中
文字数 2,119文字
ハクと同じ、白い犬だった。
しかし、その純白の毛並みはハクよりもはるかに美しい。
四肢は長く、鼻筋がすっと通っている。太い尾、ぴんと立った耳。しなやかで、強靱そうな体つきは、狼をも思わせる。
栄吾が求めていた通りの犬だった。
それが、脇目もくれず東の方へ駆けていく。
栄吾は魅せられたように犬の後を追いかけた。
犬は、松川の橋を渡り、河原に下りた。川辺を辿って行き着いたのは、下河原の刑場だった。
いつしか日も暮れ、満月に近い月が上っていた。
静かに流れる川は月明かりを映していた。川面も犬のつややかな毛並みも、光をふくんでいるかのようだった。
川石に、何か所か黒ずんだ大きな染みが残っていた。今日処刑された罪人の血だ。
しばらくそれをなめ続けた犬は、やがて月を見上げ、刑場に背を向けた。
飼い主の元に戻るのか。
これほどみごとな犬が、野良犬であるはずはないと栄吾は確信していた。誰が飼っているかつきとめ、頼み込んで譲ってもらうことにしよう。
栄吾は、来た時よりも早足な犬の後をつかず離れず追いかけた。犬は再び橋を渡って川井小路に戻り、柳町をすぎて商家が並ぶ東町に入った。
東町のとある家の前で犬は歩みをとめた。
家の戸はわずかに開いている。犬はするりと戸をくぐった。
「あら、お帰りなさいませ」
戸が閉まると、家の中から若い女の声が聞こえた。
「遅うございましたこと」
「すまんな。いろいろ用を足しているうちにこんな時間になってしまったよ」
こんどは男の声だ。
今入ったのは、犬だけだったはず。
栄吾は首をかしげた。別の出入り口でもあるのだろうか。
ともあれ、犬がこの家にいるのは間違いあるまい。飼い主に話をしてみよう。
栄吾は戸を叩いた。
ほどなく、手燭を持った主が現れた。
三十路を越えたぐらいの優男だ。見知らぬ栄吾に、不思議そうに、
「どなたさまでございましょう。何のご用で」
「夜分にすまないが」
栄吾は自分の名を告げた。
「実は市中でこちらの犬を見かけてな。一目で気に入ってしまった。譲ってはもらえないだろうか」
男は眉をひそめ、静かに言った。
「なにかのお間違かと。手前どもでは、犬など飼っておりません」
「いや、そんなはずはない」
栄吾は言いつのった。
「川井小路からずっと後をついて来たのだ。確かにこの家に入った。おぬしが帰ったのと同じ時だったな。声が聞こえた」
「それは・・・」
男は口ごもった。栄吾は男をひたと見つめた。
「中にいるのだろう」
男は目をそらし、黙り込んだ。
「隠すことはないではないか」
栄吾は、荒らげた声を低くした。
「おや、帯に白い毛がついているが」
男ははっとして帯を見た。その表情が、栄五の求める答えを語っていた。
栄吾は、男ににやりと笑いかけた。
男は観念したように、
「お入り下さい」
男の家は小間物屋だった。棚に櫛やら口紅やらが置いてある。
細面の美しい女が顔をのぞかせ、不思議そうに頭を下げた。男の女房なのだろう。
男はかまわなくてもいいといったふうに首を振り、栄吾を奥の間に導いた。栄吾はあたりを見まわしたが、犬の気配はない。
安兵衛と名乗った男に栄吾は、
「で、犬はどこに?」
安兵衛は行燈に火をつけると、栄吾の前に座った。
しばらく黙り込み、やがて声を落として言った。
「あれは、私でございます」
栄吾は息を吞んだ。
ゆらぐ行燈のあかりが、安兵衛の影を深くしていた。
「これ以上隠し立てをしても、あなたさまは周りで犬のことをお尋ねになるでしょう。みなに不審に思われては、女房が可哀想だ」
安兵衛は、ひと息に言った。
「人ならぬ身でありながら、長い年月、人に混じって暮らしてまいりました。この家の婿になり、女房にも満足し、人並み以上の幸せを味わっているはずなのに、時折どうしようもなく魔性が蘇るのです」
「魔性か」
栄吾は、呆然とつぶやいた。安兵衛の目は、暗く悲しげだった。
「処刑があるたび、人の血をなめて自分をなだめておりました。あなたさまにその浅ましい姿を見られていたとは」
安兵衛は両手をつき、うなだれた。
小刻みに震える男の肩を、栄吾はただただ見つめていた。
「正直に申しました。お願いでございます。このことはどうぞご内密に。化け犬が虫のいいことをとお思いでしょうが」
心底驚いていたものの、栄吾は安兵衛が哀れになった。人に害をなすわけでもなく、これまで慎ましく生きてきたのだ。自分が咎めることではないだろう。
「よく打ち明けてくれたな」
栄吾は言った。
「むろん、誰にも言うつもりはない。ただ、ひとつ、頼みがあるのだ」
「私にできることでしたら、どんなことでも」
「ありがたい。犬をさがしていたのも、そのためでな」
栄吾は太平山でのことを安兵衛に話した。
「私は、どうあってもハクの仇をとってやりたい。力を貸してくれ」
「それはたやすいこと」
安兵衛はほっとしたように頷いた。
「承知してくれるか」
「お任せ下さい」
「早速、明日」
「それでは明日の夜明けごろ、七軒町の外れでお待ちしています」
「よろしく頼む」
栄吾は言った。
「首尾よくいけば、おぬしにはもう迷惑をかけん」
しかし、その純白の毛並みはハクよりもはるかに美しい。
四肢は長く、鼻筋がすっと通っている。太い尾、ぴんと立った耳。しなやかで、強靱そうな体つきは、狼をも思わせる。
栄吾が求めていた通りの犬だった。
それが、脇目もくれず東の方へ駆けていく。
栄吾は魅せられたように犬の後を追いかけた。
犬は、松川の橋を渡り、河原に下りた。川辺を辿って行き着いたのは、下河原の刑場だった。
いつしか日も暮れ、満月に近い月が上っていた。
静かに流れる川は月明かりを映していた。川面も犬のつややかな毛並みも、光をふくんでいるかのようだった。
川石に、何か所か黒ずんだ大きな染みが残っていた。今日処刑された罪人の血だ。
しばらくそれをなめ続けた犬は、やがて月を見上げ、刑場に背を向けた。
飼い主の元に戻るのか。
これほどみごとな犬が、野良犬であるはずはないと栄吾は確信していた。誰が飼っているかつきとめ、頼み込んで譲ってもらうことにしよう。
栄吾は、来た時よりも早足な犬の後をつかず離れず追いかけた。犬は再び橋を渡って川井小路に戻り、柳町をすぎて商家が並ぶ東町に入った。
東町のとある家の前で犬は歩みをとめた。
家の戸はわずかに開いている。犬はするりと戸をくぐった。
「あら、お帰りなさいませ」
戸が閉まると、家の中から若い女の声が聞こえた。
「遅うございましたこと」
「すまんな。いろいろ用を足しているうちにこんな時間になってしまったよ」
こんどは男の声だ。
今入ったのは、犬だけだったはず。
栄吾は首をかしげた。別の出入り口でもあるのだろうか。
ともあれ、犬がこの家にいるのは間違いあるまい。飼い主に話をしてみよう。
栄吾は戸を叩いた。
ほどなく、手燭を持った主が現れた。
三十路を越えたぐらいの優男だ。見知らぬ栄吾に、不思議そうに、
「どなたさまでございましょう。何のご用で」
「夜分にすまないが」
栄吾は自分の名を告げた。
「実は市中でこちらの犬を見かけてな。一目で気に入ってしまった。譲ってはもらえないだろうか」
男は眉をひそめ、静かに言った。
「なにかのお間違かと。手前どもでは、犬など飼っておりません」
「いや、そんなはずはない」
栄吾は言いつのった。
「川井小路からずっと後をついて来たのだ。確かにこの家に入った。おぬしが帰ったのと同じ時だったな。声が聞こえた」
「それは・・・」
男は口ごもった。栄吾は男をひたと見つめた。
「中にいるのだろう」
男は目をそらし、黙り込んだ。
「隠すことはないではないか」
栄吾は、荒らげた声を低くした。
「おや、帯に白い毛がついているが」
男ははっとして帯を見た。その表情が、栄五の求める答えを語っていた。
栄吾は、男ににやりと笑いかけた。
男は観念したように、
「お入り下さい」
男の家は小間物屋だった。棚に櫛やら口紅やらが置いてある。
細面の美しい女が顔をのぞかせ、不思議そうに頭を下げた。男の女房なのだろう。
男はかまわなくてもいいといったふうに首を振り、栄吾を奥の間に導いた。栄吾はあたりを見まわしたが、犬の気配はない。
安兵衛と名乗った男に栄吾は、
「で、犬はどこに?」
安兵衛は行燈に火をつけると、栄吾の前に座った。
しばらく黙り込み、やがて声を落として言った。
「あれは、私でございます」
栄吾は息を吞んだ。
ゆらぐ行燈のあかりが、安兵衛の影を深くしていた。
「これ以上隠し立てをしても、あなたさまは周りで犬のことをお尋ねになるでしょう。みなに不審に思われては、女房が可哀想だ」
安兵衛は、ひと息に言った。
「人ならぬ身でありながら、長い年月、人に混じって暮らしてまいりました。この家の婿になり、女房にも満足し、人並み以上の幸せを味わっているはずなのに、時折どうしようもなく魔性が蘇るのです」
「魔性か」
栄吾は、呆然とつぶやいた。安兵衛の目は、暗く悲しげだった。
「処刑があるたび、人の血をなめて自分をなだめておりました。あなたさまにその浅ましい姿を見られていたとは」
安兵衛は両手をつき、うなだれた。
小刻みに震える男の肩を、栄吾はただただ見つめていた。
「正直に申しました。お願いでございます。このことはどうぞご内密に。化け犬が虫のいいことをとお思いでしょうが」
心底驚いていたものの、栄吾は安兵衛が哀れになった。人に害をなすわけでもなく、これまで慎ましく生きてきたのだ。自分が咎めることではないだろう。
「よく打ち明けてくれたな」
栄吾は言った。
「むろん、誰にも言うつもりはない。ただ、ひとつ、頼みがあるのだ」
「私にできることでしたら、どんなことでも」
「ありがたい。犬をさがしていたのも、そのためでな」
栄吾は太平山でのことを安兵衛に話した。
「私は、どうあってもハクの仇をとってやりたい。力を貸してくれ」
「それはたやすいこと」
安兵衛はほっとしたように頷いた。
「承知してくれるか」
「お任せ下さい」
「早速、明日」
「それでは明日の夜明けごろ、七軒町の外れでお待ちしています」
「よろしく頼む」
栄吾は言った。
「首尾よくいけば、おぬしにはもう迷惑をかけん」