第三章・第二話 勅使との対談
文字数 6,789文字
大半は、
こうなると、あとは熾仁と慶喜を何とか説き伏せ、罪状を認めさせた上で二度とこんなことはしないことを約束させるよりない。死罪でも命じられれば一番簡単だが、和宮にもまだ熾仁には、想いを寄せていた頃の記憶による情はある。そう簡単に、思い切った決断はし兼ねるし、殺してしまうほど憎んでもいない。
それに、彼らは何と言っても、
「それで、滝山の様子はその
偽装出火の報告書を閉じ、再度慶喜の報告書を手に取りながら問うと、邦子は目を伏せ、軽く会釈した。
「はい。
「概ねはって?」
「宮様の下された降格の件、その
「ま、仕方ないわね」
肩を竦めて脇息へ
「だって、本当の忠心は、心から
「ですが」
「滝山だって一人の人間だもの。本来、忠誠を誰に捧げるかは、彼女が決めることよ」
言いながら、和宮は苦笑した。自身にも、嫌と言うほど覚えがある。
まだ熾仁を慕っていた頃、ほかの男に嫁げと言われて、心は悲鳴を上げた。
「あの場では言わなかったけど、この処罰……滝山にあたしへの忠誠を求める処罰は、あくまでこの件が解決するまでのつもり。滝山には内緒ね」
和宮は、唇に空いた手の人差し指を当てて、また肩先を上下させる。
「それで、滝山の後任の、筆頭御年寄りは、まだ決まってないのよね?」
「はい。ですから、此度の滝山からの引き継ぎは、残る三名へ同時に
「了解。じゃ、勅使が連絡寄越すまでは、そっちのほうを片付けましょう」
「偽装出火の件は、どうされますか」
「証拠がないだけで、犯人はもう割れてるんだもの。片方は動機もはっきりしてる。推理を披露するまでもなくね。問題は、証拠がない中、どうやったら犯人
無意識に、唇へ当てた人差し指を折り曲げ、半ば一人ごちる。
「そう言えば、熾仁兄様のほうは、その
「いいえ、特には。隠れ場所からも動いていないと、川村殿より定時報告が上がっております」
「そう」
家茂の近侍である川村
加えて、家茂が絶対の信頼を寄せているとなれば、その調査と仕事に不安はないと言っていい。
「……最後に熾仁兄様を見送ったのって川村だったよね。何で兄様は江戸に残ってたのか、聞いてる?」
ふと気付いて問うと、邦子は急に居心地悪そうに目を伏せた。
「……それが……」
「何?」
「まことに申し上げ
「何ですって? ……それって、まさか」
ハッとして呟くと、邦子が小さく頷いて言葉を継ぐ。
「お察しの通りです。恐らく、輿を奪ったのは、慶喜殿でしょう」
「川村は、何でそれをすぐ報告しなかったの?」
「上様のご指示だそうです。川村殿の直属の
(……あんのバカ)
滝山を追い詰めた総触れのあと、倒れた家茂が意識を取り戻してから、もう何度目か分からないその言葉が頭をよぎる。
「どんだけ自分一人で抱えるのが好きなのよ」
和宮は頬杖を突いて、フンと鼻を鳴らした。
「恐れながら、上様には、慶喜殿の動向を探りたいお考えだったのでは」
「そんなこと分かってるわよ、あたしだって知りたいもん。問題は、何でそれを一人でやろうとしてるかってことよ!」
和宮の掌は、バン! と結構な音を立てて脇息へ振り下ろされる。しかし、邦子はビクともせずに流し目をくれた。
「では、宮様に伺いますが、仮に熾仁様と一対一で対話する機会があったら、上様にそれを相談なさいますか?」
「そっ……!」
相談するわけないじゃない! という率直な文章が、脳内を右から左へ流れるが、口にするのはどうにか思い
熾仁との話し合いなんて、本来家茂には関係ない。言うなれば、和宮と熾仁の問題だ。
恐らく、熾仁はまだ、和宮を諦め切れていないのだろう。立場を逆にすれば分からないこともないから、頭から突っぱねることは
それを思えば、家茂が、彼と慶喜との間の問題解決に、和宮を巻き込むまいとした心理も、不本意ながら納得できてしまった。
「……巧いこと言ったわね、姉様」
「恐縮でございます」
「褒めてないから!」
***
「――
三日後の
上段に
「これは、御台様」
「わざわざかような所へお運びを……」
「構わぬ」
和宮は
今日は、武家風に着付けた打ち掛けが、かすかに衣擦れの音を立てる。
「郷里から遠路
「はあ……」
幕臣たちは微妙な顔付きをして、曖昧に返事をした。ある者はこちらをチラチラと見、ある者は隣の者と互いに目を見交わしている。
和宮から見て幕臣たちの手前に当たる場所へ、
「そなたたちが、勅使のお二人か」
「はい、和宮様」
手前の二人が、同時に頭を下げる。
「お初にお目にかかりまする。わたくし、三条
三条実美と名乗った男は、年の頃は二十代半ばだろうか。面長の輪郭に、丸い目元と長い鼻筋、やや分厚い唇が微妙に顔の中央に寄った配置の容貌だ。
「
続いて名乗った姉小路公知は、輪郭は実美より幅広で、凛々しい眉と、口元に短く整えた髭が印象的だった。輪郭に合わせるような、ふくよかな体格も
和宮は、また鷹揚に頷いて、「
「
二人は、またも仲良く同時に言って、顔を上げた。
「お二人には、江戸入りから、かれこれ
和宮は膝の前に指先を揃え、頭を下げる。すると、二人が「和宮様!」と泡を食ったように叫んだ。
「お顔を上げて下され! 仮にも先帝の内親王殿下が、臣下に頭を下げるなど、あってはならぬこと!」
「その通りです! お顔をお上げ下さりませ、和宮様!」
二人の必死に聞こえる説得に、和宮は吹き出しそうになった。二人に見えない角度になった顔が、笑いの形に歪むのを押さえられない。しかし、顔を上げた時には、どうにかその笑いは収める。
「ところで、お二人には本日、上様を通さずに済ませられる用件を先に
「御台様!」
幕臣の中の誰かが叫んだようだったが、和宮は冷ややかに彼らを睨み据えた。
「控えよ。今は、勅使のお二人とわたくしが話しているのだ」
「ですが、ことは
「政に、わたくしが関わってはならぬとでも言うのか。その理由は何だ。わたくしが、皇女という名の小娘、女に過ぎぬからか。だが、そなたたちは誰から生まれた。そなたたちの母君は、
一瞬、話の筋が逸れたように思えたのだろう。幕臣たちは再度、互いの目を見交わしたが、言い返す言葉を思い付けないようだ。
その隙に、和宮は躊躇なく踏み込む。
「そもそもが、そなたたちの言う
スッと背筋を伸ばして、幕臣たちを
その理由は、和宮の圧に臆したから、とか、和宮を当代将軍
彼らは、自分たちが言い返したことが、勅使を通して兄帝の耳に入るのが恐ろしいのだ。それによって、幕府の立場が今より傾くことを、何よりも恐れている。
和宮は、静かに息を
これから、奥女中たちだけでなく、
けれど、和宮のほうこそ、それに臆してはいられない。臆している余裕などない。
幕臣が、それ以上何も言わないと見て取ると、和宮は勅使たちに視線を戻した。
「……すまない。中々、家格と身分上下の道理が分からぬ者らでな。不作法の程は、無知の者のやることと思うて、水に流して欲しい」
思わぬ嫌みにか、幕臣たちは露骨に顔を
今となっては和宮も、武家の人間たちを、『皇族よりも格下で卑しい』と思う価値観は
「遅くなったが、本題に入ろう。そなたたちの用件を、聞かせて欲しい」
「恐れ入ります」
口を開いたのは、実美だ。
「我々が
和宮は、唇を噛んだ。暗に、『
(……でも、できないのよ。仕方ないじゃない)
口に出したい衝動を、どうにか捩じ伏せる合間に、実美は「第二に」と挟んで言葉を継いだ。
「宮様に、我らが
「は?」
突然『お慶び』などと言われて、首を傾げる和宮の前で、勅使の二人がまた揃って頭を下げ、すぐに上体を元へ戻した。
「此度、ご
「何ですって?」
和宮は、眉を
「そういうことです。そのほうらも、今後宮様に『御台様』などと下賤な呼び掛けはなさりませぬよう」
「バカな!」
「そんな横暴な……!」
「お断りします」
ざわめく幕臣の中、凛と告げると、幕臣はもちろん、勅使の二人も
「……恐れ入りますが、和宮様。今、何と
「主上にはまこと、恐れ多きことなれど、此度のその
「
噛み付くように叫んだのは、実美のほうだ。
「これは、帝のご意思なのですぞ!」
「そなたの言う通り、わたくしの呼称に関して、
「しかし……!」
「ご不安であれば、わたくしが直接主上に
「和宮様!」
「わたくしは一度、そなたたちの思惑によって心を曲げました! 曲げたくもない心をです!!」
実美にかぶせるように、和宮も声を
「……江戸へ嫁いで、様々なことがありましたが、今、わたくしは上様と心の底から想い合うようになり、幸せを感じております。上様と共にいる幸せを守る為ならば、呼び名など些細なこと。それを殊更大袈裟に騒ぎ立てた昔の自分を、深く恥じております。その時に、庭田
実美も公知も、開いた口が塞がらない
「し、かし……」
辛うじて言葉を発そうとしたのは、やはり実美のほうだ。和宮は、彼に冷え切った目線を向けた。
「くどい。確かにそなたたちは、帝の勅令を拝命し、得意満面で江戸へ下られたのであろう。されど、主上がこの場にあらしゃらない今、そのほうらの立場は、正真正銘皇妹であり、内親王であるわたくしより下なのは、お分かりか」
言葉に詰まったのか、実美は唇を噛み締め、和宮を
だが、言葉で反論できない代わりに、表情には本音が現れる。和宮は、今度こそ、ふん、と鳴らした鼻に、嘲笑の吐息を乗せた。
「そなたたちにも心はあろう。遠慮なく反論してよいのだぞ」
「は……?」
「わたくしの『心』だけ主張し、そなたたちには身分で反論を封じるのは、確かに公正ではない。よかろう。言い分を聞こうではないか」
実美は、またも陸に打ち上げられた魚になった。公知に至っては、『どうしたらいいか分からない』と、顔全体で言っている。
しばらく待ってみたが、突然これまでの
続く沈黙を、結局、和宮は自分で破ることにした。
「……分かった。申したき儀がなければ、わたくしはこれにて失礼する」
腰を浮かせ、立ち上がると、実美が顔を上げる。
「かっ、和宮様! お呼称の件は」
「言っておくが、大奥にまで通達を通すことは、大奥を
しゃんと背筋を伸ばした和宮は、顎を引いてその場にいる男たちを、もう一度睥睨する。
「第一、江戸城大奥の
またも静まり返った男たちを見渡し、和宮は言葉を継いだ。
「だが、この通りのことを、そなたたちが直接、主上に申し上げる義理も義務もない。先にも申したが、わたくしの奥での呼称については、できるだけ早い内に、わたくし
言いながら、最早勅使からの言上は受けぬということを態度で示すように、和宮は打ち掛けの裾を素早く
そして、幕臣たちに流し目をくれる。
「そなたたち。お客人のお帰りだ。失礼のないよう、丁重にお見送りせよ。また、上様がご快復次第、こちらから連絡するゆえ、次はその時に参るよう、よく頼んでおけ」
勅使がまだ目の前にいるにも
©️神蔵 眞吹2024.