6 ミシスとノエリィ
文字数 4,043文字
その日の朝、食事を終えて自由な時間になると、ミシスはいてもたってもいられず、中庭に出て客人を待つことにしました。いつもはどこか落ち着ける場所に腰かけて本を開いている時間帯でしたが、今はとても文章が頭に入ってきそうになかったのです。
グリューが説明してくれたところによると、今日これからミシスとの面会に訪れるのは〈ハスキル・エーレンガート〉という名前の女性の教師で、学校の名称も院長である彼女の苗字をそのまま冠 する〈エーレンガート女学院〉であり、それはおおよそ15歳から18歳までの女子生徒だけを集めた高等教育機関であるとのことでした。
とはいえ、ミシスにこういった説明をしてくれたグリュー自身も、まだあまりくわしい情報は把握できていないようでした。
「なにしろ、思いがけず急遽まとまった話だったんだ」少し申しわけなさそうに、昨日彼は話していました。「おれもその学校の名前を聞いたことはなかったし、まだ学院長に直接会ったこともない。でもとにかく、信頼だけは置けそうなんだ。まぁなんにせよ、きみ自身の目でたしかめるのがいちばんだと思うよ。なにしろ、自分の身を預けることになるかもしれない人なんだからさ」
このところ連日快晴が続いていて、王都の空はどこまでも澄みきった青に染め上げられています。春の風は穏やかで、空気は人肌のように暖かく、花も草樹も鳥もなにもかも、夢のような輝きに包まれています。そしてその自然の恩恵は、この鉄柵で囲まれたささやかな中庭にだって、ちゃんと公正に届けられています。
ミシスは病院の正門を真正面に見ることのできる樹の下で、その背を幹に預けて一人で立っていました。顔見知りの女性看護士が近くを通りがかり、「気が早いわねぇ」とからかうように言って去っていきました。
(そう、たしかに気が早いのかもしれない。でもなにも手につかないんだもの、仕方ないじゃない……)
面会の時刻は、その日の午前中に予定されていました。正確な時間は指定されていませんでしたが、ともかく昼までには必ずお越しになるという話でした。
王都から遠く離れた土地にあるエーレンガート女学院は、現在長い休暇の期間に入っていて、学院長はそれを利用して仕事上の用件と観光を兼ねた旅行で王都を訪れているということでした。あと数日はこちらに滞在するという予定のなか、たまたまこの日は夕方近くまで時間が空いたために、今回の面会が組まれたのでした。
(こんな、記憶も失くした、素性もなにもわからない人間を引き取ってくれるなんて、いったいどんな奇特なかたなんだろう……)
昨日から何度も何度もくり返してきた疑問を、大きな期待ともっと大きな不安でごちゃまぜになっている頭のなかで、少女は今もまた反芻 していました。
そして、思っていたよりもずっと早く、少女の目はその人の姿をとらえました。
病院の正門を出入りする人の数は多かったけれど、どうしてだか、ミシスにはその人のことが一目でわかりました。
それはとても小柄で、見るからに温和そうな、丸顔の女の人でした。裾の長いしっとりとした生地の白いコートを羽織り、その下に顔をのぞかせる小さな両足は光沢のある革靴に収まっています。頭を包むように短く整えられた髪は、金と銀のちょうど中間くらいの色をしています。大きな琥珀色の瞳が、彼女に実によく似合っている丸眼鏡の奥で、きょろきょろと愉快そうな動きを見せています。顔立ちは若々しく、体の小ささもあいまって、外見からはまるで年齢が読み取れません。25歳から45歳のあいだなら、どれを言われても納得してしまいそうです。
ただ、ミシスがとても戸惑ったのは、その小柄な女性が、二人いたことでした。
門をくぐって中庭をこちらにまっすぐ向かってくる小柄な女性は、文字どおり、二人いたのです。
少し先に立って歩く、先ほど目に留めた短髪の女性の後ろを、まるで生き写しのようにそっくりな姿かたちをした女性が、もう一人歩いていました。髪の色も、瞳の色も、顔立ちも体格も、優しそうな口もとも歩きかたも、そしてなんと丸眼鏡までもが、ほとんどまったくおなじです。ただ、後ろの女性は髪が少し長く、それを頭の左の方でゆるく結っています。真っ白な厚手のケープをまとい、気の良いキノコの茎のようにすらりと伸びる両脚は薄紅色のタイツに包まれています。靴は底が浅い革靴で、爪先のあたりに大きなリボンが飾りつけられています。
不思議なのは、この二人は見た目はそっくりなのに、後ろの女性の方がどう見ても歳若く、ミシスと同じくらいの年齢にしか見えないことでした。
二人がそろって好奇心を湛えた視線を四方八方に向けつつ、のんびりとした足取りで中庭を横切ってくるのを、ミシスは微動だにせずに見つめていました。
それは、とても長い時間のように感じられました。少女は、いったいどちらの女性に声をかけたらいいのか、それともやっぱり人ちがいかもしれない、自分の勘違いかもしれない、などと考えて、まごついていました。
やがて、大きな声を出せば話しかけられるほどの距離まで二人が近づいてくると、その時になって急に、ミシスは自分の格好のみすぼらしさが、猛烈に恥ずかしくなってきました。
あちらの二人がきちんとした外出着を身に着けているのに比べ、自分は入院患者に支給されるなんの面白味も美的意匠も施されていないただの大きな布で体を覆っているだけ。靴は靴と呼べる代物 とはほど遠い、世間では家の裏庭の掃除をする時にだけ履かれるようなぺらぺらのサンダル。伸び放題の癖毛の髪は手入れをしていないのでぱさぱさで、さっき念入りに梳 かしたばかりなのに、もうふわふわとクラゲみたいに暴れだしている始末。化粧はしていないどころか、やりかたさえわかりません。
「なんてこと……」
少女は両手で顔を隠して唸りました。どうにかして、もっとまともな格好をしておくべきだった。こんな姿で大切なお客様を出迎えるなんて。きっとがっかりされるにちがいない。あぁ、とは言っても、わたしにあるのは、あのぼろぼろの青いローブ一着だけだし……。
「もしかして、あなたがミシスさん?」
はっと顔を上げると、短髪の方の女性の穏やかな笑顔が、ミシスのすぐ目の前にありました。
痺れるほどの緊張が全身に走りましたが、すぐさま胸中で自らを叱咤激励して、少女はしゃんと背筋を伸ばしました。
「――はい。わたしが、ミシスです」かくかくと顎を動かして、慎重に返事をします。「あの、もしかして、あなたが……」
「ええ、今日あなたに面会を申し込んだ、ハスキル・エーレンガートです。エーレンガート女学院の、学院長をしているわ。はじめまして、ミシスさん」
そう言ってハスキルは握手を求めました。ミシスはその手を両手でしっかりと包むように握り返します。
「こちらこそ、はじめまして。お会いできて、とても嬉しいです」
「わざわざ出迎えてくださったのね。ありがとう」
「とんでもないです」少女はぶんぶんと首を振ります。「あの、どうして、わたしのことがわかったのですか?」
「娘とおなじくらいの歳だって、うかがっていたからね」ハスキルは言いながら後ろを振り返ります。「ノエリィ」
呼ばれた少女が、ひょっこりと前に出てきて、ミシスの前に姿勢よく立ちました。
二人の少女は、ここで初めて、正面から互いの目を合わせました。そして両者ともに少し恥じらいつつ、友好の笑顔を交換しました。
「はじめまして。わたし、ノエリィ・エーレンガートです。こちらの、お母さんの、娘です」
「ミシスです。はじめまして、ノエリィさん。お会いできて嬉しいです」
どちらからともなく、二人は握手を交わしました。重なりあう二人の小さな手のうえに、金色の木漏れ日がちらちらと踊ります。
「わたしもです」ノエリィが母譲りのくりくりとした瞳を輝かせます。「想像してたよりずっとかわいい人で、とても嬉しいです」
そんな賛美を受ける用意はまったくできていなかったので、ミシスは頬を赤く染めてたじろいでしまいました。でも同時にその胸の内では、わたしを訪ねてきてくれたこの人たちは、服装や髪型で他人を判断したり蔑 んだりすることなど決してしない人たちなのだという確信が得られて、心からの安堵を覚えていました。
「あの、お、驚きました」照れ隠しをするように、ミシスは早口で言います。「てっきり、先生がお一人でいらっしゃるものとばかり思っていたので……」
「あぁ、言ってなかったものね。驚かせてごめんなさい。今は学校がお休みだから、ちょうど良い機会だと思って、娘も誘って一緒に来ていたのよ。私はここで仕事の用がいくつかあるけど、それ以外の時間は母娘 で王都観光でもしようと思ってね」
「そうでしたか。貴重なお時間を割いていただいて、感謝します」
ミシスのその言葉を受けて、母と娘は、まったくおなじほほえみを浮かべて、まったくおなじ動きで首を横に振りました。
思わずミシスは笑ってしまいました。
「どうしたの?」ハスキルが首をかしげます。
「いえ、すみません」ミシスは慌てて頭を下げます。「先生があんまりお若くて、お二人が、その、まるで双子の姉妹みたいに見えるものですから……」
「よく言われるわ」
言われた二人は苦笑して顔を見あわせ、これもまたまったくおなじ口調で声をそろえました。それは、一日に一回は毎日必ず誰かにそう言っているのではないかと思えるくらい、言い慣れた口ぶりでした。
それから三人は連れだってミシスの病棟へ向かい、そこで待ち受けていた主治医や専門医と合流しました。診断書の精査と、大人たちだけの協議があるから、二人はしばらく席を外していなさい、との通達がありました。当人が席を外すことになるのはちょっと心外でしたが、きっと自分には及びつかない話や事情があるのだろうと、ミシスは自分を納得させました。
こうして、ミシスとノエリィは二人きりになりました。
グリューが説明してくれたところによると、今日これからミシスとの面会に訪れるのは〈ハスキル・エーレンガート〉という名前の女性の教師で、学校の名称も院長である彼女の苗字をそのまま
とはいえ、ミシスにこういった説明をしてくれたグリュー自身も、まだあまりくわしい情報は把握できていないようでした。
「なにしろ、思いがけず急遽まとまった話だったんだ」少し申しわけなさそうに、昨日彼は話していました。「おれもその学校の名前を聞いたことはなかったし、まだ学院長に直接会ったこともない。でもとにかく、信頼だけは置けそうなんだ。まぁなんにせよ、きみ自身の目でたしかめるのがいちばんだと思うよ。なにしろ、自分の身を預けることになるかもしれない人なんだからさ」
このところ連日快晴が続いていて、王都の空はどこまでも澄みきった青に染め上げられています。春の風は穏やかで、空気は人肌のように暖かく、花も草樹も鳥もなにもかも、夢のような輝きに包まれています。そしてその自然の恩恵は、この鉄柵で囲まれたささやかな中庭にだって、ちゃんと公正に届けられています。
ミシスは病院の正門を真正面に見ることのできる樹の下で、その背を幹に預けて一人で立っていました。顔見知りの女性看護士が近くを通りがかり、「気が早いわねぇ」とからかうように言って去っていきました。
(そう、たしかに気が早いのかもしれない。でもなにも手につかないんだもの、仕方ないじゃない……)
面会の時刻は、その日の午前中に予定されていました。正確な時間は指定されていませんでしたが、ともかく昼までには必ずお越しになるという話でした。
王都から遠く離れた土地にあるエーレンガート女学院は、現在長い休暇の期間に入っていて、学院長はそれを利用して仕事上の用件と観光を兼ねた旅行で王都を訪れているということでした。あと数日はこちらに滞在するという予定のなか、たまたまこの日は夕方近くまで時間が空いたために、今回の面会が組まれたのでした。
(こんな、記憶も失くした、素性もなにもわからない人間を引き取ってくれるなんて、いったいどんな奇特なかたなんだろう……)
昨日から何度も何度もくり返してきた疑問を、大きな期待ともっと大きな不安でごちゃまぜになっている頭のなかで、少女は今もまた
そして、思っていたよりもずっと早く、少女の目はその人の姿をとらえました。
病院の正門を出入りする人の数は多かったけれど、どうしてだか、ミシスにはその人のことが一目でわかりました。
それはとても小柄で、見るからに温和そうな、丸顔の女の人でした。裾の長いしっとりとした生地の白いコートを羽織り、その下に顔をのぞかせる小さな両足は光沢のある革靴に収まっています。頭を包むように短く整えられた髪は、金と銀のちょうど中間くらいの色をしています。大きな琥珀色の瞳が、彼女に実によく似合っている丸眼鏡の奥で、きょろきょろと愉快そうな動きを見せています。顔立ちは若々しく、体の小ささもあいまって、外見からはまるで年齢が読み取れません。25歳から45歳のあいだなら、どれを言われても納得してしまいそうです。
ただ、ミシスがとても戸惑ったのは、その小柄な女性が、二人いたことでした。
門をくぐって中庭をこちらにまっすぐ向かってくる小柄な女性は、文字どおり、二人いたのです。
少し先に立って歩く、先ほど目に留めた短髪の女性の後ろを、まるで生き写しのようにそっくりな姿かたちをした女性が、もう一人歩いていました。髪の色も、瞳の色も、顔立ちも体格も、優しそうな口もとも歩きかたも、そしてなんと丸眼鏡までもが、ほとんどまったくおなじです。ただ、後ろの女性は髪が少し長く、それを頭の左の方でゆるく結っています。真っ白な厚手のケープをまとい、気の良いキノコの茎のようにすらりと伸びる両脚は薄紅色のタイツに包まれています。靴は底が浅い革靴で、爪先のあたりに大きなリボンが飾りつけられています。
不思議なのは、この二人は見た目はそっくりなのに、後ろの女性の方がどう見ても歳若く、ミシスと同じくらいの年齢にしか見えないことでした。
二人がそろって好奇心を湛えた視線を四方八方に向けつつ、のんびりとした足取りで中庭を横切ってくるのを、ミシスは微動だにせずに見つめていました。
それは、とても長い時間のように感じられました。少女は、いったいどちらの女性に声をかけたらいいのか、それともやっぱり人ちがいかもしれない、自分の勘違いかもしれない、などと考えて、まごついていました。
やがて、大きな声を出せば話しかけられるほどの距離まで二人が近づいてくると、その時になって急に、ミシスは自分の格好のみすぼらしさが、猛烈に恥ずかしくなってきました。
あちらの二人がきちんとした外出着を身に着けているのに比べ、自分は入院患者に支給されるなんの面白味も美的意匠も施されていないただの大きな布で体を覆っているだけ。靴は靴と呼べる
「なんてこと……」
少女は両手で顔を隠して唸りました。どうにかして、もっとまともな格好をしておくべきだった。こんな姿で大切なお客様を出迎えるなんて。きっとがっかりされるにちがいない。あぁ、とは言っても、わたしにあるのは、あのぼろぼろの青いローブ一着だけだし……。
「もしかして、あなたがミシスさん?」
はっと顔を上げると、短髪の方の女性の穏やかな笑顔が、ミシスのすぐ目の前にありました。
痺れるほどの緊張が全身に走りましたが、すぐさま胸中で自らを叱咤激励して、少女はしゃんと背筋を伸ばしました。
「――はい。わたしが、ミシスです」かくかくと顎を動かして、慎重に返事をします。「あの、もしかして、あなたが……」
「ええ、今日あなたに面会を申し込んだ、ハスキル・エーレンガートです。エーレンガート女学院の、学院長をしているわ。はじめまして、ミシスさん」
そう言ってハスキルは握手を求めました。ミシスはその手を両手でしっかりと包むように握り返します。
「こちらこそ、はじめまして。お会いできて、とても嬉しいです」
「わざわざ出迎えてくださったのね。ありがとう」
「とんでもないです」少女はぶんぶんと首を振ります。「あの、どうして、わたしのことがわかったのですか?」
「娘とおなじくらいの歳だって、うかがっていたからね」ハスキルは言いながら後ろを振り返ります。「ノエリィ」
呼ばれた少女が、ひょっこりと前に出てきて、ミシスの前に姿勢よく立ちました。
二人の少女は、ここで初めて、正面から互いの目を合わせました。そして両者ともに少し恥じらいつつ、友好の笑顔を交換しました。
「はじめまして。わたし、ノエリィ・エーレンガートです。こちらの、お母さんの、娘です」
「ミシスです。はじめまして、ノエリィさん。お会いできて嬉しいです」
どちらからともなく、二人は握手を交わしました。重なりあう二人の小さな手のうえに、金色の木漏れ日がちらちらと踊ります。
「わたしもです」ノエリィが母譲りのくりくりとした瞳を輝かせます。「想像してたよりずっとかわいい人で、とても嬉しいです」
そんな賛美を受ける用意はまったくできていなかったので、ミシスは頬を赤く染めてたじろいでしまいました。でも同時にその胸の内では、わたしを訪ねてきてくれたこの人たちは、服装や髪型で他人を判断したり
「あの、お、驚きました」照れ隠しをするように、ミシスは早口で言います。「てっきり、先生がお一人でいらっしゃるものとばかり思っていたので……」
「あぁ、言ってなかったものね。驚かせてごめんなさい。今は学校がお休みだから、ちょうど良い機会だと思って、娘も誘って一緒に来ていたのよ。私はここで仕事の用がいくつかあるけど、それ以外の時間は
「そうでしたか。貴重なお時間を割いていただいて、感謝します」
ミシスのその言葉を受けて、母と娘は、まったくおなじほほえみを浮かべて、まったくおなじ動きで首を横に振りました。
思わずミシスは笑ってしまいました。
「どうしたの?」ハスキルが首をかしげます。
「いえ、すみません」ミシスは慌てて頭を下げます。「先生があんまりお若くて、お二人が、その、まるで双子の姉妹みたいに見えるものですから……」
「よく言われるわ」
言われた二人は苦笑して顔を見あわせ、これもまたまったくおなじ口調で声をそろえました。それは、一日に一回は毎日必ず誰かにそう言っているのではないかと思えるくらい、言い慣れた口ぶりでした。
それから三人は連れだってミシスの病棟へ向かい、そこで待ち受けていた主治医や専門医と合流しました。診断書の精査と、大人たちだけの協議があるから、二人はしばらく席を外していなさい、との通達がありました。当人が席を外すことになるのはちょっと心外でしたが、きっと自分には及びつかない話や事情があるのだろうと、ミシスは自分を納得させました。
こうして、ミシスとノエリィは二人きりになりました。
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