このクソにまみれた、世界と自分

文字数 4,563文字

 夏の気配を感じる朝の日差し。気怠い顔の男は支度も疎かにマイカーを走らせる。

 低血圧をマルボロ・ブラックメンソールでカバーしつつ男は工場へ辿り着く。この独房みたいな場所もあと一週間でおさらばか、おばちゃんのウザい挨拶に愛想良く返し、タイムカードを刻印する。

「朝礼まで10分……」

 さっきのメンソールが効いたのか催してきやがった。どうせならスッキリして仕事に励みたいもんだ。
 男の就労スペースは2Fにある。ベルトコンベアに流れる無機質なパーツ、それを完成に一歩近付けたらボタンを押し隣の奴に送り、たまに「作業ゲーのがマシだぜ」という悪態を付く、この上無くつまらない作業が仕事。機械部品に囲まれた半径50センチがその男の戦場という訳だ。

「2Fと3Fは洋式故障中だったな」

 男は1Fトイレに入る、このあと訪れる惨状を知る由も無く。

「洋式空いてる、さっさと済ませよ」
「ちゃ~ららっと、ぷり♪」

 例年と比べると豊作と言っていい量が放出された。まず便意の基となる八割を放出、流した後残りの二割に集中する、それが男のスタイルだ。

「っしょ」

 グイ、ジャー。レバーから伝わる振動に違和感を覚える。

「水位、上がって……る?」

 流れが悪いのはいつもの事。一抹の不安を感じたが気にも留めなかった。


 ◆


「冷て!」

 ケツがピチャっとした。咄嗟に俺は腰を上げ股の隙間から垣間見た。今まさに、己のうんこが溢れる様を。

 じょわわ~。一瞬の出来事、溢れ伝い落ち、秒速30センチで広がる汚水。

(いかんッ!!)

 ズボンを持ち上げ爪先立ちの体勢を取る。その俺をあざ笑うように汚物溜まりはスゴイ勢いで広がり出す。
 それは地獄の光景、様々な考えが駆け巡る、自分が汚物まみれになる事、社員に怒られるのではないかという事、替えのズボンが無いのに仕事はどうすればという事、同僚に奇異の目で見られる事、あだ名はウンコ系になる事。それは死に戻る能力でもあれば躊躇わず死を選ぶほど、絶対的な絶望と恐怖だった。強まる汚水の勢いから俺は更なる絶望を確信した。

 その後の決断は早かった。人生最速でズボンを上げつつ鍵を開ける。一歩目でドアに体当たりし、返す二歩目で隣の和式便所に突入する————以上の動作を、フルチンにて行う。

「はぁ、はぁ」

 この部屋のトイレは二つ、和式が使用中であればジ・エンドだった。空いていたのは不幸中の幸い、だが同時、安堵を上回る轟音が響く。

 ザッパアアアァァ!!

「はは……ザッパーって……」

 なんかのギャクかよ————いや、その勢い、ここもヤバイのでは?
 視線を下に向ける、汚水に侵食されているがスペースの九割は無事だ。便所の構造上、排水溝のある中央が低く、この端部屋は高所なのだろう。だがそれはこのドアの向こうが死海と化した事を意味している。人が来たら大事、かと言って隠蔽は、もはや時を巻き戻す能力でもない限り不可能となった。

 賽は投げられた。まずは被害の把握、ズボンの被弾状況を確認する。
 ポケットの辺りが汚水にやられているが、暗色なのでウンコ水とはバレ難い。大人数が作業する工場内ではウンコ臭も誰の物か判らない。未曾有の大惨事に遭遇しながら軽症で済んだ、我ながら自分の幸運に感謝する。
 そして俺は心を落ち着かせるため、隣で自分のウンコが怒涛の勢いで溢れる中、再び排便を開始した————

 そして響く、来客を告げるドアの音。ヤバイ、どうにもならん。絶叫が響く。

若者:「うわあああぁぁ!! なんだこりゃ!」

 チッ、うっせーな、絶叫してんなよ。俺のうんこだよ、文句あっか。

若者:「は? これ、ウン……」

 こうなったら仕方無い。

俺:「どうしました!? 大丈夫ですか!!」
若者:「いや、え? これ……」
俺:「隣溢れてますよッ!! 社員の人呼んだ方がいいと思いますッ!!」

 俺は動転した彼を上回るテンションで叫び————心だけは冷たく深く沈んで行くのを感じていた。
 急いで遠ざかる足音。招かれざる客は撃退、奴が戻るまでに脱出を……

オッサンA:「うわあああぁぁ!! なんだよこれ!」
オッサンB:「うっわ!!」

 間を空けず次の来客————マズイ、オッサンらしき二人組。人生経験があるのでさっきのような方法は通じない。

俺:「隣、溢れちゃったらしいですよー、いま社員の人呼んでるみたいですー」
オッサンA:「うぇ……」
オッサンB:「クソだクソ」

 オッサン達は文句を言いつつ小便を開始する。
 そう、今度は落ち着いた面持ちで「よくあること」とでも言わん態度で場を収めた。客のテンションに対応し、和式で息みながら人心をコントロールする。あの恐怖を体験した俺はあの場の誰よりも冷静だった。アレは数年はトラウマになる、あの恐怖に比べれば恐ろしい物など何も無い。
 てか「クソだクソ」てオマエ、裸足のゲン かよ。てか、よくそんな中で小便するな!? 俺なら絶対ムリなんだけど……隣でうんこしてるけど……

 ガチャ、三度目の来客、今日は客が多いな。さあ、この俺がプロデュースせし死海へようこそ————

「ええ、なにこれぇ! どしたのぉ?」

 スゲー訛ってる、茨城方面出身か? ウチの県は東北、群馬、茨城の訛りが混在した言ってみれば紛い物、だからU字工事もつぶやきシローも成功しないのだ、などとマジでどうでもいい事を考える。

「溢れっちったんだってぇ」
「なーんだそりゃ、掃除してなかったんけ」

 客同士で会話を始めた、事態は完全に俺の手を離れた。しかしコイツら揃いも揃って同リアクションをしやがる、もう貴様らのパターンは読め読めだ。俺は残りの二割が出ないため手早くケツを拭き、和式のドアを開いた。

(なんじゃこりゃあああぁぁ!!)

 流れ出た汚水は部屋の八割を覆っていた……固形物なども散り散りに広がり、俺は自分が作り出した光景を直視する事はできなかった。別に俺じゃなくても直視できないと思うけど、爪先歩きでなるべく侵食されてない箇所を通る。

 そして手を洗い、便所を後にした————最悪だ。これから仕事と思うと気が滅入る。始まってないけど早退したい……途中、社員の部屋をノックする。

「あの、トイレの話、聞きました?」

「聞いた聞いた、このあと掃除するから」

 よかった。 まさか俺がやりましたとは言わないけど、やっぱり最低限の責任ってあると思うからさ。しかしアレを片付ける人がいるのか……その人マジで尊敬するんですけど。

 そのまま朝礼に参加し憂鬱な作業をこなす。休憩時間は喫煙所に行くため、あまり考えないように男子トイレの前を通る。戻る時も同じようにそこを通る。

 そうこうして仕事もあと一時間に迫った。長らく運動不足に立ちっぱなしは堪える。でもあと少し、今朝のことも忘れ、仕事後は天一でも食って帰ろうかな、なんて考えていた時————事態は発生する。

 ビーッ、ラインが止まった。なぜだろう、嫌な予感がする。

「作業を止め、集まって下さーい」

 社員の声が響く。我々働き蟻は統制された動きで移動を行う。まさか、今朝の事をむし返そうと……? あれは終わった事、せっかく忘れ掛けていたのに……落ち着け、いくら工場の王・社員と言えど、観衆の前で

「今朝、1F男子トイレをうんこまみれにした人は手を挙げて下さい」

 などと言う鬼ではあるまい。目撃者は全て処理した……犯人が俺とは誰も気付いていないハズ、聞かれてもゼッテーバックレてやる。大体、詰まってるトイレを放置していた工場サイドにも責任あると思います。

「今日の生産台数は終わったので、掃除を行います、1番から48番までは一階、残りは二階を、班長の指示に従って下さい」

 なんだ、終礼清掃か……嘘だッッ!!!! ラインの進み具合で判る、俺の計算では今日の目標台数に届いていない。ねじ止めのオバハン共が手こずり進みが悪かった。何より目標台数に届いても、いつもは次の日の生産を前倒しでやらせるじゃないか、ふざけんな! この掃除はヤバイに決まってる!

 1Fを割り当てられた俺は素早く箒を掴み、隠れるように男子トイレ反対エリアへ移動する。他の者達は困惑気味で動きが鈍い、仕事終わりに10分ほど清掃はするが、1Fの掃除など初めてだからだ。そして聞こえて来る悪魔の声。

「では私達と……◯◯さんと△△さん! トイレやりましょう(・・・・・・・・・)!」

 ああ……神よ! どうか迷える子羊をお救い下さい!

 これは予想だがおそらく当たっている。朝、社員が死海と化したトイレ掃除を試みる。だがあまりの惨状に遠距離からの放水しか出来なかった。完全処理には洗剤を撒いてブラシを掛け、直接汚物に干渉する必要がある、それだけはやりたくない。

「これ派遣にやらさない?」
「業務外の仕事は派遣法に違反するぞ」
「なら、終礼清掃の一環にすれば?」
「それなら業務に含められるな」

 そう、この全体掃除という茶番は1F男子トイレを掃除させるカモフラージュ。唯一、俺だけが皆に先んじ遠ざかる事ができた。出遅れた四、五人は生贄として死海最前線に回されたのだ。

「知ったことか、俺は悪くない、悪いのは詰まってたトイレなんや……」

 罪悪感に苛まれつつ掃除しているフリをする。箒一本で何が出来る、塵取りも無いのにどうしろと言うのだ。こんな事ならモップを掴めば良かった。やることが無く1Fをウロ付く。
 こっちは3人いる、俺の手は必要なさそうだ。あっちもか、みんな熱心に掃除している。階段、ここでも俺は用ナシか……てか、俺直属の班長って誰ですか?
 ウロ付いているとトイレ報告した社員の人とすれ違う。目が合う、まさか犯人が俺と気付いている? いや大丈夫だ、バレているなら真っ先に最前線に投入されたハズだ。

 ウロウロしつつ男子トイレを覗く。部屋の八割がドス黒くなってる……中の人達も呆然と立ち尽くしている。すまん……すまん、許してくれ……でもお前達も、底辺の派遣なんかやってるから悪いんやで……堪忍な……堪忍な……!

 モップが空いた、箒より掃除してるように見える。このまま終了まで人気の無い所で過ごそう。

 そして、史上最悪な就労時間が終了を告げた————
 男子トイレの前を通る。うわ、まだ掃除してる……あの人数でこんな時間掛かんの? 改めて自分の汚物力に驚愕する。あ、でも良いニオイする、綺麗になってる! よかった、本当によかった……アレをここまで綺麗にするとは、派遣パワーをバカにしちゃいけないね。

 十分後————俺は帰りの車にて、今日という日を振り返っていた。

 糞とは主に老廃物や腸壁細菌の死骸、食物の残骸は5%に過ぎない、つまりほとんどが体内で生成された物だ。あの忌まわしき物体を己が生成したなどにわかに信じられない、人はクソ袋とはよく言ったもの。
 たった一人の排便処理に大の大人が何人も必要となり、時には工場一つを丸々巻き込んでしまう。

 人は一日一回うんこをする、それは恥ずかしい事ではない。

 だが世界的に見れば、一日に七十億のうんこが生産されている事になる。

 ————世界がうんこに覆われる日も近いのでは?

 そんな事を考え、不意にフラッシュバックしたあの光景にビクリとしながら、車内では仮面女子のハル・メギドが流れていた————

 そして帰って早々、このブログを書いた。
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