰から上の筋トレ、ちゃんとやってる?
やっていると言えば、やっている。やっていないと言われたら、そうかもしれない。
やらないと、その義足を使いこなせないわよ。衝撃波の発生装置とそのための電池を搭載しているから、あなたの元の脚より3倍重いの。そして、パワーは2倍以上出せる。
腰から上の筋肉をシッカリ鍛えないと、脚に振り回されちまう。そういうことだろ。分かってるよ。
わかっているのなら、筋トレをサボらずにやりなさい。
ふぇ~い……


ところで、コータローは全然顔を見せないけど、どうしてんだ?

彼、アオイさんと私に合わせる顔がないと言って、引きこもってしまったんです。最近は、カウンセリングには通っているみたいです。近江先生が教えてくれました。
なんで、申し訳ながらなきゃいけないんだ?
彼を助けようとしてアオイさんが両脚を失い、私が指を2本失ったと思っているみたいです。
それ、変だろう。CIAが世津奈さんの指とあたしの両脚を奪ったんだぞ。


でも、あの時一番重傷に見えたコータローが実は一番軽傷だったのは、目出度い笑い話ではあったな。泥濘に沈んで意識もなかったから、命が危ないのかと思ったら、実は、銃弾が頭をかすめて脳震盪を起こしてただけなんだから。

アオイ、その言い方はないわ。銃弾のコースが1センチ違っていたら、コータローさんは即死だったのよ。一番死に近いところにいたのは、コータローさんだわ。
わかった、わかった。このことで、二度とコータローをからかわない。あいつ、早く立ち直るといいな。
死に近いところにいたと言う意味では、慧子さんとアオイさんも、あの世との境にいらっしゃっいました。お二人とも動脈を切られて大量出血していたのですから。
そうだな。あたし達がこうして楽しくしゃべってられるのは、近江先生のおかげだ。
でも、その救いの神が来てくれたのが、佐伯警視正の部下が私たちの隠れ家を見張っていたおかだと知って、本当に驚いた。
私たちとCIAの追跡部隊を決戦場まで追跡し、近江先生たちの救急車を誘導してくれたのです。車両での尾行があまり上手でない生活安全局の人たちにしては大手柄です。
おや、世津奈さん、自分のことみたいに喜んでんじゃん。

ひょっとして、警察に戻りたくなった?

自分の古巣の人たちがイイ仕事をするのを見て、悪い気はしません。

でも、私は、みなさんと一緒にいられる方が、ずっと幸せです。

あはは、おだてたって、何も出ないぞ。あたしの財布はスッカラカンだからな。
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登場人物紹介

山科 アオイ  17歳


アメリカ国防総省が日本に設置した秘密研究所で放電能力を持つ生体兵器に改造された少女。

秘密研究所を脱出した後、国家や企業から命を狙われる個人を保護するグループ「シェルター」に拾われ、「シェルター」が保護している人々のボディガードとなる。

山科アオイは、国防総省から逃れた後に名乗っている偽名。本名は、道明寺サクラ。


《放電能力》


※非接触放電  有効射程 20メートル

・単独のターゲットに致死的な電流を浴びせる設計だったが、アオイを暗殺兵器にしたくなかったレノックス慧子が故意に改造手術をミスしたため、致死量の放電はできない。

・設計にはなかった複数のターゲットを同時に攻撃する能力が発現している。


※接触放電  対象と身体を接して放電し対象を金縛りにする事ができる。


レノックス 慧子/アオイの相棒  37歳


元は、アメリカ国防総省で特殊兵器を開発する技術者だった。

日本人の両親の間に生まれたが、両親が離婚し母がアメリカ人と結婚したため、レノックス姓を名乗っている。


慧子を含む5人を「放電型生体兵器」に改造した。そのうち4名は職業軍人で改造されることを志願した者たちだったので、設計どおり致死能力を持たせた。

しかし、国防総省に拉致された民間人であるアオイに対しては、設計上求められていた致死能力を与えなかった。このため、アオイは一度も暗殺兵器として利用されていない。

アオイが秘密研究所を脱出するのを助け、後に自らも国防総省を離脱してアオイに合流して、2人で「シェルター」のボディガード役を務めている。

M 年齢不明


「シェルター」内でのアオイと慧子の「世話役」。アオイ達と「シェルター」の関係を調整する。

「シェルター」は組織に追われる個人をかくまうが反撃はしない非抵抗主義を貫いていたが、強力な戦闘力を持つアオイが加わっったため、一定限度の自衛力を持つ方向に転換した。

しかし、アオイ達の活動と「シェルター」本来の非抵抗・非暴力主義との関係は微妙で、Mは、常に難しい舵取りを求められる。

元はロボット工学の権威で、現在でも、アオイと慧子に様々な偵察・攻撃用の超小型ロボットを提供している。

宝生 世津奈(ホウショウ セツナ) 35歳


産業スパイ狩りを専門の調査会社「京橋テクノサービス」の調査員。

以前は、警視庁生活案全部生活経済課で営業秘密侵害事案を扱っていた。


ITとクルマに弱く、この方面では相棒のコータローに頼りっきり。


ホワっと穏やかだが、腹が据わっていて、必要とあれば銃を取って闘うこともためらわない。

コータロー(本名:菊村幸太郎) 27歳


調査員。宝生世津奈の相棒。

一流大学の博士課程(専攻は数理経済学)で学んでいたが、アカデミック・ハラスメントにあって退学。2年間の引きこもりを経て、親戚の手で「京橋テクノサービス」に押し込まれる。

頭脳明晰で、IT全般に強い。空手の達人で運転の腕も一流。


アカハラの後遺症で「ヘタレ」の傾向がある一方、自分が納得しさえすれば身の危険をいとわない勇敢さも持ち合わせている。

和倉 良一  35歳


日本有数の製薬会社、創生ファーマの研究員。

創成メディカルは、公には人工的に合成した臓器を新薬開発に用いているとしているが、実は、実は手術患者から摘出した臓器を用いていた事を知り、会社を内部告発する決意をする。その直後に、何者かかに命を狙われ、「シェルター」に助けを求めてくる。

アオイと慧子の警護対象者。

近江 正一 50歳


産業スパイ専門の調査会社「京橋テクノサービス」の付属救急センターで働く外科医。NGO「国境を越えた医師団」の一員として紛争地の野戦病院経験が長く、腕は確か。ただ、スピードを重んじるあまり、仕上げが荒い傾向がある。

頭に傷を負ったアオイを会社に秘密で応急処置した後、知人の外科医、川辺憲一にゆだねる。

川辺 憲一 28歳


若き天才外科医。大学病院の医局で起こったある事件が原因で病院を追われた上に医師免許も剥奪された。しかし、本人は、「運転免許のような更新制度のない医師免許は、終身免許だ」とうそぶき、闇で医師稼業を続けている。近江医師とは、長年の知り合い。

イケメンかつ女性大好き男で、彼の自宅兼マンションには女性の出入りが絶えない。一方で、公私を厳しく分ける潔癖さも示す。

佐伯 達彦 47歳


警察庁生活案全部の特命係長。階級は警視正。

総理大臣のイスを狙う野心家で、警察庁警備部に強いライバル意識を持っている。

人間を組織内の位置づけでしか評価できない男。警察を辞めた世津奈を警察時代の階級で呼び続けて、世津奈を鼻白ませる。

ただし、世津奈の粘りと度胸は評価している。

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