第2話 シェルブールの雨傘

文字数 5,965文字

11月晩秋の銀座は霧雨にけぶっていた。



肌寒く陰鬱な夕暮れが僕の気持ちをさらに憂鬱にしていた。



スーツにネクタイを身につけた僕は約束の時間より少し前にやって来て、神妙な面持ちで数寄屋橋公園の交番傍に一人佇んでいた。



頭の中が混乱してどう振る舞っていいか皆目わからなかった。



二ヶ月前に三行半を突きつけられ、縁を切られた元女房に再会するように促されて、ここに来ていたが、会わなければそのままそっと忘れてしまえただろうにと思う気持ちと話し合って再びヨリを戻したいという気持ちが半々で、まだ未練を引きずっていた。



むろん、僕はまだ彼女を愛していた。



潔ぎよく彼女の家を飛び出してきてから今日まで、なんとも寂びしい孤独感にさいなまれた日々であったことか。



一昨日埼玉県の熊谷市に住む兄から電話があり、「典子さんのお母さんから今一度冷静に二人で話し合ってみてはどうかとの依頼があった」ということで、兄自身からもこのままほっておく訳にもいくまいと、別れたばかりの女房との再会を促された。



「じゃー、明後日の夕方、仕事が終わった後に会いに行くよ」



と二つ返事でOKしたのも心の底に断ち切れぬ未練があったからだ。離婚届にはまだハンコを押していなかった。



大学卒業を前にしてから三年間の交際期間というか恋愛期間を経て、両家の親族が四、五十名も集い盛大な結婚式を挙げた。



それから未だ2年半が経ったばかりというのに、急な展開であった。



しかも、一度たりとも口論らしいことも起こさず、突然に離婚宣言を下されるハメに陥ったのである。



離縁されるのが女性の方だったら同情の一つも寄せられるが、ソデにされるのが男の方だったら世間体は悪いし惨じめなものである。



彼女の膝もとに額ずき復縁を乞うなど僕にはとても出来ぬ相談であった。



思えば家を飛び出す二、三日前、何の気なしに口を突いて出た、半分冗談の質問が予期せぬ重大な出来事の始まりとなった。



「何をそんなにふさぎ込んでいるの、ひょっとしたら別れたいなんて考えているんじゃないの」



答えは期待していたものと全く違っていた。



しばらく沈黙を保った彼女が穏やかな口調で答えた返事がなんと、



「そうなの、もう終わりにしたいの」



僕は驚きのあまり二の句がつけず、居間で俯きかげんに掃除をしている彼女をただ唖然として凝視するばかりであった。



それでも気を取り直し、



「へー、まさか、そんなアホな。いったいどういうこと、それ?」



「あなたって、鈍感ね。ずーっとこのところ考えていたのよ」



「.. 全く、気付かなかったよ。そりゃ重大事だ。それじゃ、二、三日しっかりと考えて結論を出そう。ことの次第では、この週末にでもお義父さんお義母さんの前で二人して報告しなけりゃならないことになりそうだ」



「ええ、そうしましょう」



彼女はこともなげに、そう言いきった。



僕はやっと男の体面を貫くのに精一杯であったが、胸の内は、まるでマグニチュード8の強度地震に襲われたみたいに混乱に陥り、卒倒しそうであった。



その後の三日間の、お互いに無言の同居生活は、僕にとって計り知れないショックの日々であったが、ついに運命のその日がやって来た。



正面の義父母の前に妻と僕が神妙に正座して、その後方に証人にと僕が連れてきた大学生の弟が控えていた。



誰かが話し合いの議事進行を受け持つこともなく、家族会議が始まったが、誰も口を開く者がいない。



重苦しい沈黙が座を支配した。



やむをえないと感じた僕が沈黙を破り、たどたどしい口調で口火を切った。



「.. 実は、典子さんが離婚したいと言いだしたのです。.. 彼女に、しばらく考えてもらいましたが、決心がついていれば、今日ここで彼女からご両親に、報告してもらいたいという訳で、お呼びしました」



再び座は沈黙に包まれた。



しばらくして義母が場を和らげるように優しい声で問いかけた。



「典子ちゃん、どうなの?」



「 . . . . . . . . . . 」



みんなが彼女の口元を見つめた。しかし彼女はいぜんとして無言である。



居間の柱時計が「カチッ、カチッ」と静寂の中に十数秒を刻んだ。



針の伪に座っているような感じで居たたまれなくなった僕が発した質問が、結論へと一気に飛躍してしまう結果を招いた。



「よく考えた上でのことでしょうから結論を聞きたいけど、どうしても別れたいの?」



「ハイ...」



「本当に?」



「ウン...」



義母が助け舟を出した。



「ハヤタさんのどこが気に入らないの?話し合って直すことができないの?」



「ウン、ダメなの.. もういいのよ、お母さん...」



僕を傷付けまいとして、僕の性格の嫌なところを言わないのであろうが、また言ったところで改められるようなものではないと判断しているのだろう。要はすっかり嫌われてしまったのだ。



女性が一度嫌いになれば、それは生理的なもので何が何でもイヤだとなってしまい、「考え直してくれ」などと懇願しても逆効果になり、ますます嫌悪感が増長するものだと信じているので、僕はもう手がないと諦めた。



彼女の最後の衝撃的な断言で、すっかり打ちのめされた僕には、これだけ言うのが精一杯であった。



「お義父さん、お義母さん、この通りです。僕はすっかり嫌われてしまいました。僕がいたらぬために、こういう結果を引き起こしてしまい、誠に申し訳ありません...」



深々と頭を垂れた僕は、続く言葉もなく沈黙した。再び場が凍りついた。



しばらくの後、僕はもはやその場に居続けることもかなわず、目を閉じて立ち上がると、「じゃー行こうか」と弟を促して、その場から立ち去った。



その間わずか十数分。



僕という軽薄な人間は、こういう人生の大事な瞬間にわずか十数分しか費やしないのである。



たとえ修復不能の色合いが濃厚でも、あまりにもあっさりとしていて、単に粗野な男ぶりを曝け出しているだけのものであった。



そういう不器用な自分自身を腹立たしく思うが、性格だからどうしようもない。



少なくとも、相手の気持ちを優しく聞き出して、それに対する自分の誠実な対応を所信表明しなければならなかったのだ。



そういう過程を経ての愛の破綻なら僕自身も少しは諦めがつくし、先方の家族も納得がいくというものである。



せかせかと独りよがりに結論を出して、深い喪失感に苛まれ悶えた。愛を無残に断ち切られた切なさと、とてつもない屈辱感で身が震えた。



終わりのない葛藤に胸を締めつけられながら、無言で弟と連れ添い、自由が丘の彼のアパートへ向かう電車に揺られていた。



かつて其処は僕と典子の愛の巣であった。



文京区の彼女の実家に引っ越した時に、大学進学で東京へ出た来た弟へ譲っていた。



四、五日して典子が不在の時着替えの衣類を一度取りに行ったきりで、それ以後にその彼女と一緒に住んでいた実家のアパートを訪れたことはなかった。



約束の七時ぴったりに銀座駅の方から歩いて来る典子を見出した。



彼女の実家は文京区向ヶ丘だから地下鉄丸ノ内線で本郷三丁目からここ銀座まで直通だ。



ベージュのレインコートに身を包み、雨傘を脇にたばさんだ長身の彼女はすれ違う人が振り返るほどのかなりの美人であった。



日本人離れした彫りの深い整った顔立ちと卓越した脚線美は彼女がたまにこなすモデル業に寄与していた。



二人で行った夏場のイタリア旅行では周囲の若者のあまりにも熱い視線に閉口して、そそくさと場所を変えたものであった。



そんな彼女が近ずいて来るのを直視するのもしのびなく僕は目をそらした。



彼女は僕の眼の前に立つと、ぺこりとお辞儀をした。



あいさつを返し、黙って歩き始めた僕のすぐ斜め後ろに彼女も従った。



それぞれの想いを胸中に抱いて無言のさすらいが始まった。



霧雨にも似たしぶきが舞い始めた。



すかさず彼女が僕の頭上に雨傘を差し向けた。



「ありがとう」



と言った僕は、



「僕がさすよ」



と言い、彼女の手からか傘を奪い、彼女の頭上にかざした。



彼女は僕のすぐ横に体を寄せてきた。



恋人時代がよみがえり、むなしい慟哭が胸をついた。



並木通りに入ると霧雨は細い小雨にかわっていた。



何処に行くという当てもなく無言裏の彷徨が続いた。



僕は三、四年前に彼女と一緒に観た映画シェルブールの雨傘を思い浮かべていた。



戦争で愛を引き裂かれた二人の恋人がのちに再会するストーリーである。



カトリーヌ・ドヌーブが演じる元恋人は元彼が出兵した後、他の男と結婚してしまう。



戦後復員した彼も傷心のうちに別の女性と結婚する。



元恋人が再会した元彼氏に



「今幸せか?」



と訊く。



戦争で熱愛の恋人と引きさかれ、死ぬほど愛していた過去の気持ちを抑え、元彼は現在結婚している妻とのあいだにおいて、



「ウイ(うん) 幸せだよ」



といみじくも答える。



今さらどうしようもない相手の女性の立場と彼女の気持ちを気遣った男心のわびしさが僕の胸を突いた。



たとえフラれ方の状況が僕の場合と少々違っているとしても男がフラれる事には変わりがない。



女心のカプリチャス(心変わり)はまさに男の人生において重大なテーマである。



典子の気持ちにどういう変化が起こったのかいまだに未知であるが、もうそこを問い質す事はやめにした。



嫌われた事に違いなく、女心に嫌いという感情が生まれたら、もうそれはどうしようなく修復不可能である事がよくわかっていたからだ。



苦い思い出であるが初恋に敗れた時もそうであった。



いや、もっとこれ以上の痛手を負った。



雨傘の下でそれほど昔の事でもない七、八年前の封印していた、初恋のはかない悲恋物語が蘇った。



熊本県八代市の進学校で同級生だった初恋の相手は旧家の医者の娘で、もう好きで好きでたまらない僕にとっては憧れのお姫様であった。



熱烈な恋愛関係にあり両家の間で婚約も交わされていた。



僕が大学を卒業したら当然結婚するという約束であったにも拘わらず、卒業を前におもいっきりフラれてしまったのだ。



恋に大小の違いは無いとしても、その純真さと情熱においては初恋に勝るものはない。



自殺しようと思い睡眠薬のブロバリンを飲もうとしているところを母親にとがめられ思いとどまった。



その傷心を引きずり二、三年は立ち直れず、やっとこの典子に巡り会い傷心が癒されたというのに。



典子の呼びかけで我に戻った。



「エイシくん、私このお店知ってる、時々仕事のお友達と打ち合わせで来るの」と、目の前のレストランを指さした。



「そう、じゃー入ろうか?」



彼女が先頭に立ち二階への階段を上っていく。



ゆっくりと左右に躍動する彼女のお尻の輪郭を背後から目にして、またもため息が漏れた。



此処が最後のチャンスだ、中へ入ったら今一度じっくりと話し合い、どんな醜態をさらしてもいい、また元に戻ろうと懇願しよう - - -



という衝動が胸を突いた。



間接照明のほど良い明るさが無垢の木材であしらわれたカウンターや壁の柱を美しく輝かせていた。



彼女はレインコートを脱ぐと脇の座席に置いた。純白のブラウスを薄いカーキー色のセータで包んだ上半身は地味ではあるが程よく胸が突き出し上品なムードを醸していた。



L字型のソファーの角に座った彼女を前面にして対峙している僕は、まるで卵の殻に閉じ込められた生まれる前のひよこみたいなものだった。



先ほどの衝動が喉を突いて飛び出すか、殻を突き破れないかの瀬戸際をさまよっていた。



もうダメだ、修復不可能だ - - - でも成功するかもしれない - - - しかしその後、どうせ又同じことがぶり返すだけだ - - - 他に好きな男でもできたのかな、そりゃないだろう- - - じゃー思い切り当たって砕けろだ、やってやろう- - - イヤやめとけ、無駄な事だ、ここは諦めが肝心だ - - -とてつもない葛藤が頭の中をグルグルと駆け巡り、注文したポークソテーが運ばれてきた時ハッと我に返った。



彼女は何もなかったようにすでにフイレーミニョンのステーキを無心にぱくついていた。



この飾り気のない率直な所作が彼女の魅力でもあった。



フッと肩でため息を漏らすと僕はやっとフォークとナイフを手に取った。



ときおりウエイトレスと交わす短い会話をのぞいて二人の間には依然沈黙が漂っていた。



「コーヒーおねがします、あなたは?」



「オレ? いらない」



ウエイトレスは気を利かせてそそくさと去っていった。



背筋をピンと伸ばし豊かな胸元をのぞかせ、一人しずかにコーヒーを喫する彼女の容姿には孤独感と共に孤高の気位が漂っていた。



テーブルの一点を見つめながら今か今かと僕の言葉が降りかかるのを待っている。



ときどき見上げるその眼差しに疑いがいのない固い決意のようなものを感じた僕はただたじろいだ。



復縁に拘泥する気持ちが次第に萎えていった。



もうすべては終わっているのだ、成り行きは決まっている。彼女はすでに将来を見つめている。



交差することのない別々の世界に、はてしなく我われは離れて行くのだ- - -



僕は決意して、静かに立ち上がった、「行こうか」



僕はテーブルの端に置かれたビル(勘定書き)を無造作に掴みキャッシャー(会計所)へ回った。



外は相変わらず小雨がそぼ降っていた。



同じように彼女へ傘をかけ、二人並んで歩き出した。



しばらくあてどもなく歩いた。



「もう、帰ろうか」



「そうね」



これがすべてであった。ひょっとして彼女に気変わりでも起きていればというはかない望みも完全に絶たれた。



彼女は自分の母に言われて義理で出かけて来たに相違ない。



万が一彼女に気変わりでも起きていたり、彼女からもし言いたいことがあったら既に口を開いてただろう。



もう十分に時間を費やした。



これが最終の決別の儀式でもあるかのように彼女は振る舞った。



最後まで紳士的な男らしさを貫いたことに僕も後悔の念はなかった。



そこから銀座駅までの無言裡の十分間が長くもあり短くとも感じられた。



地下鉄、銀座駅の地下道への階段入り口が彼女を地下へ吸い込むように待ち受けていた。



入り口の敷石の上で立ち止まると僕は雨傘を静かにたたみ彼女に渡し、最後の対面をした。



彼女の黒目がちの瞳に涙が溢れていた。



僕はかすかに微笑みを浮かべ、ひとこと、



「幸せにね」



と最後のセリフを口にした。



彼女はゆっくりと頭を下げた。



僕の顔を直視することもなく、俯いたままで僕に背を向けると、静かに階段を降りて行った。



彼女の背を見送る僕の目に涙が溢れた。



僕は踵を返し雨の中に飛び込んだ。



頬を伝わる涙と雨のカクテルがほろ苦く唇を染めた。



しぐれは風に打たれ雨煙にくすぶり、視界が利かず建物も行き交う人の輪郭も覚束なかった。



髪を伝わり雨が間断なく滴り落ちてくる。



濡れそぼった衣服がベットリと身体に付着した。



もう何もかもが、どうでもよかった。



濡れねずみの涙雨の中で、身も心もぼろぼろに打ち拉がれながら、雨空に向かって叫んだ。



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