ドービニーの彼岸花。

文字数 4,521文字

 練馬から関越道に乗り、曇り空の下を新潟方面へとバイクで進む。途中、三芳のサービスエリアでトイレを済ませて再び本線に戻ると、行楽に向かう自家用車や荷物を満載にしたトラック、何かの訓練の帰り道らしき自衛隊トラックなど、意思もなくただ機械的に動く車の流れを見ながら、嵐山小川インターで高速を降りた。そのまま開けた地域を抜けて、大きなマンション以外に街らしさを感じない小川町に入った。そして道路を東秩父村方面に進んだ。
 東秩父村が近付くと、一気に目の前に広がる景色が様変わりした。進行方向左手には水田や畑が広がり、稲穂は黄金色に実って恭しく頭を下げている。その向こうには深い緑に染まった山々があり、季節の変化を待ち構えるように押し黙ってそこにあった。道路脇の歩道と畑を隔てる土手には、九月の終わりらしい赤い彼岸花達が咲いている。
 こんな季節の微妙な移ろいがはっきりと分かる場所に綾美は引っ越したのか。と僕は思った。僕がかつて綾美と一緒に住んでいた北区の西が丘は、空が広くて木々や緑もそれなりにある街だった。だが緑は人工的に用意されたか意図的に残されたものだったし、空が広いのも東京都二十三区にしてはという枕詞が必要だった。だがここには人間の手の入っていない自然な風景が残っており、人間が実は単なる動物に過ぎないのだと言う事を再認識するにはちょうどいい場所だろう。
 そんな美しく自分を見つめなおすのにはちょうどいい東秩父村に滞在して、二日目になる。僕が居る綾美の家の外からは東秩父村を流れる槻川が見えて、土手の緑の中には美しい彼岸花が咲いている。僕が敬虔な仏教徒だったら、死後の世界に行く為に渡る川はこんな光景だろうか。最近の僕は無神論の立場を取りつつあるが、美しい光景と共にあるなら悪い気はしない。
「君がここに引っ越したのは、この光景があるから?」
 僕は二階の窓の外の景色を見ながら、背後でパソコンのワードを開き文章を打ち込む綾美に尋ねた。彼女とは一年半の間、東京の西が丘のシェアハウスに一緒に暮らしていた。だが僕は当時勉強が出来ない無職少年で、彼女は好きな人の元について行く為に勉強中だった。そしてその人の元に彼女は行き、仕事の手伝いをしながらその人の伴侶になるはずだった。だが伴侶になろうとしていた相手の三木さんはバイク事故で他界し、残った綾美は貯金を使い、傷を癒すためにこの土地に来た。そしてこの家を買って、地元で観光客相手の商売をしながら、読書をしたり様々な気持ちを文章にしている。
「そう。自分一人でも美しい風景と共にあれば他人を意識せずに済むから」
「絵画の中の人物みたいに?この辺りならバルビゾン派とかの?」
「そう。必要最低限の視覚的情報しか入らないから」
 綾美はそう答えて、パソコンのキーを叩く手を止めた。そして傍らに置いたコーヒーのマグカップを手に取り、メープルシロップ入りのコーヒーを一口飲んだ。
「人の姿が川に映る自分の姿だけだから、余計な事を考えずに済むの。騒がしい事もあまりないから、何かを執筆するにはいい環境よ」
 綾美はそう答えた。今の彼岸花が咲く季節のような、瑞々しさが消えて渇きと冷たさが忍び寄ってくるような言い方だった。振り向いて綾美の表情を見ると、その表情は同じシェアハウスに住んでいた頃とは違う、あこがれを抱き一途に花を咲かせようとしていた少女から、人生の苦痛も嬉しさも全て一通り味わってきた女の表情だった。二年前にバイク事故で誰よりも愛していた三木さんを失ってしまった傷はもう表に出る事は無いだろうが、傷を負うまでの彼女にはもう戻らないだろう。
 綾美は席を離れて、窓の近くに居た僕の側まで来た。そして僕と共に外の景色を見て音もなく流れる清らかな槻川の水面、そして緑色の土手に咲く彼岸花をその瞳に映している。
「今日は曇り空だから、ドービニーの画みたいで良いよね。余計な音も無くて自分の世界に引きこもれる。彼が幾つもの風景画を残した理由も理解できる気がする」
「ドービニーの画なら僕も見たよ。美しくて静かで華美な物がなく本質的。ああいう作品は必要だよ」
 僕はそう答えた。だがあまりにもバルビゾンの森や川を描き過ぎているが故に、ドービニーが変化や刺激を拒絶しているような気がする。だから彼の描く作品は内向的で常に他人を恨み穿った視点で描かれている。という言葉を僕は胸の奥に押しとどめた。
「そうよね。ああいう作品は必要だし、描ける作家も必要だよね」
 綾美はそう答えてまた僕の側を離れた。そしてパソコンの前に戻り、またキーを叩き始めた。
「邪魔になるから、僕は外に出ているよ。一時間位で戻るから」
 僕はそれだけ言い残して、綾美の住む一軒屋を後にした。


 僕は綾美が住んでいる川沿いの一軒屋を離れて、灰色の空に覆われた東秩父の村を歩く事にした。道路に出て振り返ると、古ぼけた綾美の家がドービニーの作品に描かれる、川に浮かぶ小舟の用に、東秩父村の緑と空に溶け込んでいる。家の前の駐車スペースらしき空間には僕が乗って来た黒いヤマハのXJR1300と、綾美が移動に使っているシルバーのスバル・R1の尻が見えた。
 僕は槻川に沿って走る道路を道の駅方面に向かって進み、道端に植えられた彼岸花の赤と周囲の緑のコントラストを楽しみながら、黄金色の稲穂を付けた田んぼを抜けて、槻川のほとりに佇む。槻川の水面は曇り空を映して黒く染まり、周囲に冷たさと静かさをもたらしている。水面を凝視すると石の沈んだ川底の上で小魚が泳ぎ、囁き声の様に小さく美しい川の音を奏でている。その光景は時間の規則性と生命の息吹を感じさせたが、躍動感や力強さとは無縁の、それこそドービニーが描いた森と川が生み出す静寂に満ちた本質的な世界に居る気がした。だがドービニーの作品と異なるのは、バルビゾンの森や川より色が全体的に淡く閉塞感が少ない事と、周囲に彼岸花の赤いアクセントが散りばめられている事だ。もしドービニーがこの風景を描き、彼岸花を作品の中に散りばめたらどうなるだろう?限りなく重く静かな世界に浮かび上がる小さな彼岸花の赤は、小さな救済と少しばかり残った情熱の断片として、議論の話題になるだろうか。
 僕は五分ほど佇んだ後、道路に戻って道の駅方面へ向かって再び歩き出した。新しく整備された道の駅の駐車場には、車やバイクで来た観光客たちが地元産の野菜や工芸品などを目当てに集まっていた。僕も中に入って何か見ようかと思ったが、必要とするものとは巡り合えない事を知っていたので行かない事にした。
 そしてする事も見るべき物も失った僕は綾美の家に戻り、玄関を開けた。二階の綾美の部屋に入ると、パソコンでの書き物を一通り終えた綾美はベッドの上に寝転がってスマートフォンを操作していた。
「ただいま。何を見ているの?」
「世の中の事。俗世から離れた場所に住もうと思っても、私達は社会に生きる人間であるからその事を常に知らないといけない。完全に隔離され不寛容不干渉の世界なんて、死後の世界だと思うわ」
 綾美はそう答えた。彼岸花が咲く川の近くに住むと、自分と人生、社会の三つを繋ぐ要素の根底が死という物になるのだろうか。
「少し自分の周囲の美しさを見た方がいい。ドービニーが描いた世界がすぐそこにあったよ」
 僕はそう答えた。綾美はその言葉に答える事はせず、寝返りを打つ。そしてこう口を開いた。
「この場所は気に入った?」
「うん。ドービニーの描いたような景色が広がっていて、愛していた君も居るし」
「でも明日には、住んでいる祖師ヶ谷大蔵に帰るんだよね」
「ああ、僕は都会の住人で社会の歯車に回されて、二酸化炭素を吐き出す仕組みの世界の住人だから」
 僕は力なく答えた。今週の木曜日には知り合いのバンドが下北沢のライブハウスで演奏する事になっており、僕はそのバンドに歌詞を提供している人間として戻らなければならなかった。
「私は都会の歯車から外れた故障品?」
「そうじゃない」
 僕はそう答えた。三木さんを失ってからネガティブな表現が多くなったのだろうか。僕としてはそんな表現を使ってほしくなかった。
「君は社会と言う集積回路の本質を見抜いて、自然の中で生きる存在、具体的な表現や輪郭線を用いない、純粋な生命としての人間に回帰しようとしているのかもしれない。スマホを見て社会とかかわろうとするのは、凄く不安定な状態である事を自覚している事でもある」
「私は不安定なの?」
 立て続けに綾美は質問する。その言葉に僕は熱のこもった湿り気があるのを聞き逃がさなかった。
「多分ね。だからこの場所に来たんだよ。そして自分を愛していてくれていた僕に遊びに来ないかって、誘ってくれたんだよ」
 僕はそう答えた。僕の言った言葉が的を得た内容だったかどうかは分からなかったが、彼女の心には触れたようだった。
 綾美は目元を腕で隠しながら泣いていた。もしかしたら彼女の事を傷つけてしまったかと思ったが、綾美はこう口を開いてくれた。
「ありがとう。他人に言われて初めて自分が慰められたような気がする」
 綾美はそう答えた。僕はかつて愛していた人の役に初めて立てたような気がして、胸が熱くなった。
 綾美はベッドから起き上がり、呆然と立ち尽くしていた僕に縋り付いてきた。そして涙で濡れた彼女の顔が僕の腹の辺りに押し付けられて、僕の感覚が彼女と間で共有される気がする。
「嬉しい。私を愛していたからそう言ってくれたんだよね」
 嗚咽と共に、彼女の言葉が僕の耳に入ってくる。



 それから僕は綾美の部屋で、彼女と二人だけの時間を過ごした。自分の傷を癒すために都会から離れて自分を見つめなおして前に進むために、この東秩父村に来た綾美だったが、やはり一人では生きられないらしい。何処かで自分を心配してくれた人、気にかけてくれた人を求めていたのだ。彼女が住む場所はドービニーが描くような川と森、静寂に包まれた世界に身を置いていたが、ここにはドービニーの世界とは違って、赤く美しい彼岸花が咲いていた。それがドービニーの作品とは異なっていた点だ。彼岸花は死を意識する花だったが、花言葉には『再会』や『転生』などの前向きな言葉であふれている。この季節に綾美と再会したのは、もしかしてこの東秩父村に咲く彼岸花がめぐり合わせたのかもしれない。
「ねえ」
 僕の傍らで、綾美が声を掛ける。僕は日が傾き訪れるのが早くなった夜の気配を二階の窓から眺めながら「なんだい」と力なく答える。
「また、何かあったらここに来てくれる」
 僕はその言葉を背中で聞いた。十代後半の時、何もない時期に彼女の事を求めていた時期の感情が、また蠢く気配がする。
「何かあればね」
 僕はそう答えた。それ以外に適当な言葉が見つからなかった。だがいずれまた綾美と再会するだろう。その時は、今と違う感情を抱いているかもしれない。

                                     (了)
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