第九章

文字数 8,475文字

第九章

数日後。

今日も富貴子は、雅美君にジャージを着せて、家を出た。

「どこに行くの?」

無邪気に聞く雅美君に、

「あの、きれいなおじさんがいるところよ。今日もママ、買い物に出ちゃうから、おじさんにあずかってもらおうね。」

とだけ言っておく。

晋太郎には、最近気分がよいので、雅美を連れて静岡に買い物に出ている、と言ってある。実は、どうしてもほしいものがあり、パルコまで必ず買いに行っているのだが、なかなか入荷しないようなので、何回も通い詰めて、入荷するのを待っている、とごまかしている。

「ママのそんなにほしいものって何?」

電車の中でそう聞いてきたので、思わずぎくっとしてしまう富貴子。

「あ、あ、気にしないで。ママの大事なものだから。な、なんでそんなこと聞くの?」

「だって、そんなに買いに行きたがるから、、、。」

「大掛かりなものだから、いつまでたっても入ってこないんだって。お店の人に何回聞いても、わからないわからないって、その繰り返しなのよ。だから、もう何回も買いにいかなきゃいけないのよ。」

「パパが、よほど必要なものだって言ってたけど、あたらしいテレビ?」

またギクッとする。

「違うわよ。」

とだけ答えておいた。また、がっかりした表情をする雅美君。

「もう、テレビなんて、新しいのはすぐに家電屋さんで買えるわよ。」

「じゃあ、テレビよりももっと、お金がかかるものなんだね。じゃあ、楽しみに待ってるね。」

となると、それを買ってこなければならないなんて、痛い出費だ。そんなことしたくないけど、子供というのは変なところで悪知恵がついてしまうのだろうか。

「テレビより、お金がかかるってことは、うちをリフォームするとかそういうことなの?ママ?」

は?何を言う?と思った。

「そんなリフォームなんてするわけないでしょ。誰か足の悪い人が出たとか、そういうときにするものよ。家の改造ってのは。」

そう訂正しておくが、さらに好奇心のある目で見つめてくる雅美君。

「だって、テレビはものすごくお金がかかるって、聞いたから、、、。それより高いってことは、パソコンでも買うの?」

確かに、富貴子の家にはパソコンはなかった。一応、晋太郎は仕事で使用するため、ノートパソコンを持ち歩いて外出することはよくあったが、富貴子専用というものはない。

「違うわよ。何を言ってるの。パソコンだって、そんなに高いものではないでしょう、今は。」

と、訂正しておくが、

「じゃあ、パソコンって、何円くらいで買える?テレビより安いの?」

と聞いてくる雅美君。

「そうねえ、15万くらいかなあ。」

実は富貴子、パソコンを買ったことがないので、値段を詳しく知らなかったのだった。15万なんて適当に言った数字で、何も根拠はない。確かに、高級なパソコンならそのくらいするものもあるが、晋太郎が買ったノートパソコンは、そこまで高いものではなかった。それを知っていたのか、雅美君は、そこまでするかというような顔をした。

「ちょっと、何を聞くの?パソコンがほしいなんてわがまま言うもんじゃないわよ。うちには、そんな余裕なんてないんだからね。」

ちょっと語勢を強くしてそういうと、雅美君は、また疑い深そうな顔をした。

「その顔はなに?」

「宝石でも買うの?」

いきなりそう聞いてくる雅美君。

「何?どうしたの?いきなり根掘り葉掘り聞いて。」

富貴子がそういうと、そんなことどうでもいいじゃないか。ただ聞いてみたいだけなのに、という顔をした雅美君。

「ほら、ダメよ。理由を言いなさい。ママに質問して、自分はママの質問に答えないなんて失礼よ。」

「だって聞いてみたかっただけだもん。」

雅美君にしてみれば、そう思ったから聞いてみただけなのであるが、富貴子は、何か疑いを持ってしまったのである。

これはもしかして、と思った。

ちょうどそのころ、電車が終点である、吉原駅に到着した。

「お客さん、終点ですよ。降りてください。」

若い女性がそう声をかけてきて思わずはっとする。駅員の由紀子が、いつまでも電車から降りないので、声をかけただけなのであるが、なぜか上から八つ当たりのような感じで、説教をされたようで、むっとしてしまった。

「だから、終点ですってば。この電車、車両点検をして、車庫に入りますから、出てもらわないと困ります。」

確かにその通りなのか、由紀子は掃除用の箒を持っていた。

「あら、ダイヤ改正でもしたのかしら?」

と、わざとらしく聞いてみると、

「ダイヤ改正なんかしてませんよ。いつもこの電車はそうなんですよ。」

当たり前のように言う由紀子。それがさらに癪にさわった。

「とにかく出てください。いつまでも乗っていられると困ります。」

「知らなかったんだから、早く教えてちょうだいよ。」

「ママ、この前の時だって駅員さんは箒もって立っていたじゃないか。忘れたの?」

富貴子がそう返すと、雅美君が笑いをこらえながら、そういった。これを見て、富貴子は、例の床に臥せたといわれるあの美しい男が、雅美に仕組んだのではないかとさらに疑う。

「大人を馬鹿にするもんじゃないわよ!」

と怒って雅美君を無理やり立たせ、電車を降りて行った。由紀子は、そのまま車内清掃を開始しながら、やっぱりこの親子、どこかおかしいなと思った。

製鉄所では、雅美君をたぶらかした覚えの全くない水穂が、縁側に座って、鹿威しを眺めていた。特に理由もなく、咳がしたくなってせき込むと、立て続けに出て、止まらなくなってしまうのである。

これを見かねた恵子さんが、四畳半にやってきて、

「もう、本当に最近よくやるようになったねえ。蘭ちゃんのいうことも間違いじゃないわ。これからは、やるたびに正の字を書いて、チェックしてもらおうかなあ。そうすれば、回数が増えたのがわかるから。」

といったほど、ひどいものであった。

「いや、変わりありませんよ。風の多い季節ですから、砂埃でも入っただけじゃないですか。」

といっておきながら、内容物がどっと出て、座っていた座布団を汚した。

「ほら、言っているそばから。それに今日は、砂埃が舞うほど風は吹いてないわよ。鹿威しなんて眺めている暇があったら、布団に入って、早く寝て。」

なんだか子供に言い聞かせるような嫌な気分になって、恵子さんはそう言ったが、水穂はいやそうな顔をする。

「そのくらい、こっちで何とかしますから、何かある度に寝ろ寝ろなんて、言わないでくださいよ。」

やっとそれだけ口にして、持っていた手拭いで手を拭いた。

「ダメ。寝てなくちゃ。顔を見たってわかるわよ。すでにかったるいのは。ほら、早く寝て!その間に、座布団はクリーニングに出してくる。」

「でも、座布団をクリーニングに出されたら、座るところがなくなるでしょうに。せめて代用品を買ってくるとかしないと。」

「だから、代用品もいらないの。座布団が戻ってくるまでの間、布団に寝てなきゃいけないんだっていう、分別もないの!」

しまいにはムキになって怒る恵子さんである。

「だから、寝ていれば寝ているで、、、。」

と言いかけて黙ってしまう。そういえば、さらに自分にとってはつらい一言がやってくる。本人としていれば、寝ているのも頭痛で結構つらいものがあるので、縁側に座っていたほうがましであるのだが、そんなこと言ったって、理解はしてもらえないだろうな、と予想できた。恵子さんにしてみれば、とにかく安静にしていてもらいたいという気持ちなのだが、伝わらなくて、イライラする。

「とにかく、早く寝て!こないだ、あのやくざの親分みたいな、オーボエの先生に誘われてコンサート行ってから、また悪くなってきたのはお見通しよ。」

「ごめんなさい。すみません。」

女の人は感情的になって推し進められるという武器があるな、と思いながら水穂は、四畳半に戻って、布団に横になって寝た。その間に、汚れた座布団は、恵子さんに連れられて、クリーニング屋に行ってしまったので、さらに落ち込んでしまう。しばらくは、寝ていなくちゃダメか、と半分あきらめかけていると、玄関先で話声がする。あれ、クリーニング屋ってこんなに早く帰ってこれるほど近かっただろうか?と考えるが、話をしているのは、青柳教授と、ほかの誰かのようだ。まあ、青柳教授のことなので、恵子さんのような押し問答をする可能性は低いが、結構話し声は続いている。また強引な、セールスが来たのかな、くらいしか考えていなかったのだが、、、。

そのまま、少し眠くなって、といっても完璧に眠るということはできないから、うとうとしている程度ではあったが、布団で横になっていると、

「おじさん、こんにちは。」

と、子供の声がして目が覚める。

「おじさん。」

もう一度声がするので、する方を確認すると、雅美くんが正座ですわっていた。

「お昼寝してた?」

「あ、あ、ごめん。」

急いで布団の上にすわった。やっぱり布団から起きると鈍い頭痛がした。

「どうしたの、今日は。」

「ママがまた、買い物にいっちゃったから。」

「そうなんだね。」

とりあえず、それを答えて

「何をそんなに欲しがるんだろうね。」

と言ってみた。

「わかんない。テレビでもパソコンでもないし。となると、宝石屋さんでもいったのかなあ?」

「宝石屋さんね。自分のだけでなく君の新しい服も、買ってくれるといいのにね。またこの前と同じジャージでは、嫌でしょう?」

そうきいてみると、雅美君は、ちょっと考えて

「うん、保育園でも、みんな毎日違う格好をしている。」

と、正直に言った。

「その方が楽しいもんね。毎日違うのきて、服選びに忙しい方が、たのしいよね。」

「でもさ、おじさんもいつもおんなじ着物だね。」

そう言うと、雅美君は、またそんな風に指摘した。

「おじさんはずっと寝ているからいいんだよ。どこかへでる訳じゃないから。毎日毎日布団の上だもの。」

思わず笑ってそう返すと、

「ずっと寝ている時は、おんなじものを着ていなければいけないの?」

と変なところに着目するのだった。

「だって、雅美君だって、パジャマを何十枚も持ってはいないでしょう?それと同じだよ。」

「違うよ。保育園でお昼寝するときは、みんな違うものを着ているよ。」

なるほど、今時の保育園では、子供といえどもみんなオシャレなんだなあ、、、。

「女の子なんて、保育園の先生がパジャマファッションショーなんていって、みんなで見せっこしてる。そんなときに、おじさんみたいな格好をしたら、みんな大笑いなんじゃないかなあ。」

時代も変わったなあと思う。というか、あまりにもものが揃いすぎて、そういうことするしか、楽しみを見いだせない子供が多いのだろう。保育士の先生が、そんな演出をしなければならないなんて、ご苦労な話だ。

「そうなんだね。今時の保育園は、そんなことまでするんだね。」

「うん、みんなかわいいよ。でも、時々先生が笑うの。あら雅美くん、またおんなじもの持ってきたの?そんなに下町ロケットのキャラクターが好きなのねって。」

「で、周りのみんなは何て言う?」

「うん、みんな笑ってるよ。雅美は、下町ロケットの大ファンだからなって。」

まだ保育園という年齢だから、笑っているという反応だけですんでいるのだと思うが、もう少し年齢が高くなると、雅美君の家が貧乏であると周りの子も気づくだろうし、本人も、なぜ自分のパジャマだけが、いつもおんなじ柄なのか、疑問がわいてくる筈だった。それはある意味、分別がついてくるということだから、自然なことだ。でも、周りの大人がうまく解説してやらないと、ある現象が発生して、雅美君の人生は不幸なものになるのは間違いなかった。

でも、いま彼にそれを語って聞かせるのは、かわいそうだとも思ってしまった。自分のような、歴史的な事情ではないし、周りの大人の協力があれば、雅美君は、改善する可能性もあったからだ。そうなるためには、ママである富貴子さんが、はやく気がついてくれるのが、一番の近道なのだが、自分には、そうしろと言い聞かす力はないことも、知っていた。

静岡の百貨店内に、鰻屋があった。富貴子は、そこにいくと、そこにいる中年の男性と話をするのがお決まりである。

「え?何で?」

富貴子が、がっかりした顔で男性の顔をみていた。

「当たり前だよ。旦那も子供もいて、なんでわざわざ付き合おうなんて言い出すのさ。そんなあぶない関係を望むほど、俺だってバカじゃないよ。」

男性は、そんな顔をしてふいっと煙草の煙をふく。

「だって、この前は付き合ってくれるって。」

もう一度反論する富貴子。

「だから、それは知らなかったから。そのときはなにも知らされてないからだよ。でも、手帳に家族写真をいれておくような人とは、やっぱり付き合えないよ。いくら家族が嫌だからって、それを残しておくような人では、養育とか親権とか、変な問題がでて、それに巻き込まれるようなことは、したくないからね。」

実は、富貴子は鬱の症状があったため、手帳にいれておいた、雅美と晋太郎、そして竹村さんたちと一緒に釣り堀でとった写真を、隠すのを忘れていたのである。

「もう、気にしないで。近いうちにこの人たちとは、別れるから。私は、親権者にはならないつもり。子供だって、他人になついてばっかりで、私のほうには振り向きもしないもの。だから、私だって必要ないのよ。だから、すんなり別れられるわ。」

「それはそうかもしれないけど、法律上でいったら、子供にとっては、実母に勝らないものはないよ。それにいくら離婚できたとしても、実母なんだから、子供と完全に別れられるってことは、できないと思うぞ。」

「そんなことないわよ。子供だって、私のほうには見向きもしないし、家に帰れば夫と遊んでばっかりよ。今日だって、預けてきたところにすんでいる、映画俳優なみに綺麗な顔したおじさんに、会いに行こうっていったら、またきらきら星がきけるなんて、喜んでいたわ。」

「なんだ、つまり二股どころか、何十股もかけているのか。もう、男というのは、道具じゃないんだよ。そんなやり方をするような人と、付き合うなんて嫌だねえ。」

「二股なんかかけてないわ。私は、あなたがいいって、何回も言ったわよ。」

男性はなかなかよしとしてくれなかった。昔の阿部定事件のようにはならないか。

「じゃあ、その子供を預けている家との関係を言ってみろ。言えないなんて、いわせないよ。」

男性が、そんなことを言い出すので、

「だから、親戚よ。実家の母の知人がいて、そのお兄さん。それだけのこと。それにそんなに長く生きられるというはずではないわ。」

と、でたらめなことを富貴子はいい始めた。

「じゃあなんだ、映画俳優並みに綺麗な人って。」

女同士で容姿のために、妬みあうことはよくあるが、男がそういうのは、滅多にないことだった。

「変な人ね、どうでもいいでしょう?あなたより綺麗なひとっていって何が悪いの?いまは、思い入れもなにもないんだから、そんなこと気にしないでよ。それとも、私が、あなたより綺麗な人と付き合ってたと知ると、気分悪くなるとでも?」

「いや、困るんだ。一緒になるのであれば、現在であれ過去であれ、全部のことを知っておかなくちゃ。法律的なことばかりではないよ。そう言う綺麗な人であれば、もしかしたら売春にはまってたとか、あったかもしれない。」

「あ、それはないわ。少なくとも、綺麗な人ではあるけれど、そう言う風にモテる人ではないから。いまはもう臥しちゃってて、多分来年まで持たないわよ。」

男性はさらに変な顔をする。

「それじゃあ余計にいやだなあ。旦那がいるだけではなく、すでに不倫したことがあって、しかも相手は来年まで持たないと堂々と言えるなんて。さほど、器量があるわけでも無さそうな顔なのに、映画俳優並みという人と、不倫関係にまでなれるとは。」

「少なくとも、綺麗な人であることは確かだけど、関係を持つ気にはなれないわね、あんな人。息子とは、かなり仲はよいみたいだけど、結核が伝染るといやだもの。」

「あ、やっぱりね。つまりそういうわけね。やっぱりそうだよ。あんまりにも綺麗すぎて、吉原にでも通いつめてそう言うもんを頂いてきたんだろ。いまどき、そう言うところにいかないと、まずかからないから。俺だって、そう言う男はバカだってことは、ちゃんと知っているさ。そして、それに惹かれちゃう女ってのもバカなことはちゃんと知っている。明治くらいの文献でもあるまいし、いま時、そんなのと不倫関係になるような女とは付き合う気にはなれないね。」

そういって、男性は椅子から立ち上がって、

「今日の食事代は出しておいてくれ。」

と言い残して店を出ていってしまった。

富貴子は、悔しいというより、はやく邪魔なやつらを始末しなければと思った。よし、こうなったら、はやく晋太郎とも雅美とも別れて一人になろう。そうならなければ、私が幸せになれる道はない。そんなことを決断し、買い物袋をもってかえるのを忘れて、店の店員に高い食事代とサービス料を支払い、辛うじて残ったお金で電車にのって富士へ帰った。

「ピアノ弾いてよ、おじさん。」

不意に雅美君は、そんなことを言い出した。水穂にしてみたら、この間のように、何回も繰り返して演奏できるか、というと、そうではない。ただ、雅美君にとって、今日の楽しみは多分これしかないんだろうなと思われたので、

「いいけど、この前みたいに何回もせがまないでね。」

と、念を押し、布団から立ち上がり、机の上の楽譜をとって、ピアノを弾き始めた。またきらきらひかる、なんて歌い出す雅美君は、本当に可愛らしくて、なんだか演奏をやめてしまう方が、申し訳ない気がしてしまった。雅美君も、何回もせがまないでねと念を押されたのをどこかに忘れて、最終変奏が終われば、お約束通り、もう一回、もう一回と頼んできたため、演奏は何回も続けられた。

もう勘定するのも忘れてしまうほど、演奏を繰り返していると、水穂も疲れきってしまった。雅美君の一番好きな変奏が、最終変奏であることは知っていて、それが近づくにつれてだんだんに無邪気さが増してしまうことが、ある意味切なかった。そのときも、第十一変奏をなんとか弾き終わって、さて、最終変奏にいくよ、なんて発言しようと口を開いた途端、声を出す代わりに、激しい咳と一緒に、魚の匂いに近い、生臭い液体様の内容物が、一気に飛び出して鍵盤を赤く染めた。

ちょうどそのころ、すみませんとややきつい声色の声と一緒に玄関の戸が開いて、富貴子が迎えにきた。恵子さんは、クリーニング屋に座布団を持っていったまま、まだ帰ってこなかったため、応答したのは、懍である。富貴子は、この奇妙ともいえる容姿をしている老人がなんとも苦手で、一生懸命迎えに来た理由を取り繕っていると、

「あ、おじさん!」

という金切り声がしたため、懍は、そこで待っていろとだけいって、そちらの方へいってしまった。

自分だけであったら、逃げることはできた。でも今回は中に雅美がいる以上逃げることは無理だった。

中からは、雅美がわあわあ騒いでいる声は聞こえてきたが、もう一人いるはずの人物が、叫んだり苦しんだりという声は全く聞こえて来なかった。雅美がおじさん、とよぶと誰のことなのかすぐにわかるが、その人はどうなったのだろう?やがて、パン!と平手打ちする音が聞こえて、雅美の泣き声もとまる。そのまま、製鉄所はしいんとした無音の空間にかわり、どこからかからすが、かあかあかあ、と鳴き交わすこえのみ聞こえてきた。

「あー、遅くなっちゃった。まったく、クリーニングのおじさんも困ったものだわ。血液のシミって難しいから他へ行けですって。だから、三軒もまわるはめになった。」

そう呟きながら、恵子さんが、製鉄所に帰ってきたが、玄関先で、富貴子が茫然と立ち尽くしているのをみて、

「あら、どうしたんですか?こんなところで?」

と、こえをかける。

「いえ、雅美を預かってもらっていて、、、。」

とだけやっと言えた富貴子。

しかし、恵子さんは、製鉄所がただならぬことになっているのが、直感的にわかってしまったらしい。

「こっちにきなさい!」

恵子さんに腕を引っ張られて、富貴子も、四畳半に連行されていった。
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